第11章:キエフ包囲戦

[1] 背後の敵

 ウクライナの首都キエフを頂点として大きく西へと張り出した「キエフ突出部」を両翼から挟撃するというルントシュテットの構想はその実、ヒトラーと陸軍上層部の現実的な選択肢の中には含まれていなかった。

 8月25日、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将はヒトラーの意向に従って、2個装甲軍団(第24・第47)に対して南方への攻撃を命じた。ヒトラーはグデーリアンに対し、当面の攻撃目標としてコノトプを目指すよう指示していた。

 8月26日、第24装甲軍団の先鋒をゆく第3装甲師団はブリャンスク正面軍と南西部正面軍の境界を切り裂くように進撃して、デスナ河西岸のノヴゴロド・セヴェルスキーに到達した。東翼を進む第47装甲軍団も一定の前進を果たしたが、投入可能な兵力が不足していたため、予定以上の進撃は成し遂げられなかった。

 作戦が進展しないことに苛立ちを覚えたグデーリアンは同日、陸軍総司令部に電話をかけた。後方予備に回されていた第46装甲軍団と第2軍の東翼にいる歩兵師団を自分の指揮下に編入してほしいと要請したのである。しかし、陸軍参謀総長ハルダー上級大将はグデーリアンの要請を却下し、逆に「出過ぎたマネはするな」と叱責した。

 グデーリアンの脳裏に、8月23日の光景が浮かんだ。ヒトラーが「戦時経済はご存知ではない」と言い切り、グデーリアンは頭に血が上がる思いだったが、ならばヒトラーの希望する「南進」作戦を早々に決着させ、「赤い首都」モスクワへの進撃に備えようと決意を新たにしていた。

 会議の終了後、グデーリアンは事の顛末をハルダーに説明した。ヒトラーを翻意させることを期待していたハルダーは怒りを爆発させた。この出来事をきっかけにして、ハルダーはグデーリアンに対して深い失望と憤りを抱くようになり、2人の信頼関係は完全に崩壊してしまった。

 第2装甲集団の西翼では、第2軍の進撃が思わぬ形で中央軍集団に有利な方向に傾いていた。

 8月19日、ゴメリを第21軍から奪取した第2軍は、今までキエフ西方で堅固な防護を続けていた第5軍の後方連絡線であるチェルニゴフからコロステニに至る鉄道線を脅かす位置にまで進出していた。モスクワの「最高司令部」は同日に第5軍に対し、ドニエプル河東岸への撤退を命じた。

 8月23日、南西部正面軍はキエフ周辺の外周陣地を除いて、ドニエプル河西岸から一掃された。キエフからドニエプロペトロフスクまでの400キロに及ぶ前線がドニエプル河の河畔に沿って繋がったことになる。

 西翼の第2軍と連携して「南進」を迅速に終了させたいと考えていたグデーリアンは繰り返し陸軍総司令部に増援の要請を行った。8月30日にようやく送られてきたのは第46装甲軍団の「大ドイツ(グロスドイッチュラント)」自動車化歩兵連隊だけだった。

 グデーリアンが「背後の敵」とも言えるハルダーとの押し問答を続けている間にも、第2装甲集団の各部隊は消耗し、秋雨でぬかるんだ地面に苦しめられながらも、デスナ河を押し渡って南西部正面軍の防衛線を突破して南方への進撃を続けていた。

 9月1日、グデーリアンは増援の要請を無線で中央軍集団司令官ボック元帥に当てて打電させた。その結果、当日にドイツ軍唯一の騎兵部隊である第1騎兵師団が送られ、翌2日からようやく第46装甲軍団に所属する全ての部隊がグデーリアンの指揮下で「南進」に参加することになった。

 9月2日、第2航空艦隊司令官ケッセルリンク上級大将が第2装甲集団司令部を訪れた。ケッセルリンクは南方軍集団がクレメンチュグでドニエプル河の橋頭堡を築いたことに加え、ヒトラーの様子も伝えた。

「総統は貴官の行動を支持しておられる」

 グデーリアンは訝った。南方軍集団との協同作戦については保留とされている現状で、ヒトラーがもともと「モスクワへの進撃」の布石を打つために行ったグデーリアンの「南進」を支持するとは皮肉めいたものを感じさせた。しかし、ケッセルリンクが示したヒトラーの「支持」の背景には、ある巨大な包囲戦の意図が存在していた。

 それはポエニ戦役のカンネーの戦いを並び称される、「史上空前の大包囲戦」―キエフ包囲戦である。

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