[2] ヒトラーの秋季戦計画
8月12日付けのヒトラーが下した判断に失望したのは、中央軍集団だけではなかった。この時になって初めて、陸軍参謀総長ハルダー上級大将は「赤い首都」モスクワの占領を最優先にすべきであるとの方針に加わる姿勢を見せ、陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥にヒトラーを説得するよう進言したのである。
8月10日、ブラウヒッチュはヒトラーに「陸軍の総意」に基づいた意見書を提出した。この意見書における「陸軍の総意」とは「モスクワ方面への攻撃を優先すべき」という戦略方針だった。陸軍上層部と軍司令官たちは6月22日の開戦以来はじめて、戦略方針についての意見の一致を見せたのである。
しかし、この時のヒトラーにとってウクライナは経済的な理由とともに、作戦上も魅力的な目標だった。7月から8月にかけて、自ら下した判断(総統指令第33号)によって南西部正面軍・南部正面軍を追い詰め、ウマーニ付近で3個軍(第6軍・第12軍・第18軍)の大半を包囲することに成功していた。
8月21日、ヒトラーはブラウヒッチュの意見書に対し、最終的な決断を示した。その内容は「モスクワは地図の上の印でしかない」とするヒトラーの考えを裏付けるものであった。
「東方に向けて攻勢を継続するという陸軍からの8月18日付の上奏は、私の考えに沿うものではない。よって、私は次のように命令する。
冬の到来より前に我が軍が目指すべき優先的目標は、モスクワの占領ではない。それよりも、クリミア半島とドネツ地方の工業と炭鉱地域の占領およびカフカスの油田地帯の孤立を達成しなくてはならない。北方では、レニングラードの包囲とフィンランド軍との連絡を優先目標とする」
8月23日、ハルダーがノヴィ・ボリソフの中央軍集団司令部を訪れ、ヒトラーの決断を示した。軍司令官たちの失望と憤りは、いよいよ諦念に近いものになっていたが、グデーリアンは執拗だった。戦力の回復がままならない第2装甲集団の各装甲師団は同月22日までに、スタロドゥプとポチェフに到達していた。長い思慮の末、ボックはグデーリアンがハルダーと一緒に東プロイセンの総統大本営に行き、ヒトラーを翻意させることを認めた。
この日の夕刻、グデーリアンとハルダーは東プロイセンのラステンブルクに構える総統大本営「狼の巣(ヴォルフシャンツェ)」に出向いた。会議に入る前、グデーリアンと面会したブラウヒッチュはぞんざいな言葉遣いで「総統の前でモスクワのことを話してはならない」と忠告したが、ハルダーは内心ではグデーリアンの説得に期待していた。
カイテル、ヨードル、総統の副官シュムントら高給将校たちが見守る中、ヒトラーの執務室でグデーリアンは自分の意見を述べるきっかけを窺っていた。その機会はすぐにきた。ヒトラーがグデーリアンに対して口を開いた。
「貴官の部隊は再び大きな努力をする用意があるのか?」
「重要性がすべての兵士に明白であるような目的を与えられれば、その用意はあります」
「貴官はモスクワのことを言っているのだね?」ヒトラーが言った。
「そうであります」
グデーリアンはなぜ「赤い首都」モスクワを最優先目標とするべきなのかを滔々と述べた。ヒトラーが気にかけていたウクライナの重要性を差し挟むことも忘れていなかった。その間じゅう、ヒトラーは一言も口を挟まなかったが、グデーリアンが話し終えると鋭い声を発した。
「将軍諸君はクラウセヴィッツを知っている。だが、戦時経済はご存知でない。私もクラウセヴィッツは知っている。だが、いま問題はそこではない。我々にはウクライナの穀物が必要なのだ。ドネツの工業地帯はスターリンではなく、我々に奉仕すべきである。カフカスからの石油輸送路を断てば、敵の軍事力は飢える。なによりも我々はクリミアを奪取し、ルーマニアの油田を脅かすこの危険な空母を除去しなくてはならない」
会議は深夜に終わった。グデーリアンはプルートキに置かれた第2装甲集団司令部に電話を掛け、疲れた声で待機していた参謀に命じた。
「別の計画になった。南だ、分かったな?」
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