寝ても、覚めても・1
この年になるまで、いわゆる恋愛沙汰とは無縁だった。その方面の欲が、全くなかったといえば嘘になるが、自ら進んで臨むことなど思いも寄らず、所詮、本能に近いレベルでしかなくて、情緒も何もあったものではなかった、と思う。
そのせいか、特に学生時代などは、友人には色々と危ぶまれ、母親には『そんなところまでお父さんに似なくていいのに』とため息を吐かれていたものだが、弟もいたし、例え今後、自分一人が独身だったとしても何が困るものか、と淡々と考えていて。
故に、初めて彼女に惹かれている自分を見出した時は、我ながら酷く衝撃を受けたものだったが、どうやらそれは恋人として付き合い始めてからも、間断なく与えられるようで。
「あの、博史さん、これはもしかして却下だったでしょうか……」
八月半ば、世間ではお盆休みの最中という、人の行き交いも激しい、上橋端駅の改札前。
ひたすらに目を見張って、まじまじと見つめ続ける僕の視線の先には、不安げな表情を浮かべながら、肩口で揺れる黒髪の、くるくるとした毛先を気にしている里帆がいて。
こちらが無言になったのを、明らかに悪い方へと読んだのか、わずかに沈んだ調子で、段々と俯き加減になっていくのを目にして、僕は小さく苦笑を漏らすと、
「ネガティブな感想を想像してるんだろうけど、あいにくと違うから。似合ってるし、可愛いよ」
さすがに場所が場所だから、わずかに身を屈めて、その耳元に囁くように声を落とす。
言ってしまうと、人目を憚って、などということは実はない。僕としては、誰に聞かれようが一向に構わないのだが、そうなれば彼女がこの場から逃走してしまいかねないから、こんな風にしているだけのことだ。
それが功を奏したのか、里帆はおずおずと顔を上げてくると、僕の表情を認めるなり、動悸を抑えるかのように胸元に手をやって、詰めていた息を吐き出した。
「良かった……巻き髪って初めてだから、凄く不安で……」
「昨夜までは真っ直ぐだったのに、今朝になっていきなりこれじゃ、驚きもするだろ。美容院に行く暇は……なかっただろうし」
そう自問自答しながら、僕はあらためて彼女の髪型を見やった。常の如く長く垂らした黒髪の先は、ごく柔らかなカールが施されていて、空気を含ませたかのようにふんわりとしている。いくつもの房になったそれは、相当な手間暇が掛かっていることは見て取れて。
と、里帆はようやく口元をほころばせると、嬉しそうに僕を見上げてきた。
「このアレンジ、清佳ちゃんから教えてもらったんです。内野さんと一緒に」
ヘアアイロンもお揃いで買ったんですよ、と上機嫌で話しながら、先に立って自動改札へと向かう背中で、髪の房が軽く跳ねる。その後に続いて、定期をかざして抜けながら、ふと気に掛かったことを僕は口にした。
「そういえば、採用の時からずっとストレートだったのに、よく変える気になったね」
記憶の限りでは、初めて彼女を目にした時から今まで、たまに結んだりしていることはあっても、髪自体をどうこうする、ということはなかったはずだ。
ホームに向かう階段を降りながら、そのことを尋ねてみると、里帆は困ったように眉を下げて、
「パーマは、学生の時に一度やってみたことはあるんです。けど、ケアが悪かったのか凄く髪が荒れちゃって……それで、元に戻してそれっきりで」
しかし、興味が薄れたわけではなかったようで、いつも自分で巻いている、という初島さんにやり方を聞いてみたのだそうだ。こわごわながら試してみると、思ったより痛みもしないということで、納得するまで毎日練習して、今日の初披露、となったらしい。
そこまで話してしまうと、里帆はふいに何かに気付いたように、僕と目を合わせてきた。
「あの、博史さんと私って、初めてお話したの、一月でいいんですよね?」
「……いきなりだね。なんでそんなこと聞くの」
ホームに降り立ち、乗車位置へと足を進めながら、反射的に眉を上げた僕の切り返しに、彼女は、少し慌てながらも続けてきた。
「さっき、採用の時からずっと、って言ってらしたので、気になっちゃって……それに、よく考えたら、ユースの歓送迎会とか色々とイベントもあるはずなのに、私、どうして、あの時まで全く面識ないままだったのかな、って」
……変なところで鋭いのも、時折困るな。
そう内心で呟きつつも、アスファルトに白と緑で記された丸い目印の前に、平時よりは職場に向かうのだろう人もやはり少ない、整然と並ぶ人の列に続いて足を止める。
と、すぐさま隣に立ち、答えを促すかのように見上げてきた彼女の気配に、僕はあえて顔を向けることはせず、忘れるべくもないあの時を振り返っていた。
四月に入り、また新たな採用者がやってくる、という時期は、住基担当における繁忙期でもある。年度末から新年度にかけての転入転出ラッシュが続く中、職員全員が何ひとつ異動情報を誤ることなく、大量の処理を行わなければならないから、一日が終わった後は、担当中がようやく嵐が過ぎた、と言わんばかりの雰囲気で。
そんな最中、よりによって週半ばの水曜日に、残務処理でもないのに残らなければならない、という事態になって、僕はため息まじりに口を開いた。
「遅いですね。人数も多くないんだし、早く済ませてくれればいいのに」
「まあ、毎年の恒例行事だしね。それに、まさか時間内にやるわけにもいかないし」
隣席に掛けていた井沢さんに、宥めるようにそう言われて、渋々頷きを返すと、業務を終えて帰るべく、裏口へとホールを抜けていく職員の姿をぼんやりと見送る。
今、こうして業務時間外に自席に残っているのは、僕だけではなく、ほぼ職員全員だ。
そして、何を待っているのかと言えば、新人の挨拶回りだ。この市におけるならわしというべきものなのか、人事課の担当が新規採用者を引き連れて、各部局を回り紹介をしていくイベントめいたもので、当然ながら、僕もかつては同じことをさせられたわけだが、
「森谷くん、堂々としてたよねー。背は高いし声もよく通るし、『おー、えらくシュッとした子が来たねえ』って、平岩課長なんか感心してたし」
「……そんなこと言われてたんですか。単に、慌ただしくて緊張する暇もなかっただけなんですけど」
半ばからかうような調子で言ってきた、井沢さんにそう応じながら、僕はやがて彼らが現われるであろう、吹き抜けの階段付近に目をやっていた。
経験から言ってしまうと、この挨拶回りというものは結構時間がかかる。何しろ、庁舎自体が地上十階、地下二階という構成で、最上階の展望ホールと喫茶コーナー、それから地下の食堂と売店、駐車場のフロアを除いても、九フロアをくまなく回る羽目になるので、待つ方も大変だろうな、と思っていたものだ。
加えて、上の階から下の階へ、と回ってくるから、この一階フロアは最終地点、ということになるわけで、待ち時間も長くなる。まあ、窓口の対応が長引く場合も考えてのことだから、仕方ないことだと分かってはいるが。
「そういえば、去年は割とシャキシャキした印象の人が多かったけど、今年はどうかな。久々に女子の比率が高い!って、内野さんなんか喜んでたけど」
「去年はたまたま男が多かったですからね。おかげで
井沢さんの言葉に、僕は机上に放り出していた、新規採用者紹介、という実にあっさりとしたタイトルを冠した、各自の顔写真と簡単なプロフィールを載せたビラを見やった。
今年度の採用者は、大卒八名、短大・高卒六名となっており、近年のうちでは、比較的多い採用数だ。諸々を鑑みて、職員数は、減ることはあってもまず増えることはない、と言われている現状だから、二桁行くこと自体がむしろまれなことだと聞いている。
未だ降りて来る気配のないホールを目の端にしながら、ビラに目を通していると、ふと、一人の顔写真に見覚えがあるような気がして、僕はそれを持ち上げてみた。
肩に触れるほどの真っ直ぐな黒髪に、細いフレームの黒縁眼鏡。その奥から覗いている、つぶらな瞳が、酷く真剣な様子で正面に向けられている。その表情に、どこか記憶の底をくすぐられるような感覚が走って、確かめるように幾度も瞬きを繰り返していると、
「あ、来た来た。それじゃ森谷くん、出ようか」
「……分かりました」
階段の方から響いてくるざわめきに、即座に反応した井沢さんについて、僕は手にしたものを机に置いてしまうと、すぐさまホールへと向かった。窓口カウンターの横にある、スウィングドアを抜けて、天井から吊るされた、所属を示す看板の前に適当に集合する。
すぐ隣の保険年金担当、さらにホールを挟んで向かいの介護担当、福祉担当からも人がぞろぞろと出てきて、同じように塊を作っていくのを眺めていると、先触れのように人事担当の
その視線の先には、まだどことなく物慣れない雰囲気を纏っている若い男女がまばらに並んでいる。至って地味な色合いの、真新しいスーツの群れの中に目を走らせると、一番後方に立っている姿を認めて、僕はわずかに瞳を細めた。
黒髪も眼鏡も、写真と寸分違わない。ストライプの入ったグレーのジャケットにフレアスカート、胸元にギャザーを寄せた白のブラウス、という、入庁したての職員としては、ごくスタンダードな服装をしている。
ただ、特に目についたのはその表情だった。プレーンな黒のパンプスを気にしながら、おそるおそる、といった風情で足を進めている顔が、酷く強張っているのが見て取れて、僕は軽く眉を寄せた。
……あんなに緊張していたら、かえって転びかねないだろう。
そう思いながら目を離せずにいると、隣に立っていた、特徴的なふわふわとした短髪の女性が、何事か声を掛けるのが見えた。仲がいいのか、顔を向けた黒髪の彼女は、小さく何度も頷くと、心に何かを決めたように背筋を伸ばして、すっと前を向いた。ほどなく、横並びになるよう係長の指示が飛んで、一文字の列がホールの中央に出来上がる。と、
「それでは、今年度の新規採用者の紹介を行います。私から氏名を読み上げますので、各自簡単な挨拶を……」
マイクがなくとも朗々と響く、平岩係長の声を聞くともなく聞きながら、僕は何故か、彼女の姿をひたすらに追っていた。
その間にも右端から順に、列から前に出ては、名乗りの後にそれぞれの声が響いていく。順番が迫るのを、身を固くして待っている彼女の、身体の前で組まれた手が、必要以上にきつく握り締められているのを認めて、こちらまで嫌に心配になる。
余計なことを考えているうちに、ついに彼女の番が回ってきた。組んでいた手を解いて、一歩前に進み出ると、姿勢よく胸を張って、結んでいた唇を開いた。
「早瀬里帆です。何もかも未熟ではありますが、何事にも精一杯取り組んでいきたいと思っておりますので、どうぞ宜しくお願い致します」
穏やかな印象のやや高めの声が、やけに鮮明に耳に届いて、過敏なほどに神経が彼女に向いているのを自覚する。何なんだ、と心に呟く間に、一礼した彼女が後ろに下がって、微かにほっとしたような表情を浮かべるのまで、はっきりと見えて。
やがて、全員の挨拶が終わり、平岩係長の締めの言葉を潮に、ホールにさざなみめいたざわめきが広がる。各々が担当なりロッカーへと移動していく中、僕も動こうとした時、人波から進み出て、彼女に近付いてゆく男性の姿が見えた。
「あれ、課長、もしかして知ってる子なのかな?」
「……彼女の方は、そういうわけでもなさそうですけど」
井沢さんの言葉に、僕は一拍遅れながらも、どうにかそう返していた。
痩せぎすで背の高い当課の長が、あからさまなほど親しげな様子で話しかけてくるのに、驚いたような表情を浮かべた彼女は、いくつか言葉を交わす間に、ふいに納得したように大きく頷くと、慌てたように会釈を繰り返していて。
ばね仕掛けの人形みたいだな、と思いながら見ていると、平岩課長が小さく手を振って、それじゃ、というように踵を返すと、こちらの方へと真っ直ぐに戻ってきた。
と、僕と井沢さんの視線の向く先に気付いたのか、脇を通り抜けざまに、課長は温和な笑みを向けてくると、
「今の子、大学の後輩の娘さんなんだ。縁があったら、君たちも仲良くしてやってね」
「……はい」
短く応じた僕と、分かりました、と慌てて答えた井沢さんの肩を、ぽんぽん、と、妙にリズミカルに叩いてしまうと、そのまま奥のロッカーへと向かっていった。
それを追うように、カウンターを越えて担当内へと入っていきながら、何気なく言われたことが、奇妙なまでに胸に残っているのに引っ掛かりを覚えていると、ふと視界の端で、グレーの影が動くのに気付いて、僕は首を巡らせた。
広いホールの中央には、もう彼女しか残っておらず、周囲にいた他の新採たちは、既に皆姿が見えなくなっていた。例年通り、ここで解散、と平岩係長の指示が飛んでいたが、課長と話しているうちに、残る全員がその通りに動いたらしい。
と、誰かを探すように、おろおろと首を巡らせているそのさまを見ているうちに、傍の床に長く伸びる影に僕は気付いた。その根元を辿るように顔を向けると、吹き抜けの二階から、彼女をにやにやと見下ろしている、さっきのふわふわとした髪の女性がいて。
何をやってるんだ、と思っていると、おーい、と言わんばかりに、両手を頭上に上げて、大きく左右に振っている。眩く差している照明の光を受けて、彼女の足元で派手に動く、それに気付かせようとしているらしい。
だが、当の彼女は奥のエレベーターの方へと顔を向けていて、もどかしさに声を掛けるべきかと迷っていると、思いがけなく、長い黒髪がふわりと揺れた。
こちらが見ているのを気取ったかのように、唐突に身をひねった彼女が振り向いたかと思うと、そのまま動きを止める。
僕を見ているのか、井沢さんを見ているのか、それは分からなかった。だが、とっさに右の腕を動かして、吹き抜けの方を指してみせると、瞬きの後、つられるようにその先を追って、ようやく同期の姿に気付いて。
あ、と、声は聞こえなかったものの、腕を上げて数度手を振り返すと、すぐにまた顔を戻してきて。
「あの、有難うございます!」
今度こそ、真っ直ぐに僕の方を向いて、勢いよく頭を下げてきて。
遠いはずなのに、殊の外強く耳を叩く声に、目を見開くほどの衝撃が、胸に走って。
動けずに立ち尽くしているうちに、彼女は小走りに階段へと向かうと、パンプスの軽い足音を響かせながら、二階へと足早に駆け上っていった。見る間にも、待っていたらしい先程の女性と合流して、並んだその背中が廊下の奥へと消えていく。
半ば呆然とした心地で、何が残っているでもないだろうその後を、ひたすらに見つめていると、井沢さんの声が傍で響いた。
「なんだか、真面目そうで、いい子みたいだね」
「……ええ」
呪縛が解かれたような思いで、小さく息を吐き出しながら、ようやくそれだけを返す。
隣に立つ井沢さんの、どことなく窺うような気配を感じたものの、胸の内を開いてみるわけにもいかなくて。
まさか、そんなこと、あるはずもないだろう。
脳裏に過ぎった感情の示すものを、即座に内心で否定しながら、僕は無言のまま、自席へと足を進めていった。
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