[2] 転換点

 ヒトラーが8月12日付けで示した「総統指令第34号」の補則では、南方軍集団には当面の目標として「ドニエプル河西岸になお残存する敵部隊を可能な限り殲滅し、すみやかにドニエプル河東岸に複数の橋頭堡を確保する」が挙げられていたが、ドニエプル河東岸に橋頭堡を確保した後の作戦については何も記されていなかった。

 8月27日、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は今後とるべき作戦の方針について、キエフ突出部の包囲を示唆する内容の意見書を陸軍総司令部に提出した。

「第17軍は、第6軍および第2軍と連携すべく、クレメンチュグ橋頭堡から北西の方角へと進ませる。そして、第1装甲集団は同橋頭堡から北方へと進撃させて、第2装甲集団と合流させる」

 陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と陸軍参謀総長ハルダー上級大将は依然として「モスクワへの進撃」という方針に固執していたため、ルントシュテットの意見書に何の反応も示さなかった。ヒトラーは意見書に込められた重大な意味を感じ取り、ルントシュテットの方針に賛同する構えを見せた。

 キエフ突出部の南西部正面軍を包囲・殲滅するというルントシュテットの方針は「バルバロッサ」作戦の基本方針である「短期決戦による敵軍事力の殲滅」に適うものであった。ヒトラーはもしこの包囲戦が完遂できれば、ソ連は「半身不随」になるはずであるという結論に達したのである。

 9月6日、ヒトラーは「総統指令第35号」を下達した。それはついに、最高司令官であるヒトラーが陸軍総司令部の提案し続けていた「赤い首都」モスクワへの進撃に具体的な承認を下した内容だった。

「レニングラードでの包囲陣形成の進捗と相まって、中央・南方軍集団の側面に挟まれた地域における勝利が、中央軍集団を攻撃中のティモシェンコ軍集団に対して決定的な打撃を与える条件を醸成した。この敵軍集団を限られた時間内、すなわち冬将軍の到来前に撃破・殲滅しなくてはならない。

 クレメンチュグとキエフ、コノトプを結ぶ三角地帯の敵部隊は、中央軍集団の南翼(第2装甲集団)による攻撃で協力しつつ、ドニエプル河を越えて北上する南方軍集団の部隊(第1装甲集団)で殲滅する。目的を達した後、状況が許せば任務終了で解放される第2装甲集団などの部隊を、新たな作戦(モスクワ攻勢)に備えて再編する。

 ティモシェンコ軍集団に対する作戦(モスクワ攻勢)は、可能なかぎり早い時期、すなわち9月末ごろに開始できるよう計画する。その概要は、ヴィアジマ方面の敵を挟撃する形をとり、両翼に強力な装甲兵力を配備して進み、スモレンスク東方に展開する敵部隊を撃破する。

 時間を節約し、予定を早めれば、作戦自体とその準備に好都合である」

 キエフ周辺の外周陣地を除いて、ドニエプル河西岸から一掃された南西部正面軍は防御態勢の再構築を進めていた。特にキエフとそれより南のドニエプル河東岸に面する400キロに及ぶ前線を1個軍(第26軍)だけで守ることは不可能だった。

 8月8日、第4機械化軍団を拡張させる形で第37軍が創設され、第4機械化軍団長ヴラソフ少将が第37軍司令官に就任した。第37軍はキエフ外周陣地を管轄し、第5軍と第26軍の中間部に位置するキエフ市の防衛を担うことになっていた。

 8月19日、第2空挺軍団をはじめとする残存部隊を統括する司令部として第40軍が設置され、同軍司令官にはポドラス少将が就任した。第40軍は第21軍の東翼で第2装甲集団の行く手を遮るようにコノトプ周辺に展開した。

 第26軍の下流に位置するチェルカッスィの北では、第8機械化軍団を拡張させ、第38軍が創設された。第8機械化軍団長リャブイシェフ中将が第38軍司令官に就任した。編兵当初は2個狙撃師団(第116・第212)しか配属されていなかったが、後に増援部隊で増強する予定になっていた。

 しかし、第17軍が8月31日、南翼のクレメンチュグ東方で最後の天然障害であるドニエプル河に橋頭堡を築き、弱体な第38軍の防衛線を突破したという報告は、南西部正面軍司令官キルポノス大将に自身の防衛計画を根本から揺るがすほどの衝撃を与えた。彼は即座に手持ちの予備兵力をかき集めて第38軍に送り込み、9月8日に敵の橋頭堡を粉砕するよう全力で反撃せよと第38軍に下命した。

 9月7日、キルポノスはキエフ北方の沼沢地で防御を続ける第5軍を再びデスナ河の南東に撤退させる許可をスターリンに求めた。2日後にこの撤退を承認された。これにより、バルト海から黒海までの約1800キロにわたるドイツ軍の戦線が開戦以来、はじめて途切れなくつながったのである。

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