[3] 疎開

 ソ連軍の前線では重工業がドイツ軍に押収されることを防ぐために移転したことにより、1941年度は弾薬と武器の欠乏がさらにひどくなった。ドイツ軍侵攻以前は、ソ連の工業生産の製造工程のほとんどが国土の西側にあり、特にレニングラードとウクライナ東部の主要工業地帯に偏在していた。

 6月24日、「国家防衛委員会」は「避難評議会」を設置した。一刻も早くも西方の工場設備を疎開させるための措置だった。この大規模な疎開の調整業務は、「国家工業計画委員会ゴスプラン」議長兼副首相ヴォズネセンスキーに任された。そして、疎開の指揮を議長代理のコスイギンが執ることになった。

 中央指令型のソ連経済では工場と現有の設備、原料供給の3点をうまく組み合わせるためには注意深い移送計画が不可欠だった。すなわち労働者には住宅をあてがい、遠い疎開先で食料を配給し、工場の規模によって労働条件を柔軟に変更する必要があった。

 特に電気系統は設備の取り外しのために、最後まで稼動させておき、疎開先で再び組み立てなおさなくてはならなかった。こうした全ての工程が戦時の需要に応じる生産体制に切り替えられつつある状況下で、しかも熟練した整備工を定期的に軍隊に徴集されていく中で実行されなければならなかった。

 1941年7月から11月までに、合計で1523工場がウラル工業地帯、ヴォルガ河流域、シベリア、中央アジアへと移転した。そのうち軍備に関する工場の数は1360に上った。この間に貨車150万両分の工場設備がバルト諸国、白ロシア、ウクライナから搬出された。工場の移転に伴い、首都モスクワでは10月から11月にかけて、500社を超える企業と21万人の労働者が疎開した。

 だが、実際の移転作業は混乱を極めた。疎開した熟練工もわずかだった。疎開先に機械類を積んだ列車が到着した頃には厳しい冬の寒さと永久凍土のために、どんな型の建造物でも建設には時間が掛かった。ようやく機械類の荷下ろしが終わると、応急で造られた暖房もない木造の倉庫の中で組立が始められた。組立作業は深夜まで行なわれた。梁に電灯をつるし、焚き火で暖と明るさを補った。

 大多数の工場は疎開先に到着してから6週間か8週間後には生産を開始し、ソ連の軍需生産力はほぼ1年をかけてその全力を発揮できるようになった。しかし1941年度の戦闘では、ほとんど手持ちの兵器・弾薬で戦わねばならなかった。前線に補充された戦車や大砲は塗料の上塗りなしで戦闘に投入された。

 疎開はあらゆる方面で進められたが、共産党政治局は6月末にある物の疎開を決定した。その内容はソヴィエトの「国体」である永久保存されたレーニンの遺体をモスクワは赤の広場に建つ「レーニン廟」から疎開させるというものだった。スターリンはレーニンの遺体とともにモスクワに踏みとどまることが国民と兵士の士気を鼓舞する最善策であると読んでいたが、独裁統治の基盤であるカリスマ性と威光を担保するレーニンの遺体とその廟が破壊される危険性は断固として避ける必要があった。

 7月3日の夜、特別な防腐処理を施されたレーニンの遺体は列車でモスクワを出発した。目的地はモスクワから1600キロ離れたウラル山脈東方のチュメニだった。チュメニでは地元政府が帝政時代に建てられた2階建ての建物を提供し、レーニンの遺体はそこに安置された。主人がいなくなった「レーニン廟」は金属の足場で囲まれ、偽装用の防水シートで覆われたが、廟前には衛兵が立ち続けた。

 スターリンは終戦間際の1945年3月まで、レーニンの遺体を首都に戻すことを認めなかった。国民にはレーニンの遺体がモスクワから疎開されたことについて何も知らされなかっため、レーニンの遺体が抗戦と勝利へのシンボルとして、未だ「レーニン廟」に安置されていると思っていたのである

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