[4] オデッサ包囲戦

 プルート河南方ではルーマニア第四軍も攻勢に転じ、ベッサラビア南部へと突進した。

 7月16日、ルーマニア第4軍はベッサラビアの中心都市キシニョフを奪回し、黒海に面した重要な港湾都市であるオデッサを占領しようとしていた。

 この事態を受けて、南部正面軍司令官テュレーネフ上級大将は第9軍に対してキシニョフの奪回を命じた。第9軍は第2機械化軍団(ノヴォセリスキー中将)、第2騎兵軍団(ベロフ少将)と第48狙撃軍団(マリノフスキー少将)による奪回作戦を計画した。しかし「最高司令部」から予備兵力(第16機械化軍団など)をジトミールで奮戦する南西部正面軍に譲渡するよう命じられ、南部正面軍は反撃を中止せざるを得なくなった。

 7月18日、ルーマニア第4軍はオデッサを包囲することに成功した。ベッサラビアから東に退却していた第9軍から3個狙撃師団(第25・第51・第150)と若干の支援部隊が切り離されてしまった。これらの部隊は「最高司令部」の命令で、独立沿海軍(ソフロノフ中将)として再編された。

 黒海有数の商業港であるオデッサは1905年に戦艦「ポチョムキン」の水兵が反乱を起こした場所でもあった。ロシア革命ゆかりの地において、ルーマニア軍とソ連軍の間で熾烈な攻防戦が繰り広げられることになった。

 8月5日、モスクワの「最高司令部」は独立沿海軍にオデッサの防衛を命じた。この時点でオデッサの市街地に展開していた兵力は2個狙撃師団(第25・第95)と第1騎兵師団だけだった。

 8月8日、ルーマニア軍総司令部は第4軍に対して「命令31号」を下達した。この指令はオデッサに対する総攻撃を命じる内容であり、ルーマニア第4軍は同市を包囲する陣形を形成した。

 ルーマニア第4軍によるオデッサ攻撃作戦は2個軍団(第1・第3)が主攻勢としてオデッサの外郭防衛線を北西から突破し、第5軍団が北翼から支援するというものだった。オデッサの外郭防衛線は市街地から25~30キロ離れた位置で弧を描いて構築されており、ソ連軍はこの内側にさらに二重の陣地線を用意していた。

 8月10日、ルーマニア第4軍はオデッサに対する総攻撃を開始した。独立沿海軍の外郭防衛線は数か所で突破され、翌11日には第5軍団に所属する第1機甲師団がオデッサの北で第2防衛線の内側まで進出した。

 独立沿海軍は約250門の火砲で防御支援砲撃を実施し、黒海艦隊が擁する27隻の艦艇からも艦砲射撃を加えられた。

 8月13日、ルーマニア軍総司令官アントネスク元帥は攻撃の一時停止を命じた。第4軍の損害が急激に増加したため、オデッサ北西部に対する兵力の一部を交代させるように部隊の配置換えを行った。

 8月16日、ルーマニア第4軍のオデッサ総攻撃は再開した。市内に水道を供給する貯水場が翌17日にルーマニア軍に奪取された。しかし戦闘経験が乏しいルーマニア軍は頑強な抵抗を見せるソ連軍の前線に対して、単調な攻撃を繰り返して人的損害を増大させていった。

 ルーマニア第4軍は8月24日までに、軍全体の損害が戦死者5329人、負傷者1万8600人を含む2万7307人に達していた。予想をはるかに上回る人的損害にショックを受けたアントネスクは同月17日の夜、再びオデッサ攻撃の中止を命じる。

 オデッサの情勢悪化を重視したモスクワの「最高司令部」は独立沿海軍と黒海艦隊の連携を強化するべく、8月19日付けで「オデッサ防衛地域」司令部を創設した。

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