お部屋、訪問
自身が、それなりに綺麗好き、整理整頓型の性格で、今日ほど良かったと思ったことはない。元より、足の踏み場もないような乱雑な部屋には拒絶反応を示す方なので、誰かを唐突に自宅に迎え入れる羽目になったとしても、ある程度は問題ないくらいに保っておくのを好んでいるのだが、おかげで昨日の今日といった状況でも、彼女を招き入れることができて。
「わ……思ったより、広い」
用意したスリッパに足を通して、部屋に入ってくるなり、彼女は小さく声を上げた。
「一部屋しかないけどね。早瀬さん、どんな間取りに住んでるの?」
「8畳にキッチン2畳です。実家の部屋よりはかなり広くなったんですけど……」
広さを聞いて、だから余裕あるんだ、と物珍しげに部屋を見渡している。
我が家は1Kだが、キッチン4畳、洋室12畳、という間取りだ。二間続きの和室だったものを、いわゆるリノベーションをしたらしいこの建物の築年数は結構なもので、オートロックなどもない二重鍵、といった設備だが、まあ男一人なので困ることはない。
ちょっとした一軒家のリビングに相当する程度の広さだから、向かって右奥にベッドを置き、折り畳み式のパーティションで簡単に間仕切りをし、あとはソファやローボードを並べて、と、ひたすらに自分が過ごしやすいようにレイアウトしている。
それを気に入ってくれたのか、ベージュの布張りのソファにしきりに触れていた彼女が、瞳を輝かせてこちらを見てきた。本当に、分かりやすい。
「ちょっと、座ってみてもいいですか?」
「どうぞ、一応来客用だから。その用途で使うことはほとんどないけどね」
「え、じゃあ、普段ずっと空いてるんですか?」
「いや、主に僕が昼寝に使ってる」
「それ、いいなあ……こういう場所があったら、本読むのもはかどりそう」
クッションの効いた柔らかめの座面に浅く腰を下ろして、ふかふか、と感触を楽しんでいる。相変わらずというか、警戒心などはゼロに等しいその姿を見て、ふっと意地の悪い気持ちが沸いてしまうと、
「いつでも座りに来てくれていいよ。但し、身の安全は保障しないけど」
「そ、そう言われて、来れるわけがないじゃないですか!」
途端に、火が点いたかのように立ち上がった早瀬さんが、からかいをまともに受けて、おろおろと身の置き場に困っているのに、僕は思い切り楽しげな笑みを向けた。
それから、ひとまず、といった感じでコーヒーを淹れて、わざわざ持って来てくれた、駅前の店のクッキーを一緒に食べてしまうと、すっかりうろたえも消えてしまったのか、素直に腰を落ち着けた彼女と向かい合って、読書会が始まってしまった。
家でひたすらに並んで本を読む、というのもどういったものか、と内心で思っていたが、いざやってみると、これはこれでなかなか楽しいものだと気付かされた。
読み始めると没頭してしまう彼女の癖は良く分かっているから、時折その表情を見やり、どんなシーンなのかを思い浮かべてみるだけでも面白い。また、こちらの視線になど一向気付いていないのも、電車内でのことと一緒で。
ともあれ、約束のこともあるから、自らもせっせと借りた本を読み進めていると、
「……森谷さん、あんまり、急いで読まれなくてもいいですよ?こっちはのんびり再読してますから」
その声に、僕は開いていた文庫本から目を上げた。一人掛けに座っているこちらの丁度向かいに置いた、ベージュの二人掛けソファに置いた白のクッションに、軽く背を預けた姿勢でいる早瀬さんを、思わずじっと見やる。
落ち着いた色合いの赤のカーディガンに、ネイビーのチェックのパンツを合わせた姿は、床のブラウンに合わせた色合いの部屋の中では、ひときわ鮮やかに瞳に映る。
身長はさほど低くはないはずなのに、どこかちょこん、という感じで座っているようにしか見えないのは、やはり体格が華奢だからだろう。再読、という言葉通り、シリーズの二巻を手にして、こちらを見ているその頬が、見る間にほんのりと染まったかと思うと、
「な、なんでじっと見てるんですか。落ち着かなくなるんですが」
「いや、つい」
短く応じたものの、本当にそれしか理由がなくて、また視線を彼女に据える。昨日の映画館デートといい、今日の家デート(と、彼女が思っているかは分からないが)といい、何かどうしても、といった感じで、ついつい見てしまうのだ。
そのこと自体、今に始まったことではないわけだが、以前よりぐんと距離を狭められた分、なおさら不思議な心地ではあって。
「……横、向いてましょうか」
「ごめん、見ないようにするから、そのままでいて」
これ以上は耐えられない、といった風情で、顔を俯けた早瀬さんに、僕は苦笑を向けると、素直に謝った。せっかく家に来てもらったというのに、機嫌を損ねてはたまらない。
昨日約束した通り、今は二人揃って、映画の原作シリーズを読んでいるわけだが、僕は一巻目の『水際に触れる』、彼女は二巻目の『緑陰の闇』にそれぞれ取り掛かっている。
幸い、中身は自分にも合っており、普段あまりミステリを読まない自分にも入って行きやすく、およそ一時間ほどで既に半分は読み進んでいる。何より探偵と助手のやりとりが軽妙で、その二人のキャラクターを追うだけでも結構楽しめるのはいいのだが、
「早瀬さん、
どうしてもその点だけが気になって、この際だから、とぽつりと尋ねてしまった。
ネットで調べて分かったことだが、このシリーズの固定ファンは圧倒的に女性が多い。というのは、相馬(探偵役)はシニカルな渋さが、笹島(助手役)は素直で単純、しかし情に篤いところが魅力、ということで、どちらのキャラも同じほどに人気があるそうだ。
別に、現実の人間ではないのだから、気にすることはないのかもしれないが、この人の興味がどのタイプに向いているのか、ということはやはり気に掛かってしまって。
すると、早瀬さんは軽く首を傾げると、うーん、と小さく声を上げて、
「どっち、っていうことはないんですよね……コンビとしての二人が好きっていうか、その間にある信頼感、みたいなのがいいな、って思っちゃうので」
「……なるほど」
いささか拍子抜け、といった感じの回答が返ってきて、小さく息を吐く。その意見には頷けるが、欲しかった情報はどうやら得られないようだ。
と、ふいに顔を向けてきた早瀬さんは、お返しのように尋ねてきた。
「森谷さんこそ、
私はどっちかというと寛子さん派なんですけど、と、楽しそうにそう言ってくるのに、僕は少し考えてしまった。
彼女の言う二人の女性は、相馬を巡り、恋のさや当てを繰り広げているキャラクターだ。
美樹は刑事、寛子は学芸員という立場で、共に事件を通じて知り合い、関わりを深めていくのだが、どちらがいい、などとは考えたこともなくて。
「……僕は、君がいいんだけど」
心に浮かぶままにそう零すと、一瞬大きく目を見張った彼女の頬が、朱に染まって。
「こ、答えになってないです!今はこのシリーズの話なのに!」
「いや、でも二人のどっちも別にいいと思わないから」
それぞれ美人で勝気、清楚で淑やか、とはっきり特徴が分けられている人物像だけれど、あくまでもフィクションの中にいる性格設定、という感じで、どうにもピンとこないのだ。
それに、ここ三日の間彼女を見ている限りでは、ことさらに嫌だと思うようなところは見当たらなくて。
そう正直に伝えると、早瀬さんは目に見えてうろたえを見せて、
「い、嫌なところなんていっぱいありますよ」
「へえ、例えば?」
「え、えっと、一人暮らしなのにほとんど料理覚えてなくて料理本頼りだとか」
「そんなの、僕もそうだよ」
「自転車で外勤に出たのはいいけど道に迷いまくって時間内に帰って来れなかったとか」
「それは嫌って言うより、真剣に心配なんだけど。そんなことしてたの?」
「結局、係長に迎えに来てもらいました……って、なんか話それてる!」
そんな話じゃなくて!と、どこかむきになって言葉を継ごうとしていた彼女は、ふいに力尽きたようにうなだれると、
「……森谷さん、何か、私をいいように見過ぎだと思います」
弱い声を漏らすと、気恥ずかしいのか、耳の先まで赤くしていて。
そういった姿が、どうにも可愛らしいのだと、自覚はしていないんだろうけれど。
「仕方ないんだよ、それは。好きだ、と思ったんだから」
さらに止めを刺すように言ってみせると、早瀬さんは隠したいかのように、完全に膝に顔を埋めてしまった。
「……前言撤回します。もう、一刻も早く読んじゃってください」
「はいはい。でも、そろそろ目が疲れて来たから、またコーヒーでも淹れるよ」
くぐもった声で言ってくるのにそう応じると、僕はスリッパを鳴らして、隣のキッチンへと向かった。冷蔵庫から引いた豆の入った缶を出し、フィルターをドリッパーにセットし、と動きながら、ふと、先程彼女の言った言葉について思いを巡らせる。
恋は盲目、などという言葉もあるが、どちらかというと僕の場合には当てはまらないという気がする。むしろ、離れて見ているだけでは思いも寄らなかった反応や態度を引き出して、それが全て自分好みである、とひとつずつ確認していく作業が、とにかく楽しくて。
まあ、あくまでも関係が『お友達』である以上、諸々の手出しが出来ないことについて不満がないことはないのだが、そこには触れずにあらゆるちょっかいを仕掛ける、それも今の状態での醍醐味だ、という気もして。
それに、結局のところ、例えば惚れているが故のフィルターが掛かっていたとしても、自覚がなければそれまでなのだ。彼女がなんと言おうと、僕の考えが変わることはないし、こうして傍に置きたい、いたいと思うことだって、余計に強くなるばかりで。
そんなことを何気なく考えながら、音を立てるコーヒーメーカーをじっと見ていると、そっと脇から声が掛かった。
「……あの、お手伝いします」
おずおずとした声に顔を向けると、いつの間にか早瀬さんがすぐ傍に立っていた。ここまで近付くのに気付かないとは、相当ぼんやりしていたらしい。
「そう?じゃあ、さっきのマグを拭いてもらえるかな」
先に使ったマグは、一度洗って流しの水切りに並べてある。スタンドから布巾を取って、彼女に手渡すと、有難うございます、と言って、すぐさま作業にかかる。
僕が使っていた、淡い色合いのグリーンのマグを手に取って拭き始めるのを、惹かれるままに見下ろしていると、ふと早瀬さんが口を開いた。
「さっき、いいように見過ぎだ、って言ったでしょう?」
「……そうだね」
「言ってから、ちょっと考えてて……まだ、話し始めて三日目だから当然なんですけど、私、ほとんど森谷さんのこと知らないなあ、って」
「だろうね。むしろ、どんなことを知ってるの?」
「え?えっと、大卒組で、職歴は私より一年先輩で、女子には人見知り気味で……」
「……最後のは、誰情報?」
「内野さんです。今となっては勘違いじゃないか、って思ってますけど」
そう言って、小さく笑みを零した早瀬さんは、さらに言葉を継いだ。
「でも、きっと知らないのってお互いさまで……まだあの、この先どうなるのかとかは、分からないですけど、嫌なところとか、だめなところとかも出て来るかもしれないし」
つらつらと続けながらも、一生懸命に手が動いて、やけにマグが艶やかに磨かれていく。無意識なんだろうが、ちょっと面白い。
「だけど、とりあえずは知っていかないと、ちゃんとした判断とかも出来ないだろうし……ええと、つまり、ですね」
ようやく気が済んだのか、水滴のあとひとつもなく綺麗になったマグを渡してくると、意を決したように僕を見上げてくる。と、
「だから、何でも聞いてください!答えられる範囲でお答えしますから!」
……なんなんだ、その結論は。
普通、この展開なら、僕に知りたいことを聞いてくるんじゃないのか?
そう思って尋ねてみると、早瀬さんはかぶりを振って、
「それも考えたんですけど、まずはお尋ねする前に自分から、って思って……だから」
さあ遠慮なく、という感じで身構えている彼女を見下ろして、真っ先に浮かんだ問いがあったけれど、さすがに口には出せなくて。
『元カレ』とか、もしいるとでも言われたら、果てしなく落ち込みそうな気がして。
「どうしたんですか?大抵のことならきっと大丈夫ですよ!」
「いや……聞きたいことは結構あるんだけど……色々と」
そう口を濁しても、何やら使命感にでもかられたのか、彼女の追求は止むことはなくて、僕は今までとは真逆の立場に置かれたかのように、すっかり困らされてしまった。
そういった次第で、せっかくの機会だというのに、結局、聞き出したことは至極無難なことで、地元はどこか、や出身大学は、などという基本的なプロフィールを、互いに交換するに留まってしまった。
……この程度で躊躇しているようでは、我ながら、先が思いやられるな。
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