告げて、はじまり
冬野ふゆぎり
告げて、はじまり
一月
まずは、告白・1
告白される、ということに、まあ、ちょっとした憧れがなかったわけではない。
但し、考えていたシチュエーションは知らない人から唐突に、などというものではなく、こちらが好きになった相手から、じりじりどきどきする期間と展開をさまざまに乗り越えたのちにようやく、という、少女マンガか恋愛小説か、という程度のもので。
だから、いざ、自分がそうなってみると、なんでまたこんな時に、と思わずにはいられなくて。
「……あの、付き合って、欲しいんですけど」
それが起こったのは、
混み合う改札をいざ抜けよう、と向かう途中で、ふいに腕を掴まれて、振り向くなり、切れ長の瞳と、綺麗に通った鼻梁が印象的なその人に、衝撃的な言葉を投げつけられて。
一瞬、どこに、とかベタな返しをすべきだろうか、と馬鹿な考えが過ぎるものの、私の腕をしっかりと捕まえて(でも痛くない程度だ)、真剣な表情で見つめてきている男性を、そうやって茶化してしまうのもためらわれて。
でも、とにかく今は、それより何より重要なことがある。つまり、
「あの、すいません、電車遅れたので遅刻しそうなんです!お話はその、また後日ってことで!」
混乱しながらもストレートにそう告げてしまうと、掛けた眼鏡が上下する勢いで深々と頭を下げてから、緩んだ腕をそっと振りほどいた私は、ダッシュで改札に向かった。
手にしたICカードをタッチして抜けてから、やっぱり気にはなって、一瞬振り返ると、何やら呆然とした表情で、その男性は立ち尽くしていて。
内心でごめんなさい、と謝りながら、それでも人波の間を抜けるようにしてひたすらに足を速める。広いコンコースから、幾本も地下へと延ばされた連絡通路の床は、折からの雨にすっかり濡れていて、時折パンプスの靴底が滑るのを気にしつつ、ヒールが低いのを幸いに走って、走って。
五番出口の階段を一段飛ばしで上がると、もう、職場は目の前だ。傘を差すのも面倒になって、それなりにきつい雨脚の中を急ぎ足で抜けてしまう。
『
廊下の壁に設置されたカードリーダーにタッチして、ピッ、という電子音が響く。
液晶画面に表示された時刻は、08:53だ。いつもよりは遥かに遅いけれど、なんとか、間に合った。
思わず安堵の息をつくと、すぐ脇からぬっと腕が伸びてきて、同じ電子音がまたピッ、と響く。その直後に、ぽん、と後ろから肩を叩かれて、びくりとして振り向くなり、私は大きく目を見開いた。
そこに立っていたのは、つい先刻、私に告白をしてきた、男の人で。
手には、間違いなく同じ職員である証の、職員証。
クリアのカードケースに入ったそれについている、青のネックストラップをひらひらとさせたその人は、どこか落ち着かなげに私を見下ろしていたけれど、やがて眉を寄せて、
「時間ないから、また帰りに。
「あ、はい、ないと思いますがあの、そちらは、その、失礼ながらどちらさまで」
混乱しながらも、とっさにそう尋ね返すと、男性は一気に落胆した表情になって、
「やっぱり、認識されてなかったのか……
と、低めたトーンの声でそう言うと、あらためて職員証を目の前につきつけてきた。その直後に、始業五分前のチャイムが鳴り響いて、二人揃って我に返る。
「さ、さすがにやばいです!えっと、じゃあ、ま、また!」
「はい。それじゃ」
色々なうろたえが声にまで出てしまった私とは対照的に、落ち着いた様子でそれだけを告げた森谷さんは、一階の担当窓口へと足を向ける。もう、さすがに後を見る余裕もなく、私はまた一段飛ばしで、二階への階段を必死で駆け上がって行った。
そうして、なんとか開庁時刻には間に合って、大過なく午前中の業務を終えて。
金曜日の習いで、お昼ご飯を食べるべく、職場近くの喫茶店、ゼフィールに腰を据えた私は、そろそろと話を切り出していた。
「あの、
「森谷くん?そりゃ知ってるよ、新採の時にうちに仮配属だったもん。四年後輩だけど、あっち大卒だから、年はそう変わんないけどね」
私の向かいの席に座り、そうあっさりと返してくれた女性は、内野さんだ。私と同様に短大組で、職歴では五年先輩。そして、同じ市民税担当では二年先輩の中堅どころだから、いつも何かとお世話になっている、頼りになる人だ。
その答えに、私が驚いた表情になったのに気付いたのか、内野さんはにやにや、とした笑みを浮かべて、楽しげに尋ねてきた。
「なになに、森谷くんが気になるの?心配しなくても、確か全力でフリーのはずだよ」
「い、いえその、ちょっと今朝にお話する機会があっただけで、そういう話では」
ないです、と続けかけて、いや、気になってないわけはないな、とあらためて思い返す。
何しろ、これまでに直接接触した記憶は特になく、業務的にも赴くことはあるものの、しょっちゅう出向くというわけではないから、正直なところ見覚えがない。
まあ、私が相当目が悪いのもあるから、もしかしたらちゃんと見えていなかったのかもしれないけれど、それにしても、どうしてこんなことになったんだろう。
ともかく、ここであまり口を濁しても怪しいので、一緒に乗っていた(のだろう、多分)電車が遅れたのでその件で、と、微妙に嘘ではないことを言ってみると、
「ふうん、珍しいね。割と人見知りなとこあるから、自分から女の子に話しかけるとか、滅多にないんだけど」
「え、でも、内野さんとは親しいんですよね?」
反射的にそう尋ねると、内野さんはいやいや、と言いながら、きっちりと首元で纏めた黒髪が揺れるくらいの勢いで頭を振ると、
「そこそこ親しいといえばそうだけど、女の子扱いされるような間柄じゃないからね。まあ、たまに集まる飲み仲間、ってとこかな」
そう返されて、なるほどと頷いたものの、さてこの先になんと尋ねたものか、と考える。
とりあえず、どうやら朝言われたことからすると、帰りに顔を合わせることになるのは確実なことだし、少しでも情報を得ておいた方がいいだろうか、と考えての行動だったが、あまり根掘り葉掘り聞く、というのも気が引けるし、何より墓穴を掘りかねない。
ましてや、今年の春に奉職してからというもの、仕事を覚えるのに日々精一杯で、色恋沙汰などと縁のなかった自分だから、何をどうしたものかすら、見当もつかなくて。
俯いて、落ち着かないのを誤魔化すように眼鏡に手をやっていると、内野さんがふいにあ、と声を上げた。それから、内緒話をするように顔を近付けてくると、
「
「……え、もしかして」
あっちあっち、と、彼女が人差し指の先で示してくれた方向に、振り返って目をやると、広い店内にランダムに配置されたテーブルのうち、数えて五つほど離れたものに、確かに彼が座っていた。もっとも、私たちと同様ひとりで掛けているのではなく、見覚えのある職員数人と一緒に、ではあるが。
その動きに気付かれたのか、メニューに目をやっていた森谷さんが、すっと顔を上げてこちらをまともに見てきた。そらす暇もなく、ばちっ、と音が鳴りそうなくらいの勢いで目が合ってしまって、とっさに軽く頭を下げて会釈を返す。
すると、向こうも何事もなかったような様子で、同じように礼を返してきて、ちょっとだけほっとしていると、
「なーんか微妙なアイコンタクトー。本気でなんかされたんじゃないのー?」
「さ、されてないですよ!だいたい、今日お話したのが全くの初めてなんですから!」
楽しんでいるのを隠す様子もなく、好奇心全開の笑みで言ってくる内野さんにそう応じながら、私はますます『だから、どうしてなんだろう』という疑問だけを膨らませていた。
そして、いよいよ午後からの業務も終了し、幸いなことに残務整理もなく、定時通りの退庁時間となって。
おそらく傍目に見ても、ガチガチに緊張していることがバレバレな足取りで、私は二階から一階への階段を、必死の思いで下っていた。
お疲れ様です、と、すぐ脇を降りてゆく同僚や上司と、かろうじて挨拶を交わしながら、手すりをがっちりと掴んだまま、ひと足ごとに気合いを入れつつ、一段一段を踏みしめて降りる。こうでもしていないと、今すぐ踵を返して、裏口の方へと逃げたくなってしまうからだ。
あれから、帰りに、と言われたもののどうすればいいんだろう、と思っていると、業務終了時刻の寸前に、内線で電話連絡が飛んできたのだ。また、それを取ったのが間の悪いことに内野さんで、思い切りからかうような言い方で電話を転送されてしまって。
そして、伝えられたのはひとことだった。『帰り、玄関前で』と、本当にそれだけで。
分かりました、と短く返して通話を終えた途端に、終業のチャイムが鳴って、すぐさま動かなければならなかったから、帰り支度をしている間は緊張などしなかったのだけれど、いざとなると、情けないことにだんだんと心細くなってきてしまって。
ああ、ほんとに、どうしたらいいんだろう……
交際を申し込まれるとか、本気で本の中のできごとだ、って思ってたのに。
階段の途中にある踊り場を過ぎて、いよいよ玄関が見える位置に来てしまうと、そんな弱気な声が心に満ちる。
見初められるようなことをした覚えもなく、ましてやそんな美人でもない。化粧だって最小限、おまけに地味目なブラウスにカーディガン、膝丈スカートが定番で、黒縁眼鏡で。
さらにコートだって、無難なグレーで。襟に付いた白のふわふわは、いかにも冬物、といった感じで、密かに気に入ってはいるのだけれど。
緊張が行き過ぎたのか、とりとめのない方向に思考が走るうちに何かが麻痺したのか、気付けば私は階段を降りてしまっていて、ベージュのリノリウムの床を踏みしめていた。
ここまでくれば、玄関の自動ドアはホールを挟んで、まさしく目の前だ。だから、目に映るベージュから無理矢理に目を離すと、意を決して足を進める。と、
「もう、ちゃんと退勤処理しましたか?」
全く予想もしていなかったタイミングで、背後からそう声を掛けられてしまって、私は短く声を上げてしまった。驚きのままに勢いよく振り向くと、そこに立っていたのは当然、森谷さんだった。
その姿は、当然というか通勤スタイルそのもので、通勤中の車内に山ほどいるような、ライトグレーのハーフコートにストライプの入ったチャコールのパンツ、というすっきりとした格好だった。朝も確かに見ているはずなのに、服装に全くと言っていいほど見覚えがないのは、我ながら相当混乱していたのだろう。
「うわ、えっと、そ、そういえばまだでした」
どこか、鋭さを帯びたような視線にじっと見据えられて、どもりながらもどうにかそう答えると、やっぱり、と森谷さんは呟いて、
「待ってますから、行って来て下さい」
「あ、はいっ。すみません」
若干叱るようにそう言われて、慌てて私はカードリーダーまで小走りに近付いた。
聞き慣れた電子音が鳴って、消えた時の時刻は、17:58。17時30分の終業時刻から、ここに辿り着くまで、いつもより随分時間が掛かってしまった。
「じゃあ、出ましょうか」
「は、はい。ええと、とりあえずどうすればいいんでしょうか」
未だ途方に暮れつつも、切実な問いを投げてみると、さっさと玄関に向けて先に立って足を進めていた森谷さんは、振り向かずに答えてきた。
「とりあえずどこかで、食事でも。あー……その、そちらが嫌じゃなければ」
どこか戸惑っているような声音に、ちょっとほっとする。どうやら、緊張しているのはこちらだけ、ということでもないようだ。
「いえ、大丈夫です。どこか、お店のお心当たりはありますか?」
少し落ち着いたので、小走りに追い付いて横に並び、自動ドアをくぐりつつそう尋ねてみると、ちらりと視線だけをこちらにくれて、森谷さんは驚くようなことを言ってきた。
「早瀬さん、最寄り
「えっ!?み、見たことはあるんですけど、入ったことはまだないですが、あの」
何故この人が私の最寄駅まで把握しているのか、しかも駅前お店情報まで、とうろたえていると、内心がまともに顔に出ていたのだろう、森谷さんは大きくため息を吐いて、
「本っ気で僕のこと認識してなかったんだな……もういいです、訳は道々話しますから、とにかくついてきてください」
「わ、分かりました」
何やら酷く落胆した様子に、これ以上余計なことを言うまい、と決めた私は、うなだれ気味の彼の後ろを、大人しくついていくことにした。……まだ、色々と不安は残るけれど。
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