[5] ウマーニ包囲戦

 ルーマニア軍の進撃が一定の成功を収めたことで、南西部正面軍はリヴォフで突出していた戦線を縮小せざるを得なくなった。南西部正面軍の南翼に展開する第6軍・第12軍はヴィンニッツァ、南部正面軍の第18軍もウマーニの南方まで後退した。

 南方軍集団は7月19日付の「総統指令第33号」に基づき、攻勢の主軸をキエフ正面からドニエプル河下流へと差し向けた。ベルディチェフ周辺から第48装甲軍団が南進を開始し、リヴォフから東方に向かっていた第17軍とともに、第6軍・第12軍の退路を切断しようとしていた。

 7月16日、第17軍はヴィンニッツァ付近で第6軍・第12軍を包囲しようとした。しかし歩兵部隊だけでは退却中の南西部正面軍を捕捉することが出来ず、この包囲は失敗に終わってしまった。度重なる交戦に疲弊しながら、南西部正面軍の残存部隊はヴィンニッツァ南東のウマーニへと脱出した。

 7月21日、第48装甲軍団の先鋒がウマーニの北西50キロに位置するモナストィリシチェを占領した。この街には24時間前まで南西戦域軍司令部が置かれていた。

 7月23日、ベラヤ・ツェルコフィを占領した第14装甲軍団(ヴィッテルスハイム大将)はウマーニの東方を流れるシニュハ河の東岸に北から進出し、徒歩で退却中の南西部正面軍の前方を遮断することに成功した。第6軍・第12軍は南方へと脱出しようとしたが、第14装甲軍団に追いつかれ、ウマーニ南東で包囲されてしまった。

 7月30日、第6軍の第44軍団(コッホ大将)がウマーニの市街地を占領した。

 8月2日、第14装甲軍団の第9装甲師団(フービッキ中将)と第17軍の第1山岳師団(ランツ少将)がシニュハ河畔のトロヤンカで合流を果たした。この合流により、南方軍集団による最初の包囲網が形成されたのである。退却中の第6軍・第12軍がウマーニ周辺で包囲されたことを知ったキルポノスは第26軍に対して反撃を命じる。

 8月7日から8日にかけて、ドニエプル河のカーネフ南西で第26軍が反撃を実施した。南方軍集団は第17軍の第4軍団(シュヴェドラー大将)をドニエプル河西岸に派遣し、この反撃を頓挫させることに成功した。

 ウマーニの包囲網はぞくぞくと到着する第17軍の歩兵部隊によって強化され、ハンガリー機動軍団もこの攻囲に加わった。空からは第4航空艦隊の第5航空軍団に所属する爆撃機が幾度も空襲を行い、混乱した第6軍・第12軍の残存部隊を殲滅していった。同じ時期にベッサラビア北部から退却していた第18軍も第11軍・第17軍の挟撃を受けて壊滅してしまった。

 ウマーニ包囲戦は8月8日までにほぼ終了し、その5日後には最後の抵抗拠点に潜むソ連軍が投降した。南西部正面軍は第6軍司令官ムズィチェンコ中将と第12軍司令官ポネデーリン少将を含む10万3000人の兵員が捕虜となった。戦車317両、火砲1100門が鹵獲・破壊された。南部正面軍は第9軍をオデッサで拘束され、第18軍をウマーニで壊滅させられたことで組織的な防衛を行う術を失ってしまった。

 ヒトラーはウマーニ包囲戦の戦果を受けて、キエフ以南のドニエプル河西岸におけるソ連軍の防衛線に大穴を開けたことに満足し、「南部に攻勢の重点を置く」という自らの戦略に過剰な自信を抱くことになった。一方、同時期にスモレンスク攻防戦を終了させた中央軍集団と陸軍総司令部はヒトラーとは異なる思惑を抱いていた。そして、これから約1か月に渡って、この両者の思惑が大きな波紋を陸軍内部に広げていくことになる。

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