[3] 独裁者の固執

 独裁者の思惑に軍の方針を振り回されることは、ヒトラーとその国防軍に限ったことではなかった。精神面でヒトラーと重なる部分が多かったスターリンもまた、赤軍幹部との間で生じた意見の対立から、しばしば感情的な態度を取った。

 7月29日、スモレンスク攻防戦のさなか、クレムリンでキエフ方面の防衛方針に関する戦略会議が開かれた。西部正面軍と南西部正面軍の境界線に構える第5軍が、議論の焦点となった。

 中央軍集団の急速な前進と、南方軍集団がドニエプル河下流に転進したことにより、南西部正面軍はキエフを防衛しつつ長い三角形状の陣地を形成していた。この陣地を、プリピャチ沼沢地帯南方に構える第5軍が頑強かつ巧妙な防御によって固定していた。

 ジューコフ参謀総長はスターリンに対し、中央軍集団と南方軍集団の間で西方に突出している第5軍をドニエプル河東岸に撤退させることが最善であると主張した。そして、参謀総長の意見として次のような危険性を指摘しておくことも忘れてはいなかった。

 もし第2装甲集団がスモレンスクから南方に転進すれば、南西部正面軍の北翼を圧迫することが可能となる。さらに、ドニエプル河下流に進撃中の第1装甲集団と連携することで、キエフ方面での巨大な包囲網が完成される可能性があった。

「ドニエプル河西岸に位置するキエフはどうするのか?」スターリンが言った。

 ジューコフはモスクワの防衛を最優先とする考えを述べた。

「もう護りきれないので、放棄することになるでしょう。それよりも、エリニャのドイツ軍に対する反撃を準備すべきです」

 このジューコフの進言に、スターリンは激昂した。激しい口論の末、キエフの保持を重視するスターリンの考えを見抜けなかったジューコフは7月30日、シャポーシニコフに参謀総長を交代させられた。そして、同日付で新設された「予備正面軍」司令官に「左遷」された。

 再び参謀総長に就任したシャポーシニコフだったが、やはり健康状態は芳しくなく、参謀本部作戦部次長ヴァシレフスキー少将がしばしば代理で実務を担うことになった。

 スモレンスクを占領した中央軍集団はジューコフの憶測どおり、第2装甲集団が8月初旬から「南進」を開始していた。

 8月10日、スターリンの許にスイスに潜伏する赤軍参謀本部情報局(GPU)の諜報員アレキサンダー・ラドから、「ドイツ国防軍総司令部は、中央軍集団にブリャンスク経由でモスクワを攻撃せよという命令を下した」とする報告が届けられた。

 8月12日、西部正面軍副司令官エレメンコ中将は、上官のティモシェンコからただちにモスクワへ向かうよう命じられた。夜分、モスクワに到着したエレメンコは、クレムリンでスターリンと参謀総長シャポーシニコフ元帥に迎えられた。

 シャポーシニコフは手短に戦況を説明し、偵察した敵情とその他の情報に基づいた参謀総長の意見として、中央戦線でモギリョフ=ゴメリ地区からブリャンスク経由でモスクワへの進撃が迫って来ているという。

 その後、スターリンが地図上で敵の主攻勢方向を示した。モスクワを防衛するためにブリャンスク地区にすみやかに強力な防衛線を築かねばならないと言った。だが、ウクライナを守るためにも新たな正面軍を編成しなくてはならない。

「私はご希望のところに赴く用意があります」エレメンコは答えた。

「貴官はどこの戦区を希望するのかね?」

 スターリンはエレメンコの顔を見つめ、不満そうに言った。

「最も困難な場所へ」

「どこも混沌として困難なのだ。クリミアにしろブリャンスクにしろ」

「同志スターリン、敵の戦車部隊が現われそうなところへ派遣していただきたいのです。そこでなら、一番お役に立てると思います。彼らの戦術は承知しておりますから」

「よろしい」スターリンは満足気に答えた。「同志エレメンコ、貴官をブリャンスク正面軍司令官に任命する。この戦域で作戦を進めている敵は、グデーリアンの装甲集団である。西部正面軍で遭遇した戦いの経験を活かして、君は旧友のグデーリアンを迎え撃たなくて名ならない」

 8月16日、第13軍(ゴルベフ少将)と第50軍(ペトロフ少将)を統轄する上級司令部として、ブリャンスク正面軍が設立された。

 スターリンはこの間、北方の作戦に関しては何の関心も寄せていなかった。しかし、「最高司令部」の命令によって北西部正面軍が行った反撃が思わぬ波状効果を生み出しており、レニングラードの防衛が大きく揺さぶられることとなる。

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