第24話 炎上
犬千代は夢を見ていた。
時の彼方に埋もれていた記憶。狼が見つめている。優しい懐かしい眼差し。それが哀しげに揺らいで、背を向けて遠ざかっていく。犬千代は呼び止める声も持たなかった。
やがて銃声が響いて、犬千代は荒れ果てた古寺の境内にいた。まだ、ほんの子どもだった。木につながれた野犬が吠えたてている。
「こいつを斬ったら今日からおまえも大人だ」
15歳の天一郎が犬千代に刀を突きつけた。犬千代には触れない。それは人を殺す刀だ。
「意気地がないな。俺の配下にしてやろうと思ったのに」天一郎の目と声に宿る侮蔑の色。「なら、こうしよう」
犬千代は別の木に荒縄で縛りつけられていた。
「これから俺は親父を斬る」
冗談だと思った。
「親父は俺を嫌っている。目を見れば分かるんだ。こいつには才能がない。こいつには見込みがない。そういう目をしてる。それ以上にあいつは俺の本性を見抜いているんだ」
ほんしょう? 幼い犬千代には、その意味が解らない。
「俺は人を斬りたいんだ。野犬を試し斬りして初めて分かった。斬りたくて斬りたくてたまらない。生き物を斬ったときの興奮が忘れられないんだ」
天一郎の目が恐くてたまらない。
「だが、そんな剣は邪道だと親父は言うだろう。貧乏道場の主のくせに。俺は親父みたいな生き方はしない。親父は、この片田舎で名もなく貧しく死んでいく。俺は、人を斬って、のし上がってやるんだ。人斬り天一郎として天下に名を馳せる。たぶん、親父は、そんな俺に気づいている。俺のやろうとすることの邪魔をするだろう。だから、最初に斬るのは親父と決めた」
もう疑わない。天一郎は本当のことを言っている。
「こんなガキに親父が斬れるかって? ガキだから斬れるのさ。さすがの赤羽精一郎も、まさか実の息子に斬られるとまでは思っていまい」
ここにいたくない。でも、縄が切れない。
「で、親父を斬ったのは、おまえということになる」
何で?
「俺が役人にそう言うからだ。拾ってもらった恩を仇で返したみなし子。奴が殺して逃げたと言う。そうじゃない、と言ったってムダだ。おまえみたいな馬の骨の言うこと、誰が信じる。ま、運が良ければ逃げられる。頑張ることだ」
動物の唸り声が聞こえていた。それが自分の内側から聞こえることに、犬千代は気がついた。
「さて、景気づけにこいつでも斬るか」
天一郎が刀を抜いて犬に歩み寄る。激しく犬は吠えたてる。
犬千代は必死に身をよじった。縄は切れない。唸り声はどんどん大きくなる。外に出たいと吠えたてる。
「知ってるか。血の色ってきれいなんだぞ」
犬は牙を剥き出して吠え続ける。たぶん自分が死ぬことも悟っている。凶暴で悲痛な虚しい抵抗。
天一郎が刀を冗談に振り上げた。どこを斬れば1番血が出るか考えている。
「黙れ、畜生!」
狂刃が振り下ろされた。その瞬間、犬千代の中で何かが弾けた。同時に体を縛っていた縄が千切れた。
振り向いた天一郎の顔に恐怖がはりついていた。首筋から血しぶきが飛んで、返り血を浴びた。
叫び声とともに犬千代は目覚めた。
「どうした? 悪い夢でも見たか?」
藤村道庵が顔をのぞき込んだ。
「私は、いったい?」
「流れ弾に当たったようだ。堀に浮かんでいるところを見つけた人がいてな。ここに運ばれたというわけだ。ここは臨時の療養所だ」
道庵は笑った。上半身に包帯が巻かれている。
「鉄砲隊のバカは化け物を撃ったなんて言ってたが、酔っ払ってでもいたんだろう。迷惑な話さ」
「精一郎さまと天一郎さまは?」
「仲良く残党狩りに出ておる。あのふたりも、ようやくわだかまりが解けたようだの。いい父子に戻った」
「ダメだ!」
犬千代は立ち上がった。激痛が走ったが、そんなことはどうでもいい。よろける足で出口に向かった。体が、まだ思う通りに動かない。出口のところで文とすれ違った。
「犬千代?」
犬千代は返事もせずに外へ飛び出した。
父子は、武石半兵衛の死体を検分していた。
「飼い犬に手を噛まれたわけか」
息子がつぶやいた。
「獣が野に放たれたのかもしれんな」
父が答えた。
海原城の天守は、まだ燃え続けている。城下を照らす蝋燭のように美しく輝いている。
「海原藩も、もうおしまいですかな」
炎を見上げて息子は静かに息をついた。
「そんなことはあるまい。おまえたち若い者が立ち直らせればよい」
父は息子の肩に手をおいた。
「できるでしょうか?」
「おまえならできる」父は珍しく断言した。「わしは、おまえのことを見誤っていた。おまえは立派に大きくなった。すまん」
「初めて認めてくれましたね」
息子のまっすぐな眼差しに照れて父は下を抜いた。
そのとき、隠れていた刃が父の胸をえぐった。
「なぜ……?」
「私がここに帰ってきた本当の理由を教えましょうか」息子は耳元で囁いた。このセリフを言えるのが楽しみでしょうがなかったとでもいうように。「あなたに復讐するためですよ」
父はよろよろと後ろへさがった。言葉は出ない。ただ、その表情が驚きと失望と諦めを語っていた。
「あなたは間違ってなんかいなかったのさ」
息子は、そんな父の顔を一刀両断にした。
犬千代が駆けつけたとき、天一郎はすでに姿を消していた。臭いだけを残して。
「天一郎が、天一郎がやったんですか?」
精一郎には、まだ息があった。
「そうだ。だが、このことは文には決して告げるな」
文の足音がする。
「犬千代!」匂いが近づいてくる。「父上? 父上なの?」
文の方に顔を上げようとする犬千代の襟元をつかんで精一郎がグッと近づけた。瀕死の怪我人の力とは思えない。
「文のことを頼む……」
犬千代は、ただうなずくだけだった。
「父上!」
異変を知って、文が精一郎にすがりついた。
「誰が? 誰がこんなことを?」
「分かりません。来たときには、もう……」
犬千代は嘘をついた。約束どおり。
「文……」精一郎の声は切れ切れでか細い。「道場のことは忘れろ。赤羽家のことも、仇のことも忘れろ」
「どういうこと?」
「そんな生き方はつまらんぞ。何物にも縛られず、おまえが思うとおりに生きるんだ。そんな時代がもうすぐ来る。約束してくれ……この父に……」
「分かった約束する。私が思うとおりに生きる」
「よかった……約束だぞ……」
赤羽精一郎。最後は微笑んで逝った。
泣き続ける文を犬千代は無言で見守っていた。
「犬千代!」
不意に文は立ち上がった。最後の涙は風が運んでいった。
「行きましょう」
「どこへ?」
「父の仇を討つのです」
「ですが、精一郎さまは仇のことは忘れろと」
「父との約束は守ります。ただし、仇を討ったあとで」
「でも……」
「文句ある?」
「いいえ……」
「仇の臭い、分かるんでしょう?」
「……はい」
文と犬千代は旅立った。赤羽精一郎の仇を求めて。
燃え落ちる寸前の海原城がふたりを送り火のように見送っていた。
幕末人狼伝 竹田康一郎 @tahtaunwa
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