四月

宴で、二人

 四月がまたやってきた、ということは、私も新採からようやく二年目、となるわけで、新年度もまだまだ続く残業の波を乗り越えつつも、後輩が出来る、ということを意識して、いつまでも『新人』という気持ちでいてはいけない、と気を引き締めていたのだけれど、

 「まあ、今年はうちには新人来ないよねー。去年、里帆ちゃんが来てくれた時だって、倉田さんも係長も私も『マジか!しかも女子久々!』っていう感じだったし」

 「採用数も少ないし基本的に玉突きだからねー。抜ける前提ないと次も来ないし、二年連続なんてことになったら、『なんでお前んとこだけ』って感じになるだろうしね」

 「やっぱりそうですよね……ちょっと楽しみにしてたんですけど」

 向かいの長椅子に並んで座っている、内野さんと倉田さんの言葉を聞いた私は、分かってはいながらも少しだけ残念な気分で、手にしたカップを少し傾けた。

 ゼフィールのメニューでも人気なロイヤルミルクティだけあって、ふんわりと漂う甘い香りだけで、ほっと落ち着く感じだ。

 今日は、入力資料も一旦締めに入って、サーバも閉庁時刻と同時に停止だから、仕事も久しぶりに定時で終わった。前もって残業はなし、と決まっていた日だから、森谷さんと一緒に帰る、という予定にしていたのだけれど、何故か内野さんに引きとめられて、

 『里帆ちゃん、悪いんだけど、森谷くんとセットで十分だけ時間くれる?』

 と、倉田さんも一緒にここに連れてこられてしまったのだ。森谷さんには既に井沢さんから連絡済みということで、残務処理が終わるのをここで待っている、というわけなのだけれど、話題は、時期的にどうしても異動関係の話になってしまって。

 「住基も森谷くん来て間もないから、多分状況はうちとおんなじかなー」

 「でも、井沢くんとか俺とか、ちょっとやばいよね、特に俺もう五年目だし」

 「えっ、倉田さん動いちゃうかもしれないんですか!?」

 思わずそう声を上げると、倉田さんはこともなげに頷いて、

 「まだ市民税は長くいさせてくれる方だけど、色んな担当回ってマルチに動けるようになってね、っていうのが方針としてあるからね。まあ、出来たら同じ畑で動きたいけど、人事にも色々と思惑があるだろうしねー」

 「それに、今年社会人枠も一人入ってるし、年齢層的に可能性アップかもしれないし」

 内野さんがそう言うのに、私は先日配布された、『新規採用者紹介』のビラを思い返した。昨年は、私自身がここに載っていたのだから、何か感慨深い気持ちで見ていたのだけれど、今年は、大卒四名、短大・高卒二名、社会人枠一名の七人で、社会人枠の人は二十七歳。概ね同年代の者を所属でトレードするような形だから、井沢さんや倉田さん、そして足立さんも、年数的に動く可能性が上がってくるわけだ。

 そしてそれは、数年後の自分にも、もちろん起こり得ることで。

 「……色々と、しっかり考えとかないといけないですね。自分のこともだけど、周りのことだってきちんと見ておかないと」

 「おー、里帆ちゃん頼もしいー。まあ、異動は社会人の宿命だからねー、どこに動かされても仕方ない、って覚悟だけはしとけばいいんじゃない?」

 「あと、とりあえずは二年目だから、今年は一年スパンで業務の流れのおさらい、かな。ちょっとずつレアケースも振っていくから……っと、森谷くんたち来たよ」

 倉田さんが窓の外を見ながらそう言うのに、私も首を巡らせる。と、まだ遠くに見える人影が、ここに来る予定の人数より一人増えているのに気付いて、目を凝らしてみた。

 近付いてくるにつれ、緩やかな二列縦隊、という感じで歩いてきているのが分かったのだが、まず、足立さんと森谷さんが隣に並んでいて、その少し後ろに井沢さん。そして、その横に立つ最後の一人は、記憶に間違いがなければ、確か、

 「えーと、あの方、戸川とがわさん……で合ってましたっけ」

 「あー、合ってる合ってる。社会人枠の人だよね」

 内野さんにあっさりと肯定して貰って、間違えてなくて良かった、と、ほっと胸を撫で下ろす。顔写真をビラでざっと見ていただけだから、ちょっと自信がなかったのだ。

 しかし、戸川さんまで一緒なのはどうしてだろう、と見ていると、窓越しに、こちらに気付いた森谷さんと目が合った。

 途端に、はっきりと嬉しそうな笑みを向けられて、思わず頬が熱くなる。元々が、驚くほどに好意を隠さない人だとはもう分かっているものの、照れてしまうのは仕方なくて。

 そうこうしているうちに、軽く手を振って、店の入口へと向かう森谷さんを目で追っていると、いきなりひょい、と新たな顔が目の前に現れて、私は小さく声を上げてしまった。

 「わ!?え!?」

 硝子越しに、奇妙に馴れ馴れしい仕草でひらひらと手を振っているその人は、戸川さんだった。特徴的な細い目をさらに細めるようにして、にっ、という感じの笑みを浮かべながら、どういうわけかじっとこちらを見つめている。突然のことに、ただ見返していると、戸川さんの両の肩に手が掛けられて、引っ張られたのか身体ごと窓際から離れていく。

 その後ろに井沢さんの姿が見えたかと思うと、ごめん、というような動作をしてから、まるで追い立てるように戸川さんの背中を押して行った。

 「……なーんか調子の良さそうな人だねー」

 「そ、そうですね……びっくりした」

 珍しく眉を寄せている内野さんに驚きつつも、そう返すしか出来ないでいると、やがてドアが開く音がして、ほどなく森谷さんたちがこちらに近付いてきた。

 後で人が増えることを前提に、一番奥の席、つまり以前に優理に呼び出されて、五人に囲まれた時の席を確保していたから、四人増えてもなんということはない。口々に挨拶をしながら、私の横には当然のように森谷さんが座ってくる。と、その途端、

 「あっ、彼女の隣取られたー。俺こっそり狙ってたのにー」

 唐突に戸川さんがそう言ってきたのに、全員の視線が、一斉にそちらを向いた。一身に注目を浴びた彼は、どこかきょとんとした様子で周りを見回していたが、

 「しょっぱなからなんてこと言ってるんだよ!コンパに来たんじゃないんだぞ!」

 「えー、でもほら好みの子がいたらとりあえずアプローチしとけって思うじゃん。俺ももういいトシだしさーってお前もだけどー」

 すかさず井沢さんに叱られたものの、へらへらと笑いながら軽い調子でこちらに視線を向けてくるのに、私がひるんでいると、ふと肩を軽く叩かれた。

 さっと横に顔を向けると、森谷さんが安心させるように微かに頷いて、

 「井沢さんと戸川さん、高校で同級生だったんだって。それで、足立さんは二人の先輩、ってことらしいよ」

 「え、そうなんですか!?凄い偶然……」

 「じゃ、ねえよ。こいつ、俺と井沢がここに入ったっていうんで受けやがったんだ」

 森谷さんの隣に座りながら、足立さんがさらに新たな情報をくれた。その時点で、井沢さんと戸川さんは並んで二人の向かいに座るしかなくなったので、やっと全員が席につく。

 それから、店員さんが注文を取りに来て、男性四人が簡単にコーヒーを四つ、と頼んでしまってから、足立さんが口を開いた。

 「あー、余計な奴も連れてきちまったけど、完全に今日の件に関係ない、ってわけじゃないからな。内野、もう早瀬には話したか?」

 「ううん、まだです。森谷くんが来てから一緒にって思ってたから」

 やや苦笑気味の言葉に、内野さんがそう答えると、こちらに向き直ってきて、

 「えーとね、里帆ちゃんにはもちろん去年参加して貰ったんだけど、ユースの歓送迎会、ってやったでしょ?それで、今年は二人に幹事をお願いしたいんだよねー」

 ユース、というのは、その名の通り、若い職員で構成されている職場内グループのことだ。三十歳以下なら自動的に所属していることになり、歓送迎会や忘年会、新年会などの他、年一回の日帰り旅行なども企画したりするのだが、

 「森谷さんと、ですか?それなら、私は構わないですけど」

 結構大変な役目だ、とは思いつつも、気付けば私は即答していた。あまり良く知らない人ならともかく、彼が一緒ならやりやすいだろうし、何よりとても心強いからだ。

 とはいえ、森谷さんの意向は確かめなければ、と彼の方を見ると、小さく笑みが返ってきて、

 「僕も異存はないですが……期間、一年ですよね?」

 「そうそう、歓送迎会までやって、新しいメンツに交代。去年はあたしと足立さんで、二人なら気心知れてるし引継ぎしやすいし、二年目と三年目だから、そろそろ任せるには丁度いいかなって思ってさ」

 「それで、会計は俺だったから、そっちは井沢くんに頼もうと思って」

 倉田さんの言葉に、井沢さんは簡単に頷くと、心強い言葉をくれた。

 「手配なんかで分からない、ってことがあったら、僕たちに聞けばいいよ。皆そこそこ経験してるから、チェックリスト代わりにもなれるだろうし」

 「はい!よろしくお願いします!」

 勢いよく答えてしまった私の横で、森谷さんも有難うございます、と、皆さんに向けて言った時、意外な方向から声が飛んできた。

 「いい返事ー。っていうことは、ユース絡みなら彼女に連絡すればいいんだよな?」

 その台詞に顔を向けると、目を細めて機嫌良さ気に笑いながら、戸川さんが真っ直ぐに私に目を据えて来ていて、一瞬、なんと返したものか戸惑っていると、

 「早瀬さんだけじゃなくて、僕もですよ。二人で、ちゃんと連絡も手配もしますから、安心してください」

 「あ、はい!不慣れですけど一年、頑張りますから!」

 森谷さんが如才なく答えてくれるのに、しまった、フォローしてくださった、と思いながら慌ててそう付け加えると、戸川さんはふっと真顔になって、

 「なー、早瀬さんと森谷くん、付き合ってんの?」

 実に逃れようもない、ストレートな質問を投げられて、今度こそ絶句していると、隣で森谷さんがわずかに身じろぎをした。はっとして見上げると、表情を消した彼が、じっと戸川さんを見返していて、今にも口を開こうとした時、

 「戸川、やめとけ。ちょっかい出したいんなら他の奴にしてやれ」

 静かに、しかし断固とした響きの声で、足立さんがそう言うと、途端に戸川さんは肩を軽くすくめてみせて、

 「了解ー。ごめんごめん、俺って基本的に軽いからさ、あんま気にしないでー」

 「あ、いえ、こちらこそ……」

 なんとも微妙な雰囲気になってしまって、色々と申し訳ない気分でそう応じたのを潮に、具体的な引き継ぎなどはまた職場で、ということに落ち着いて、その場は解散、となった。



 それから店を出て、これから飲みに行くという先輩後輩組三人と、久々だからさっさと帰るという市民税担当組、それから森谷さんと私、という三組に自然と分かれてしまうと、なんとなく無言のまま、しばらく並んで駅への道を歩いていたけれど、

 「あの、ごめんなさい。いきなり聞かれてとっさに何て答えていいか分からなくなって、おたおたしちゃって……ほんとなら、私がきちんと答えないといけなかったのに」

 他の二組の姿が見えなくなったところで、私は森谷さんにそう謝った。

 向けられた言葉は、明らかに私へのものだったのに、森谷さんにかばってもらうようなことでは、大変に情けない。ああいう風に、からかわれることに慣れていないとはいえ、自身で対処することもできなかったなどとは。

 すると、森谷さんは小さく息を吐いて、少し疲れたように言ってきた。

 「いや、僕もあの程度の煽りに、冷静に相対出来なくなるところだったから。お互い、足立さんに助けられた、ってところかな」

 「なんだか、有無を言わせないような声でしたもんね……お礼ついでに、ああいう声の出し方とか、教えてもらうべきでしょうか」

 電話対応などで、お怒りの方を上手く鎮めるだとか、業務の際にも役立つかもしれない、と、効果のほどをかなり真剣に考えつつもそう返すと、森谷さんは軽く吹き出して、

 「それは、逆効果だと思うよ。君が一生懸命低い声出そうとして頑張ってる姿なんて、単に可愛いだけだろうから」

 「……迫力不足なのは、認めますけど」

 ごくさりげなく挟まれた言葉に、どうしても赤くなるのを止められないでいると、森谷さんは足を止めて、私をじっと見下ろしてきた。それから、微かに眉を寄せると、

 「こういうことを言うのは、卑怯だとは思うんだけど……戸川さんには、気を付けて。僕が見る限り、あの人、君が好みだっていうのは確かみたいだから」

 「え……で、でも、何か冗談みたいな調子だったのに」

 「そう言うと思ったよ。けど、冗談めかしてしっかり本音を混ぜてくるタイプだと思う」

 断言するようにそう言うと、どこか苦い笑みを浮かべた彼は、やや声を低めて、

 「はっきり言うと、君に近付こうとしている時点で、僕にとっては、既に恋敵なんだ。だから、もし……」

 そう続けかけて、ふいに言葉を切ると、小さくかぶりを振って、

 「ごめん、かなり先走ってる。変なこと言って、悪かったよ」

 「え、いえ。あの、ご忠告は、きちんと肝に銘じておきます」

 顔をそらしたその一瞬、森谷さんの表情に、いつか見た鋭いものが、また覗いたような気がして、私はそんなあたりさわりのない答えを返すことしか出来なかった。



 そうして、我が担当の入力作業も概ね一段落し、新採職員の配属なども一通り終わった、金曜日。いよいよ、ユースの歓送迎会が行われることになった、のだけれど。

 「……なんていうか、去年も思いましたけど、即座に無礼講、って感じですよね」

 ビールの入ったグラスを持ちながら、私は隣に座っている森谷さんにそう声を掛けた。

 今年も去年と同様、幹事二人のごく簡単な挨拶が済んで、乾杯、の掛け声が終わるなり、全員が一斉に飲み、食べ、そして喋り始めるものだから、畳敷きのかなり広い宴会場だというのに、あっという間にざわめきに包まれてしまうのだ。

 「まあ、酒が入るとどうしてもね。それに基本的に自由席だから、仲のいいグループでなんとなく塊が出来るし」

 同じようにグラスを傾けながら、森谷さんは周囲の喧騒を一瞥すると、私に向き直ってきて、

 「それより、今日はくれぐれも雰囲気に呑まれて飲みすぎないように。次期幹事として、だいたいの流れを覚えとかないといけないんだし」

 「……言われると思ってました。ちゃんと自制します」

 以前に彼に迷惑を掛けてしまった時のことを思い出しながら、私はそう応じた。今日はその時の原因となった優理もいるけれど、今は、総務担当組の辺りでまだ固まっているし、こちらは、いわゆる幹事席で、何かあった時にすぐさま動けるようにと、入口近くの席に全員が集まって座っている。つまり、

 「大丈夫だってー、俺と内野さんでしっかり言っといたから。『新幹事紹介まではダメ』ってー」

 「いや、それだと紹介終わったら潰してもいい、みたいに解釈されるんじゃ……」

 「別に潰れてても問題ないじゃない、森谷くんが連れて帰ればいいんだし」

 「まあ、寝てる程度なら、最悪タクシーでもなんでも利用できるしな」

 新旧会計の倉田さんと井沢さんもすぐ隣にいるし、旧幹事である内野さんと足立さんは、私と森谷さんの向かいにいる、というわけで、色々と心強いはず、なのだが、こうまで、潰れることを前提にされると、若干不安で。

 「ですから、危険そうなのは飲みませんから!度数の高いのは絶対手を出しません!」

 「えー、そりゃ残念ー。一緒に飲もうかと思ってたのにー」

 と、背後から掛かった軽い調子の声に、びくりとして振り向くと、すぐ傍に戸川さんが立っていた。右手にはウィスキーの瓶、左手には、ロックアイスが入ったアイスペールを下げていて、それらをどこかの席に持って行くのだろう。が、

 「す、すみません。その、ウィスキーは飲んだことなくて」

 「あ、そうなんだー。慣れると結構美味いよー、手始めに、ハイボールあたりから……って!?」

 突然、奇妙な声を上げて上体をぐん、と反らした様子に驚いていると、あまり長くない戸川さんの黒髪を、思うさまに掴んで引っ張っている女の子がそこにいた。

 「もー、こっちも重いんですから、こんなとこでナンパしないでください!すいません、なんかこの人やたら軽くてー」

 右手に握った髪をしっかりとホールドしたまま、すまなさそうに頭を下げてくれたその人は、グラスがたくさん載せられたお盆を、左手で実に器用に持っている。

 綺麗に染めた、波打つ濃い茶色の髪を緩く背中に垂らしているのに、一瞬、名前が出てこなかったが、一生懸命ビラを思い返してみると、髪をきちんと結んでいる姿が浮かんで、

 「初島はつしまさん、ですよね。初めまして、早瀬と言います、宜しくお願いします」

 新採さんに取り急ぎご挨拶を、とばかりに頭を下げると、戸川さんを放り出した彼女は、慌てたような様子ですぐ目の前に座って、深々と礼を返してくれた。

 「いえ、こちらこそ!っていうか早瀬さん、確実に先輩なのにご挨拶が遅れまして!」

 「あ、でも一年しか違わないですから。グラス大丈夫ですか?」

 見るからに重そうなそれに、手を貸そうと手を伸ばすと、頭上からため息が降ってきて、

 「ずっるー、清佳さやかちゃん彼女に挨拶までしてもらってー。俺もなんか喋りたいのにー」

 「それなら、後にしとけ。どっちみち、あらためて新採全員に紹介はするし、さっさと持ってってやれよ」

 不満げに唇を尖らせている戸川さんに、足立さんがそう言いながら指差す先を見ると、介護担当と、保険年金担当の皆さんが、何事かとこちらを見ているのが見えて。

 「へーい、そんじゃ行ってきますよっと。あ、早瀬さーん、俺の方が荷物多いしさー、良かったら運ぶの手伝って」

 「あーもーうるさい!ていうかあたしまだ飲めないのになんか美味しそうな話とかして腹立つー!すいません、お邪魔しましたー!」

 相変わらず、へらへらと続けた戸川さんの背中を、拳でかなり強く叩くと、初島さんはその腕をがっちりと掴んで、ひきずるようにして去って行った。

 「……なんだか、凄く仲良しそうですね」

 「みたいだね。おかげで、僕が口を挟む暇もなかったよ」

 あまりにもお互いに遠慮のない様子に、思わず森谷さんと顔を見合わせていると、

 「なんか知らねえけど、研修で気が合った、とか言ってたぞ。あいつ、昔から年下には妙に受けがいいからな」

 「妹がいるからでしょう、多分。彼女と年も同じくらいだったはずだし」

 と、先輩と同級生からの情報をいただいて、なるほど、と頷いていると、

 「……構う相手が他にいるなら、こっちに余計なちょっかい出さないで欲しいんだけど」

 明らかに眉を寄せた森谷さんが、ひとりごとのように小さく零すのが耳に入って、私はどうにもコメントのしようもなく、少しぬるくなったビールをそっと口にしていた。



 そうして、内野さんと足立さんの司会のもと、新規採用者及び新幹事の紹介を受けて、緊張しながらも、一年頑張ります、宜しくお願いします、とご挨拶をなんとかこなして。

 その後は、足立さんの言っていた通り、新採の皆さんと初顔合わせを終えてしまうと、あとは混沌とした喧騒の中に放り込まれてしまって。

 しばらくは、新採さんや仲の良い人たちと喋ったり、足りない飲み物を取りに行ったり、賑やかな中をあちこちうろうろとしていたのだけれど、

 「ごめーん、早瀬さん。俺さあ、煙草吸いたいんだけど、喫煙場所って知らない?」

 いくつかの空になったグラスを持てるだけ持って、所定の場所に下げに来た時、脇から戸川さんにそう声を掛けられて、私は驚きつつも彼に向き直った。

 これまでに見た、どことなくふざけたような雰囲気ではなく、やや普通のテンション、といった感じなのに、少しばかりほっとしながら、説明を始める。

 「分かりますよ。ええと、お店の入口を出て、左手に折れて、それから……」

 「あー、悪い、俺マジで空間認識苦手なんで、出来たら案内してもらってもいい?」

 「いいですよ、すぐそこですし。じゃあ、こっちです」

 そう請け負うと、私は土間にずらりと並んだ中から自分の靴を探して、先に立って店の中を歩いて行った。クラウドモールの一店舗であるこの会場は原則禁煙で、煙草を吸うとなれば、各階に設けられた喫煙スペースでなければならないことになっているのだ。

 さっき言いかけた通り、入口を出て左手に折れたあとは、吹き抜けの横を抜けてさらに右に折れなければならないので、確かにちょっと分かりにくい。

 煙を上げる煙草のピクトグラムが目印の、透明なアクリルで仕切られたスペースを手で示しながら、私は振り返ると、

 「ここですよ……あ、あの、どうかされましたか?」

 顔を合わせた戸川さんの表情が、控え目に見ても情けなさそうな表情になっているのに、慌ててそう尋ねると、彼はきまり悪そうに頭を掻いて、

 「いや、帰り道分からなくなりそうなんで……一本だけだから、吸い終わるまで一緒にいてくんねえかな?」

 「えっ、そうなんですか!?分かりました、あっ、でもごめんなさい、煙は苦手なので、外で待っててもいいですか?」

 すまなさそうな言葉に焦りつつもそう返すと、戸川さんは一瞬、細い目を軽く見開いて。

 それから、おかしそうに唇を歪めて、くくっ、と笑い声を漏らすと、

 「あーあ、めっちゃくちゃ素直っていうか……危ねえなあ、ほんっと。森谷くんが警戒すんのも分かるわーマジで」

 「え、あの、森谷さんが何か……」

 唐突に出てきた彼の名前に動揺しつつも、それだけを聞き返すと、戸川さんはこちらに目を向けてくるなり、ひょい、と大きく眉を上げて、

 「何って、俺が早瀬さんに気があるの、あからさまに牽制してんじゃん。あ、あとな、俺、実はスモーカーでもなんでもないんで」

 さりげなく付け加えられた一言で、私は一気に混乱してしまった。

 ということは、この人はわざわざ嘘をついて、ここまで私を誘導してきたということで。

 それに、あっさりと、私に気がある、とか。

 その意図が読めずに、ただじっと彼を見返していると、戸川さんは苦笑を浮かべて、

 「いやー、そんな不安そうな顔しなくても、別になんもしねえって。ただ、いっこだけ聞きたいことがあってさ」

 「ど、どういったことでしょうか」

 「うん、前にも聞いたけど、早瀬さん、森谷くんと付き合ってんの?ってこと」

 半ば予想していたとはいえ、再び直球で聞かれてしまって、私はうろたえた。

 以前に、優理たちに話した時とは、私の森谷さんへの気持ちがかなり変わってしまったから、どういう言葉で伝えればいいのか迷っていると、

 「ああ、とりあえず、足立さんからだいたいの話は聞いてるよ」

 「……だったら、どうして聞くんですか?」

 『お友達から』となった経過を知っているのなら、あらためてこんなことを聞く必要もないはずだ。そう思っていると、戸川さんは天を仰ぐような仕草をして、

 「そりゃ、まだ『お友達』からなーんにも変わってないんだったら、俺の付け入る隙もあるかもしれないじゃん?けどまあ、見てる限りではそんな感じでもない気がするんで。俺、はなっから負ける喧嘩はするつもりない主義なんでねー」

 鋭く飛んできた言葉に、私はさっと頬に熱が上るのを感じて、隠すように俯いた。


 ……他の人から見ても、分かっちゃうような雰囲気なんだ。


 『好き』の気持ちに、もしもゲージがあるとしたら、彼と顔を合わせるたびに、それは着実に上がり続けている。それが、多分だけれど、もうすぐ限界値まで達してしまいそうなのは、自分でももう分かっていることで。

 ただ、それがいつなのか、そしてどんな言葉で彼に伝えるべきなのか、それだけがまだ、どうしてもまとまりがつかなくて。

 「……なーんか、もう聞くまでもないって感じだけどさ、一言でいいから、答えてよ、どう思ってんのか、って。でないと、ぶっちゃけ諦めつかねえし」

 そう声を掛けてきた戸川さんは、一歩、足を進めてくると、じっと答えを待つように、黙ったままの私の目の前に立った。

 そうまでされても、なかなか声になって出てこなかったけれど、ようやく唇が動いて、


 「……あの、森谷さんは、凄く……」


 最後の言葉を告げようとした、その時、ばたばたと複数の足音が響いてきて、

 「あーっ、いた!もー、戸川さん何やってんですかー、もうすぐおひらきですよー!」

 聞き覚えのある声に、顔を上げてそちらを向くと、元来た通路の先から、初島さんと、そのすぐ後ろに続いて、森谷さんが走り寄ってくるのが見えて。

 見る間にすぐ傍にまで近付いてくると、私と目を合わせてから、隣に立つ戸川さんに、険しい視線を向ける。と、

 「……何か、したんですか」

 「聞きたいことがあったから、聞いてただけだよ。ま、とりあえず納得したから、もう余計なことはしませんて」

 淡々とそう返して、肩をすくめてみせた戸川さんは、戸惑った様子で私たちを見ている初島さんに向き直ると、にっ、と笑みを浮かべて、

 「さ、邪魔者は退散退散ーっと。清佳ちゃんも俺だけいれば問題ないよなー?」

 「は!?ストレートに馬鹿なこと言わないでください!えっと、早瀬さん、森谷さんも、お先に失礼しますねー!」

 おそらく事態が掴めないながらも、そう手を振ってくれた彼女の肩に、半ば腕を回して歩き去っていくのを、私はぼんやりと見送るしかなかったけれど、

 「……早瀬さん、何を言われたの?」

 間近で響いた低い声に、びくりとして顔を向けると、伸ばされた腕に両の肩を掴まれて、身を引く間もなく、森谷さんがすっと身を屈めてきた。

 鋭さを含んだ、わずかに細めた瞳にじっと見据えられて、微動だに出来なくなって。

 「告白された?それとも、僕とのことを詮索されたの?」

 矢継ぎ早に強い口調で尋ねられるのに、一拍を置いて、なんとか小さく頷いてみせると、森谷さんは、ふいに唇を歪めて、苦しげな表情を見せてきて。


 「それで、あの人に心が動いたの?僕のことは、考えなかった?」


 低めた声が、ほんの微かに震えを帯びているのに気付いて、私は目を見張った。

 わずかに開かれた薄い唇が、答えを求めるように動くのを見て、呪縛がふっと解かれた気がして、

 「あの、いきなりだったから、とにかく驚いてしまって。森谷さんのことも聞かれて、どう返したらいいのか、そればかり考えてて、だから、あの」

 必死で言葉を紡いではみるものの、切れ切れにしか出てこなくて、どうにも情けなくて、次第に目の奥が、じんわりと熱くなってきて。

 「ほ、ほとんど、森谷さんのことしか考えられなくて、ぐるぐるして。全然、まともに答えを返せてなくて……」

 泣き言のようにそう言いながら、結局、戸川さんに何ひとつきちんと伝えられていないことを、あらためて思い知らされていると、ふいに、肩を掴んでいた手の力が緩んで。

 いつしか、滲んだものにぼやけていた焦点を合わせるように、瞬きを繰り返すうちに、視界が晴れてきたかと思うと、森谷さんの、憮然としたような表情があって。


 「……なんでこう、いつもいつも……抱き締めたく、なるだろ」


 ため息とともに吐き出された、台詞の意味が理解できる前に、彼の顔がそっと近付いてきて、こつん、と軽く、額を合わせられて。

 「好きだから、我慢はするけど……もう、そんなには余裕ないから」

 囁くようにそう告げてくると、肩に添えた手に、一瞬だけ力を込めてから、身を離して。

 私と目を合わせてくると、安心させるかのように、深く頷いて、

 「向こうで、待ってるから。落ち着いたら、戻ってきて」

 言い聞かせるようにそう言うと、私の頭を優しく一撫でしてから、森谷さんは、さっと踵を返して、会場の方へと戻って行った。

 そして、ひとり取り残されてしまった私はといえば、呆然と立ち尽くしたまま、次々と投げられた言葉を、ひたすらぐるぐると反芻しているばかりで。


 ……どうやったら、この熱、冷ますことが出来るんだろう。


 触れられた額に、そっと手をやってはみるものの、指先までもがなんだか熱くて、相乗効果でますます体温が上昇しそうで、完全に逆効果にしかならなくて。

 座り込んでしまいたい気にもなるものの、そうしてしまえばもう立ち上がれなくなってしまいそうで、私は傍らの壁に、力の抜けた身体をそっともたせかけた。



 それから、どうにか意を決して会場へと戻ってみれば、既に、森谷さんと幹事の皆さんだけになっていて、とにかく全員にお待たせしたことを平謝りして。

 そのまま二次会へと行くことになった途上も、どんな顔をすればいいか分からなくて、微妙に森谷さんと距離を取っては、内野さんにいぶかしがられてしまった。

 ……もう、きっと、ゲージは振り切れてしまったのかも、しれない。

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