[4] 破局

 9月11日、スターリンは南西戦域司令官ブジョンヌイ元帥を罷免し、後任に西部戦域司令官を務めたティモシェンコ元帥を命じた。そして、南西部正面軍司令官キルポノス大将に対しては次のような命令を下し、キエフ放棄の準備を指示した。

「デスナ河東方のプショール河に新たな防衛線を前もって形成することと、ブリャンスク正面軍と連携してコノトプ方面の敵(第2装甲集団)に打撃を加えること。この2点が満たされない限り、南西正面軍の東への退却開始は敵の包囲という罠に陥る可能性がある。撤退の際にはドニエプル河に架かる全ての橋を爆破し、小舟に至るまで全ての渡河手段を敵の手に残さないように注意せよ」

 これに対し、キルポノスはこのように答えた。

「撤退予定線や退却計画についてはまだ何も研究しておりません」

 この答えに気分を害したスターリンは「そもそも南西部正面軍の撤退を言い出したのは君やブジョンヌイではないか」と激昂し、キエフ放棄の許可を取り消した上に「キエフ死守命令」を下した。

 9月14日、参謀総長シャポーシニコフ元帥は南西部正面軍に対して「9月11日付けの同志スターリンの命令を遵守せよ」と現地の死守を改めて命じた。しかしキエフ東方の戦況はスターリンの想定を上回る速度で大きく動いていた。

 9月16日、第2装甲集団と第1装甲集団の装甲部隊がロフヴィツァ付近で連結した。この合流により、南西部正面軍の背後は完全に封鎖された。ドニエプル河の西岸では同日、第6軍の第29軍団がキエフ市街地への総攻撃を開始した。

 南西戦域司令官ティモシェンコ元帥は同日、南西戦域参謀長バグラミヤン少将を通じてキルポノスに対し、キエフ突出部を放棄して東方への退却を許可する「指示」を出した。だがキルポノスはモスクワへの確認なしに東方へ退却することに躊躇し、スターリンに包囲環を突破する許可を求めた。

 9月17日午後11時40分、シャポーシニコフ参謀総長からキルポノスに新たな命令が届いた。退却の許可を求めてからすでに丸一日が経過していた。

「同志スターリンは、キエフからの撤退を許可された」

 南西戦域司令官ティモシェンコ元帥と現地に留まっていた前任者のブジョンヌイ、評議員のフルシチョフは飛行機ですでに東に脱出していた。キルポノスと麾下の各軍司令官は部下の将兵とともに行動を共にするよう命じられた。

 この時点で南西部正面軍に所属する各部隊は東西180キロ、南北140キロのいびつな三角形の中に閉じ込められていた。第2軍・第6軍の圧迫を受け続けた第5軍・第37軍・第21軍の一部が拠点を捨てて東への敗走を始めると、南西部正面軍の組織的抵抗は崩壊してしまった。キルポノスは南西部正面軍参謀長トゥピコフ少将をはじめとする参謀将校や第289狙撃師団の残兵など1000人ほどの集団に加わって敵陣突破を試みた。

 9月20日、キルポノスはトゥピコフらと共に退却中にドイツ軍の戦線にぶつかってしまい、シュメイコヴォ付近で戦死してしまった。

 9月24日、キエフ全市が第6軍によって占領された。NKVDの特殊工作班は同日、ひそかに市内の主要な建物に設置した大量の爆薬を次々と爆破させた。スターリンの「焦土作戦」による破壊措置だった。この爆破で発生した大火は5日に渡って燃え続け、ドイツ軍と市内に留まった市民の双方が犠牲者となった。

 9月26日、キエフ包囲戦は終結した。国防軍総司令部広報は、第5軍司令官ポタポフ少将を含む66万5000人の捕虜を得たとしている。この包囲戦で被った南西部正面軍の破滅的な損失は兵員45万2720人、戦車・自走砲411門、火砲2万8416門、航空機343機にのぼった。東方への脱出に成功できた南西部正面軍の将兵はたったの約1万5000人だった。

 この戦果を受けたヒトラーは大いに興奮し、ソ連攻略に対する自らの判断にさらなる自信を得た。ドイツ軍のある従軍記者は次のように書いた。

「間近に死体を眺める。死んだタタール兵、死んだロシア兵。それらは出来立てほやほやの死体である。五カ年計画という大工場から出荷されたばかりの死体だ。どれもこれも似通っている。大量生産。彼らは新人種、強靭な人種の代表である。労働災害で殺された労働者の死体」

 東部戦線のドイツ軍にとって最大の脅威であった「キエフ突出部」が完全に除去されたことにより、中央軍集団はいよいよ「赤い首都」モスクワに対する最終攻勢の準備に取り掛かった。しかし、ドイツ軍にはソ連軍だけではなく、ロシアの大地が泥濘へと変貌する秋が目前に迫っていた。そして、厳しい冬が訪れようとしていた。

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