第20話 鉄球
「武石様、ここは私が引き受けました。お早くお行きください」
不破十蔵が馬上の武石半兵衛に向かって叫んだ。
「十蔵か。あとは任せたぞ」
武石を乗せた馬が走り去っていく。兵たちも、そのあとを慌ただしく追った。
犬千代にはどうすることもできなかった。十蔵が行く手に立ちふさがっているのだ。
「こっそり護衛していた甲斐があったぜ」
十蔵は嬉しそうに舌なめずりをした。
一魔の臭いに気を取られて、こいつの臭いに気づかなかったのか。犬千代は、頭の中で舌打ちした。
「おまえに斬り落とされた腕の仇を取ってやるぜ。ま、おかげでもっといい腕が手に入ったがな」
十蔵の頭上で鉄球が踊っている。生まれ持った体の一部のように自由自在に操っている。
「それにしても、しばらく会わないうちにその恰好が似合うようになったじゃないか」
すでに人狼化している犬千代に十蔵は目を細める。別に愛おしいわけではあるまい。その証拠に獲物を目の前にしたときのような舌なめずりを続けている。
「この前より楽しませてくれそうだ」
頭上で振り回される鉄球が闇を斬り裂く。鉄球が回るたびに十蔵の体から人間の部分が失われていった。獣の部分が色濃くなるにつれて、鉄球の速度が速くなり、威力を増していく。ついには完全に人狼と化した。
飛んでくる鉄球を間一髪で犬千代は跳んで避ける。あえてそうしていた。この敵とひとつにならなければならないのだ。
犬千代は刀を頭上で回し始めた。
「何を始めた?」
十蔵の毛だらけの眉間に皺が寄った。犬千代は答えない。同じ動作を繰り返している。
「ただのコケオドシか。子ども騙しよな」
苛立ちとともに鉄球が飛んでくる。今度も犬千代はギリギリで跳びのいた。十蔵が鉄球を投じた瞬間、犬千代も刀を投げる動作をしたことに十蔵は気づいていない。
犬千代は焦っていた。十蔵を映す鏡になれない。鏡になるには心を落ち着け、波ひとつない凪いだ水面にならなければならないのだ。だが、飛んでくる鉄球がその邪魔をする。水鏡は飛び道具に対しては不向きなのだろうか? それに鏡になれたとしても、刀と鉄球では射程距離が違い過ぎる。焦りの間にも鉄球は容赦なく飛んでくる。反乱軍は城に近づいている。
焦るな。焦ったところで物事は好転しない。今は、この目の前のこの男を倒すことに集中するのだ。あとのことはそれから考えろ。犬千代の声と心中の獣の声が同時に囁いた。
犬千代の内で鏡が澄んでいく。突然、見えた。鉄球を頭上で回すときと犬千代に向かって投じるときの肘の筋肉のわずかな違いが。
次は回す! 案の定、鉄球は十蔵の頭上で円を描いた。
来る! 予想通り鉄球は飛んできた。今までどおり間一髪で避けたが、もはや余裕だった。怖れるものは何もない。
「今でも、おまえに斬り落とされた腕がかゆくなることがある。あの腕が俺にねだっているのよ」
十蔵は明らかにイライラしている。そのことが犬千代には手に取るように分かった。水鏡に映っていた。
「仇を討ってくれとな!」
いままでになく大きな円で鉄球が回った。だが、回し始めるより一瞬速く、犬千代は風となって懐に飛び込んでいた。十蔵も、そのことに気づいていたが、回し始めた鉄球はすぐには止まらない。犬千代は、十蔵の横を駆け抜けた。鉄球は半周もしないで、地面に落下した。続いて、十蔵も前のめりに倒れた。鉄球も十蔵も、もう動かない。犬千代は、すでに人の姿に戻り、刀も鞘におさめていた。
「それがおまえの身に着けた奥義か?」
感情を排除した声が闇の中から聞こえた。
「赤羽寒月流・水鏡」
犬千代は、一魔がどこかで見ていることを知っていた。
一魔は、人の姿に戻って倒れている十蔵を黙って見下ろしている。
「おまえは俺から多くのものを奪った」やはり、何の感情もうかがわせない声。「だが、もう何も奪わせはしない」
表情の欠落した顔の中で目だけが異様に赤く燃えている。
だが、犬千代には、それよりも気がかりなことがあった。なぜだ? 今は、まずい。
「おや? また、あの女の臭いがするぞ」一魔が風上に鼻を向けた。「どうやら追っ手はやり損ったらしい」
「犬千代!」
人魂のようなたいまつの明かりが近づいてくる。それはすぐに文になった。
「やっと追いついた」
文は、犬千代の肩にすがって大きく息をしている。
「なぜ、来たのです? 精一郎さまへの知らせは?」
「あれは兄上に任せました。森の中でばったり会って。兄上、生きていたんです」
今の犬千代の頭に天一郎の生存を処理している余裕はなかった。それより……。
「文さんも行ってください! 早く!」
「何よ。せっかく心配して追いかけてきたのに」
文は、そのとき初めて、路上に倒れている不破十蔵の亡骸に気がついた。その横に立っている小柄な男の存在にも。
「誰?」
「お話しをうかがっていると赤羽道場の御息女のようだ。拙者の名前は霧山一魔」
何が面白いのか、一魔の口元が嫌らしく笑っている。
「霧山一魔って、あの!?」
文は刀を抜いて片手で身構えた。
「ここは任せて!」犬千代は文と一魔の間に割って入った。「文さんは御父上のところへ」
「いやです! ここであなたの戦いを見届けます」
「邪魔だって言ってるだろ!」
犬千代の叫びに文はギョッとした。体も表情も固まった。
「いいではないか。我らの本当の戦いを見せてやれば」
一魔の笑みが大きく深くなった。地獄へ続く地割れのように。そこに悪意のマグマが沸々としている。
「どうやら、おまえの主人は、その女らしい」
「違う! 私と文さんはそんな関係ではない」
「何を言ってるの?」
文にはふたりの会話の意味が解らない。
「おまえが認めようと認めまいと、おまえはその女の飼い犬なのよ」
「違う」
「飼い犬って、どういうこと?」
犬千代の狼狽ぶりが文の不安を大きくする。
「どうせ、その女の前では本性を見せたことがないのだろう。くだらん」
一魔の最後の言葉には侮蔑がこめられていた。
「俺の本当の力を、姿を見るがいい!」
一魔は腰の刀を抜いた。月をも斬れそうな長い刀身が闇に揺れた。その揺れが治まったとき、一魔は、すでに銀色の獣に変じていた。たいまつの明かりにその毛が月のように輝いた。もっと安全なところから見ていたら、美しいとさえ思っただろう。
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