エピローグ


 うつわの世界は、今日も矢印にあふれている。


「行ってきます」


 家族は旅行中のため、返らないことだと分かっていても言ってしまうのは癖だった。

 もしかしたら期待していたのかもしれない。『いってらっしゃいませ、うつわ!』この4日間、飽きるほどに聞いた幼い少女の声が返ることを。どこか期待していたのかもしれない。


 家を出た途端に、暑さと蝉の声とともにあふれるそれにうんざりとしながら、うつわは今日も待ち合わせしている幼馴染の家の前で、彼女を待った。


「よっ、うつわおはよう!」


 ちりんちりんと自転車のベルの音がうつわを呼ぶ。見れば自転車通学の友達が自転車に乗りうつわに向かってくるところだった。

 ききいと音をさせて友達はうつわの横でペダルから足を下ろして自転車を止めた。


「おはよ、今日も元気そうだな」

「おう!お前はあんま元気ねーな、夜更かしでもしたか?」

「……まあ、ちょっと眠れなくてな」

「へー。……また幼なじみ待ってんのか?」

「おう」

「ふーあついあつい」


 みーんみーんと朝っぱらから聞こえる蝉の声にうんざりと肩を落としながらうつわが答えると、友達はにやにやしながら首元もボタンを1つ緩めて見せた。


「べつにそういうんじゃないからな?」

「はいはい、そうだなー」

「違うって!」

「おっと、俺日直だったや。先行くぜー」

「おい!」


 幼なじみとゆっくり来いよーなんて言いながらまた自転車に乗り去ってしまった男。頭痛がしたかのようにうつわは軽く頭を抱えた。こういう勘違いは慣れっこだが、今は本当にやめてほしかった。


「本当に、違うからな」


 返事が返ってこないと分かりつつもつい『ぬい』に向かって言い訳をするうつわ。はたから見たらいきなりキーホルダーに向かって話しかけるやばい人だという認識は、彼にはない。


「ごめん、おまたせ」

「別に」


 そっけない返事を返しながら、うつわは妙ににやにやしている幼馴染に目を向ける。こちらが一歩踏み出してもついてこない様子から、ここで少し立ち話したいらしいと悟る。こんな暑い中でまじかよと思いながら、それに付き合う。


 彼女の頭の上では相変わらず赤く巨大な矢印が、反対方向に伸びていた。ということは、兄たちはそっちの方に旅行に行ったんだなとうつわは思った。肩のリュックサックを背負い直す。

 胡乱気な目で、幼馴染を見た。


「何笑ってんだよ」

「えへへ、いいことがあってさ」

「いいこと?」

「そ、遠くで療養してた妹が帰って来たんだよ!」

「妹?」


 幼馴染に妹がいるなんて話は1度も聞いたことがない。

 

 もしかして。


 心臓がばくばくと高鳴りだすのを感じた。

 三文小説だ。こんな、ありふれたストーリーなわけはない。

 もしかしたら、妹がぬいかもしれないなんて。そんなことはあり得ない、妄想だ。


 それを隠すように眉をひそめるうつわに、気づいた様子もなく立ちながら幼なじみが口を開くと同時に。幼馴染の家の玄関ががちゃりと開いた。


「ぬいっていうんだよ」

「うつわ!」

 

 昨日聞いたばかりの声が、嬉しそうにうつわの名前を呼んだ。

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るふれりか 小雨路 あんづ @a1019a

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