八月

きりりと、締めて

 うちの家族構成が、父、母、私、妹、という、圧倒的に女子率が高い(母は『女子』と言われでもしたら、間違いなく爆笑するだろうけれど)せいもあって、今まですぐ身近に、年の近い男性がいる、ということがなかった。例えば、近い親戚となると、父方にも母方にもそれぞれいとこがいるけれど、いずれも県外だから、なかなか会うということができなかったし、友達も女子ばかりで、学校でも、普通に接しはしても凄く仲の良い男の子、という存在はほぼ、いなくて。

 だからというか、こうして博史さんとお付き合いをするようになって初めて、異性との『至近距離』というものを知ることになったわけだけれど、

 「……博史さん、あの、休憩挟んじゃ、だめでしょうか」

 言ってしまうと、今の季節はいささか刺激が強すぎて、どうしようもなくなりそうで。

 必死に動かしていた手を止めて、耐え切れずに俯いてしまいながら、そう零した私に、博史さんはきっぱりと言ってきた。

 「却下。まだほんの五分ほどしか経ってないし、お世辞にも上手く結べたとは言えない、だろう?」

 「それは、そうなんですけど……」

 八月に入って、二週目の月曜日。互いに残業もなく帰ってきた、博史さんのお部屋で。

 不機嫌そうな声で放たれたにべもない言葉に、反論も出来ずに語尾を濁しながら、私はそろそろと顔を上げると、ついさっきまで触れていたそれに目をやった。

 暑熱の季節にも爽やかな印象の、さらりとした素材の薄い青のネクタイは、力いっぱい握り締めてしまっていたせいで、すっかり端がよれてしまっているし、長さのバランスも微妙に見栄えが良くない。かてて加えて、肝心の結び目はといえば、緊張のせいかきつく締めすぎてしまって、綺麗な正三角形とはとても言えず、初めてやってみたこととはいえ、結構酷い状態だ。

 元々、今まで結ぶ機会は制服にせよ何にせよ、一度も必要になったことがなかったので、自分の首に締めることも出来ないというのに、いきなり人様に試みるとなればなおさらで。

 と、ぐずぐずと、内心で言い訳をしているのを見透かしたように、小さなため息がすぐ傍で聞こえて。

 「とにかく、約束したんだから今更泣き言を言わない。僕が納得する出来になるまでは、今日のうちに上達して貰うからね」

 博史さんは厳しい口調でそう告げてくるなり、右の腕を上げて、ほぼ私の目の前にある結び目に曲げた指先を掛けると、ぐい、とネクタイを大きく緩めてしまった。


 ……だから、それが耐えられないんです、って言えたら、どんなに楽だろう。


 その仕草だけでも、相当にどきどきしてしまうのに、少しはだけた襟元とか、多分髪に何かつけているのか、ほんのりと漂うミント系の香りだとかに、ことごとく心乱されて。

 しかも、夏になっても長袖だけれど、今はそれを、肘近くまで無造作にまくりあげたりしていて、しっかりとした腕のラインが、凄く男の人だなあ、って思ってしまったりして。

 視覚も嗅覚も、怖いくらい敏感になっているのにうろたえていると、軽い衣擦れの音の後に、するりと解かれたネクタイが、彼の大きな手に乗せて差し出されてきた。

 「ほら、いくら皺になっても別にいいから、もう一度」

 「……はい」

 幾分優しくなった声音に、それでも絶対許してくれない気配をしっかりと漂わせながらそう言われて、私は後ずさりたい気持ちを抑えながら、小さく頷きを返していた。



 こんな事態を招いてしまったのは、実は、自分のせいばかりというわけではなかった。

 相談されたことに、私一人では上手くアドバイスをしてあげられないからと、ふとした思い付きで、つい数時間前、職場の男性陣に尋ねてみたことがきっかけだったのだけれど。

 「就職祝いに貰って嬉しいもん?なんだ、誰か内定でも取れたのか?」

 「え、ええと、一応、親戚の子がその予定、なんですけど」

 コーヒーの入った紙コップを手に、すぐに応じてくれた足立さんに、私は焦りつつも、微妙な嘘を混ぜながら、そう答えを返した。……将来的にはそうなるかもしれないから、ということはあるのだけれど、それはさておき。

 「おー、いいねー可愛いお姉さんからお祝いとかー。俺だったら里帆ちゃんから貰えるだけで何でも嬉しいけどー、出来たら熱烈なハグとかほっぺにチューとかー」

 「そのへんで止めとけ。森谷に粛清されんぞ」

 「えー、まだマイルド目な要望に抑えといたのにー。それに、まだ研修終わりまで時間あるからどう転んでも聞こえないってー」

 足立さんとは色と模様がまた違う、蓋付きのプラカップを手にした戸川さんが、そんなことを言いながらひょい、と天井を仰いだ。

 今いるのは、市役所の一階、フロアの端にあるエレベーターホールの傍にある、自販機コーナーだ。壁際に五台ほどのそれらが据えられたそこは、ちょっとしたブースになっていて、透明なパーティションで囲われた中には、座り心地のいいベンチも据えられている。

 そして、戸川さんが視線を向けた先には、二階の会議室がある。三十分ほどの時間外の研修が、ここ数日担当ごとに行われているのだけれど、今日は住基担当の番というわけで、私は博史さんを、足立さんと戸川さんは井沢さんを、ここで待っているのだ。

 ちなみに、彼らは三人で飲みに行くそうだけれど、あえて月曜日を選んだ理由は、井沢さんが、他の日はほぼ内野さんとの予定が入っているからだそうで、二人の仲も、相変わらず順調なようだ。

 「しっかし、こうやって真面目に考えてもらえるなんていいよなー。俺なんて一応妹がくれたけど、マジ微妙っていう感じだったから、なんでも嬉しいくらいだわー」

 「え、どんなものだったんですか?」

 深々としたため息交じりの言葉にそう尋ねると、戸川さんはカップの中身を一口含んでから、げんなりした表情を浮かべて、

 「十二枚綴りの『お兄ちゃんと遊んであげる券』。まさかいらねえとも言えないし、当時あいつ小学生だったからさー、使い切るまでに体力と資力めちゃくちゃ消費したしー」

 「……せめて肩たたき券とかなら良かったですね」

 小学生の時に同じものを父に贈った折のことを思い返しながらそう言うと、足立さんが軽く目を細めながら口を開いた。

 「あとは、俺と井沢でメシ奢ったくらいか。あと、お前、うちの嫁さんからハンカチかなんか貰ってただろ」

 「あー、うんまあそんな感じー。っていうかさ、あだっちゃん先輩は何が嬉しかった?」

 どこか慌てたような早口で応じた戸川さんにそう振られて、足立さんは眉を上げると、

 「ネクタイ。仕事柄、何本あっても困らねえし」

 即答を返すなり、目線をわずかに下に向けたその姿を見やって、私はふっとあることに気付いた。

 どこの役所でも奨励されているけれど、うちの市もご多分に漏れずクールビズ、ということで、夏場は積極的に軽装を求められているのだが、ノーネクタイを選ぶ人が多い中、ジャケットこそ羽織らないものの、彼は頑ななほどにいつも締めているのだ。

 スタンダードな白のシャツの襟元にきちんと結ばれたそれは、淡いグレーの地に、ややパターンを変えた薄青と白のストライプが斜めに走っていて、シックで涼しげな印象で。

 と、空いた手を上げて、それに指先を絡めている足立さんに、戸川さんが一瞬、どこか切なげな視線を向けて。

 あまり見せない表情に、少しばかり驚いていると、こちらが見ている気配を察したのか、ふいに身体ごと振り返ってきて、

 「まあ、俺もその辺りが妥当なんじゃねえかと思うけど、別にずばっと聞いちゃってもいんじゃねえの?ごくごく親しーい親戚なんだろ?」

 「え、それがその、やっぱり驚かせたいかなー、なんて……」

 ことさらに含んだような笑みを向けられて、ややひるみつつもそれだけを返すと、戸川さんはますます笑みを深くして、さらに問いを重ねてきた。

 「それにー、俺らに聞くのもいいけどさあ、森谷くんには話振った?」

 「あ、それは、まだ、ですけど」

 馬鹿正直に答えてしまってから、にやにや笑いから企んでいるような怪しげな笑みへと一瞬で変貌したのを目の当たりにして、嫌な予感がさっと過ぎる。と、

 「そっかー、じゃあー、研修終わったら井沢と森谷くんにも聞いてみようかー。特に、森谷くん俺らより若いし記憶も新しいだろうしー」

 「えっ!?い、いえあの、博史さんには一緒に帰りながら話しますから!今すぐにってわけでもないですし!」

 「そうかなー?でももう来月中頃には結果出るしー、選ぶ時間もいるんじゃないのー?」

 次々と畳みかけるような言葉のあとに、ずばりと止めを刺す台詞を投げられて、思わず私は顔を強張らせた。


 ……もしかして、これ、何もかも分かってて、わざと?

 でも、戸川さんに話したことはまだ、ないはずだし。


 どう応じてもまずいことになりそうな気がして、焦りながら次の対応を考えていると、ふいに、足立さんの声が空気を割るように響いた。

 「お前ら、なんか知らねえけど、さっさと話つけろ。あと五分もすればあいつら降りてくんぞ」

 冷静な一言に顔を向けると、ホールの吹き抜けの壁に据えられた、ひときわ大きな掛け時計を見上げているその視線を追う。言葉通り、針が午後六時三十五分を差しているのを認めて、慌てて戸川さんに向き直ると、彼は、いつの間にかスマホを手にしていて。

 「なんだったらー、俺がそれとなーくアッキーに聞いてやってもいいよ?志帆ちゃんに相談されたんだろ?」

 「い、妹のこと、どうしてご存じなんですか!?」

 ひっくり返った自身の声が、人の居ないホールに思いの外響き渡って、反射的に口元を押さえていると、戸川さんはまさしく、満面の笑みをひらめかせて、

 「そりゃもう、ふとした雑談からー。早瀬さんの妹と会いました、なーんて言われちゃ年齢から性格まで詳細なプロフィールが欲しくなるってもんだしー」

 そこはかとなく怖いことを言いながら、何かを表示したスマホをこちらに向けてきた。おそるおそる見てみると、アプリらしい吹き出しめいたメッセージ欄の横には、確かに『akifumi1769』と記されており、たった今聞いた通りの会話が交わされていて。

 ……というか、既に弟さんがあだ名呼びされてるのも、ちょっと驚きなんだけど。

しばし続いたらしいやりとりのその中に、志帆のことを『素直でいいやつです』などと、シンプルに書かれていることに少しほっとしながら、やっと戸川さんに顔を向けると、

 「……その、お願いしたいのはやまやまなんですけど、なんというか、隠密に」

 「大丈夫だってー、はなっからそのつもりだしー。けどまあ、かるーく見返りくらいは期待してもいいよなあ?」

 心底からこの事態を楽しんでいます、とでも言わんばかりの表情に、うろうろと助けを求めるように足立さんを見たものの、眉を寄せて、軽く顎を上げる仕草をするばかりで。

 すんなり頷いてもいいものか、と、ひたすらに迷うばかりでいると、前触れもなく肩にぽん、と手が置かれて、びくりとして振り返る。と、

 「何を求めてるのか知りませんけど、彼女からあなたに与えられるものなんて、欠片もありませんよ」

 「えー、じゃあもうナノレベルでいいからよろしくねー、里帆ちゃん。結果報告はまた後でー」

 私の頭の上を通り越して、真っ直ぐに厳しい視線を放っている博史さんに、戸川さんは堪えた様子もなくへらへらと笑いながら、にやり、と細い目をさらに細めてみせた。



 それからは、文字通りに博史さんに引きずられるようにして、帰路について。

 暑い時期だし、いつもならお互いの家に一旦帰って、さっぱりしてから合流するというのに、まさに問答無用で腕を取られたまま、博史さんのお家に連れて行かれて。

 また、追い打ちを掛けるように、部屋に入るなり、戸川さんからメールが飛んできたのだけれど、それが今の事態を招いてしまった、というわけで。



 From:戸川とがわ真幸まさき

 Sub:ネクタイ。


 隠密だから、言葉少なにしてみましたー。

 あ、このお礼なんだけど、俺にもついでに

 一本見繕ってくんねえかなー、なんてー。

 ちなみにー、俺はピンク系が結構好きでーす。



 届いたタイミングといい、内容といい、どう見ても波風立つことを期待しているような文面に、思惑通りというか、博史さんの眉間の皺が、ぐんと深くなって。

 無論のこと、話していたことの中身について聞かれたけれど、志帆に『あの人にだけは絶対に言わないで!』と口止めされているから、言えないんです、としか伝えられなくて。

 「……どうしても、言えないの?」

 耳元で響いた、少し疲れたような声に、与えられた要求に応えるべく動かしていた手は止めずに、私は頷くと、

 「約束なので。でも、あの、決して怪しいことではないですから」

 自分の、あまりにも下手過ぎる返事に、いささか落ち込みながら、もう一度襟に掛けたネクタイの、左右のバランスを取るように調整しつつ、電話越しの志帆の声を思い返していた。


 あの、お礼に、お祝いしようかなって思って。

 なんか、良くしてもらったし、凄く頑張ってるみたいだし。


 どことなく気恥ずかしげに、でもとても真剣な声音で切り出してきた妹の様子に、短い期間のうちなのに、そんなに仲良くなってたんだ、と驚いてしまった。

 もっとも、二人が顔を合わせた初日から、いきなり名前呼びになっていたくらいだから、なんだか気が合ったのかな、とは思っていたけれど。

 それに、志帆がこんな風に、異性のことで相談してきたのも、初めてで。

 思考を巡らすうちに、ふと浮かんできた一文字があったけれど、それを言葉にするのは私じゃないな、と思い直して、ループをくぐらせて作った結び目に、幅広の先端を慎重に通す。あとは、裏側に下げた細い方の先をしっかりと押さえながら、綺麗に締めてしまうだけだ。

 間近にあるむき出しの首筋や襟元からはさりげなく目をそらしつつ、集中集中、と心で唱えながら、幅広の先を掴んで、そろそろと引っ張っていくと、ようやく結び終える。

 最後に、結び目の下に寄った皺を伸ばして、心持ちふっくらとするように整えてから、私はほっと息を吐いた。

 「出来た……!博史さん、あの、これでいかがですか?」

 ひとまずやり終えたことに、安堵して緩みかけた口元を引き締めながら、彼を見上げる。

 と、博史さんは、わずかに目を見開いてから、両手を上げて確かめるようにネクタイに触れて、しばらくじっと検分していたけれど、やがて、すっと顔を横に向けて。

 だめだったのかな、と気持ちがくじけかけた時、目の前にある両の肩が、微かに震えているのに気が付いて、疑問符をひとつ浮かべていると、ふいに、短く笑い声が弾けて。

 「まったく、隠し事はとことん下手だし、頑固だし、おまけに変なところで鈍いし……いい加減、気付いてもいい頃だと思ってたのに」

 次々と、突き刺さるような指摘をくれてしまうと、博史さんはようやく顔を戻してきて。

 目を合わせるなり、もう一度小さく吹き出されて、さすがにどういう事態なのかを理解して、私は咎めるように尋ねてみた。

 「博史さんまで、知ってたんですか?」

 私がからかわれるのはともかく、妹のことまで揶揄されるのは、はっきりと嫌なことだ。きつく眉を寄せて、正面から見つめ返していると、博史さんはすっと笑みを消して、

 「ごめん。知ってたというか、与えられた情報を繋いで推測したんだけど」

 すまなさそうにそう言うと、身を屈めて、すぐ傍にあるセンターテーブルの上に置いていた携帯を取り上げて、しばし操作をしていたかと思うと、開いた画面を示してきた。



 From:森谷明史

 Title:聞きたいんだけど

 本文:

 志帆が、合格したらお祝いやるっていうんだけど、

 受け取ってもいいもんかな。

 あいつ高校生だし、気を遣わなくてもいいって

 言っても、全然聞かねえんだ。

 気持ちは、まあ嬉しいんだけどな。


 それに、早瀬さんにも、なんか悪い気がして。



 メールが送られた日付は、昨日。時刻は午後十時過ぎで、私が志帆からの相談を受けて間もない頃だ。

 もしかして、彼とやりとりした後に、すぐ私に連絡してきたのかな、と考えていると、

 「あとは、ホールで君が叫んでた台詞を耳にして、あの人が余計なことを思いつきそうなこと、って考え合わせれば、思い当たることはひとつしかないからね」

 「……ごめん、なさい」

 不意をつかれたとはいえ、あんな声を上げてしまったのは、ひとえに自分のせいで。

 志帆にも申し訳なくて、じっと俯いていると、そっと伸ばされた彼の手が、頬をくるむように優しく触れてきた。

 動かされる指先の感触に、波立っていた気持ちが落ち着いてくるのを感じて、そろりと目を上げる。と、博史さんは薄く笑って、

 「いや、僕も、褒められたことはしてないから。君の反応があんまり可愛いから、つい調子に乗った、っていうのもあるしね」

 「わ、分かっててやらせたんですか!?酷い、凄くどきどきしたのに!」

 ネクタイを結んであげる、なんて、ちょっと夫婦みたい、とか、色々と雑念が浮かんでなかなか上手く行かなくて、こちらは心底困り果てていたというのに。

 非難混じりの視線を向けながら身を引こうと動くと、間髪入れずに伸びてきた両の腕に捕まえられて、軽く引き寄せられる。

 そのまま、抵抗の余地もなく抱き締められてしまいながら、私は往生際も悪く、小さく抗議をしてみた。

 「……もっと怒りたかったのに、怒れないじゃないですか」

 次第に覚えつつある彼の体温と、触れた肌の匂いに、ふわりと宥められるような心地でいると、博史さんは、喉を鳴らすようにして、ごめん、と笑って。

 しばらく、私の髪をゆっくりと撫でてくれていたけれど、

 「明史には、素直に気持ちを受け取ってあげればいいんじゃないか、って伝えたけど、それでいい?」

 「……はい。あの、博史さん」

 そう呼びかけて、顔を上げてはみたものの、目を合わせた途端に迷いが走る。


 だって、さすがに、弟さんに付き合ってる人とか、なんて、気が早過ぎるだろうし。


 第一、ものすごく出過ぎたことだよね、とは思うものの、なんとなくもどかしいような感情を持て余していると、博史さんは察したように苦笑いを浮かべた。

 「心配しなくていいよ、弟には彼女いないから、誰と揉めることもないし」

 「……顔に、出てましたか?」

 「まあ、それも、あるけど」

 そう言って、何か考えを巡らせるかのように細められた瞳が、ふいに剣呑な光を帯びて。

 「弟だけならまだしも、志帆ちゃんにまでとなると、これ以上踏み込ませないように、十分に釘を刺しておかないとならないな」

 普段よりも幾分低められた、気迫の篭った声に、だいたいの事情が飲み込めてしまって、私もその場に立ち会っておいた方がいいかな、と、若干不安を覚えながらも考えていた。



 そうして、翌日。

 志帆には、情報源はもちろん伏せつつも、ネクタイがいいみたいだよ、と勧めておいて。

 戸川さんへの『お礼』については、私と、それから博史さんも同行の上で、彼に似合うものを一緒に見繕う、ということで、口を挟む隙もなく、話が纏まっていたのだけれど、


 「里帆ちゃーん、森谷くんが『ああ、要望に応えるのは、僕に任せてもらいますから』とかって言ってきたんだけどー!!」

 「十分過ぎるお礼でしょう?何分、弟が常日頃、お世話になっているみたいですからね」

 「いーじゃんもー、森谷くん彼氏なんだしーひとときの夢くらい叶えてくれたってー!」


 と、ホールに響き渡るような声を後に引きながら先を行く二人に、私は眉を下げつつ、大人しくその後をついていくことしか出来なかった。

 ……博史さん、いったい、どんな太い釘を刺すつもりなんだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る