真面目に、恋

 ユースの歓送迎会が無事に終わってからというもの、目に見えて僕に対する早瀬さんの様子が挙動不審になってしまった。通勤時に一緒にいるのも、先月より回数は減ったとはいえ、依然として続いている残業時のお迎えも、特に変わりなくしてはいるのだが、少しでも身を寄せるような動きをすると、あからさまにびくりとして、同じだけ後ずさっては距離を置く、ずっとそんな調子で。

 そのくせ、至って普通の、つまり色恋の絡まない話題には、言葉を途切れさせることもなく、もの柔らかな笑みさえも浮かべて応じてくるのだから、何かどうにももどかしくてならない、そんな日々を送っていたのだが、

 「なー、だからさー、フラれた男に同情すると思ってさー、飲み付き合ってよー」

 「……だから、なんでよりによって僕なんですか。愚痴りたいだけなら、足立さんでも井沢さんでも誘えばいいじゃないですか」

 水曜日、いわゆるノー残業デー、として位置付けられている、その日の閉庁時刻直後。

 机上を整理してロッカーに向かおうとしたところ、唐突に現れた戸川さんに、酷く馴れ馴れしく肩に手などを置かれて、僕は苦々しい表情を隠すことなく睨み付けたのだが、

 「だってー、あだっちゃん先輩は先約あるしー、井沢はなんか知らねえけど断られたし。ほらー、さっきだってダッシュで帰ってったろー?」

 まるで、子供のように唇を尖らせながら(当然可愛くもなんともない)そう言ってきた。

 そういえば、と、彼の言葉につい先程の様子を僕は思い返した。今日は井沢さんも僕も、自席でずっと事務処理を行っていたし、さほど繁忙でもなかったから、早々に引き上げるつもりでいたのだが、終業のチャイムが鳴った途端に、お先に、と駆け出していったのだ。

 こちらは、残業か否かを知らせる早瀬さんからのメールを待って行動するから、すぐに席から動かずにいたら、運悪く捕まってしまった、というわけで。

 そうこうしていると、僕の携帯が、待ち望んでいた着信音を鳴らした。

 短く響く、澄んだベルの音に、すぐさまジャケットのポケットから取り出すと、素早くそれを開いた。早瀬さんからだ。



 From:早瀬里帆

 Title:残業なしです。

 本文:

 予定の九割は、皆処理を終えたので、

 今日は全員定時で解散、ということになりました。

 明日は分からないけどねー、とは倉田さんの弁ですけれど。


 ところで、今日は新刊が出ているはずなので、

 少しだけ本屋さんに寄ってもいいですか?

 あの、駅前の大きい方の本屋さんなんですが。

 それでは、支度が済み次第、降りますね!


 

 「あ、里帆ちゃんからかー。っていうかいいよなー、待ち合わせて帰るとか職場恋愛の醍醐味じゃん、俺もやってみてー」

 間髪入れず脇から覗き込んできた戸川さんの台詞に、どうにも聞き捨てならないものが含まれていたことに気付いて、僕は音を立てて携帯を閉じてしまうと、彼に詰め寄った。

 「どうして、あなたが彼女のことを名前で呼んでるんですか?」

 襟首を掴んでしまいたいほどの苛立ちをそのままに、低くそう切り込むと、戸川さんはわざとらしいまでの動作で、軽く肩をすくめてみせた。

 「そりゃ、本人に頼んだんだよ。『清佳ちゃんみたいに名前で呼んでもいいー?』って、俺が女の子は大抵こうやって呼んでるっつったら、まーすんなり納得してくれたわー」

 「……それなら、内野さんも名前で呼んでみてくださいよ」

 素直過ぎるのも問題だ、と、いささか頭の痛い思いで、浮かんだ顔を引き合いに出してみると、意外なことに、彼はすっと声をひそめて、思わせぶりに言ってきた。

 「あー、あの子は却下。だめだっつって全力で止められちゃったからさー」

 「え?誰に、ですか?」

 思わずそう尋ね返すと、戸川さんはすっと口角を上げて、

 「話してもいいけどー、一緒に飲みに行ってくれたらねー。里帆ちゃんのことも、少しばかり喋っちまいたいこともあるしさ」

 さりげなくこちらを釣るような発言をしながら、にやにやとした笑みを向けてきたのに、僕は小さく息をついた。

 「結局、今日のターゲットは最初から僕だった、ってことですか?」

 「うん、そう。呑み込みが早くて助かるわー」

 ひとかけらも悪びれる様子もなく、即座に認めてきた戸川さんの心底嬉しそうな笑顔を見ながら、どうしてこんな人と彼女を天秤に掛けなきゃいけないんだ、と、色々なものを呪いたい気持ちで、僕は再び手元の携帯を無言で開いた。



 その後、とにかく急いでメールを打ち、彼女が一階に降りてくる前に、『分かりました、それなら優理とお茶して帰ります』と返ってきたので、色々な意味で安堵の息をつきつつ、少しでも顔を見たいのをこらえながら、僕は戸川さんと職場をあとにした。

 「それじゃ、どこに行きます?」

 「個室ありで、酒がある程度種類あったらどこでもいいよー。あんまおおっぴらに話す内容でもないしなあ」

 付け加えられた言葉は気になるものの、幸い、その程度の要望なら、駅前にもクラウドモールにも山ほどある。早瀬さんとかち合うのだけは絶対に避けた方がいいだろうから、書店近くは候補から外して、交差点を挟んで対角線上に位置する居酒屋へ、ということになった。平日で時間も早いため、客の入りはまだこれからというところだから、実にあっさりと小部屋が取れて、適当に好きな酒と、簡単なつまみをそれぞれ注文する。

 オーダーを受けた店員の男性が、会釈とともに襖を閉めてしまうと、向かいにあぐらを組んで座っていた戸川さんが、腕を組んだままふっと天を仰いだ。

 「なあ、森谷くんさあ、マジで里帆ちゃんのこと好きだよな?」

 「当たり前です。惚れてなければ、いちいちこんな喧嘩売るような真似してませんよ」

 いきなり飛んできた問いに、今更照れも覚えることなくそう返すと、天井に向けていた顔を戻してきた彼は、ふいにほろ苦いような笑みを浮かべて、

 「分かってたんだけどさ、まあ、俺としてはちゃんと聞いときたかったっていうか……何しろ、あ、可愛いな、って思ってから、ものの数秒で失恋したもんだからさー」

 「数秒って……初めて顔を合わせた時のことですか?」

 「そうそう、ゼフィールな」

 僕の言葉に、戸川さんが頷いた時、襖の向こうから声が掛かったかと思うと、すぐさまがらりと開けられ、先程の店員が、慣れた様子でハイボールとビールをテーブルに置いた。

 再び襖が閉められ、一応乾杯めいたことをしてから、取り急ぎお互いに喉を湿らせると、グラスの縁まで入った氷をかすかに鳴らすようにしながら、戸川さんが口を開いた。

 「なんつかさ、俺、昔から黒髪眼鏡の子にひたすら弱いのよ。だからあそこで窓越しに見かけた時、真面目そうで可愛いなーって目が引かれたんだけど」

 そう言って言葉を切ると、すっと僕に視線を据えてきて、

 「そんで見てたら、いきなりの硝子越しアイコンタクトじゃん?また、森谷くんの顔がびっくりするくらい甘々だしさー、彼女は赤くなってるしなんだよもーって感じでー」

 「……仕方ないでしょう、久し振りに一緒に早く帰れる、って時だったんですから」

 まるで拗ねたようにそう言い募る戸川さんに、僕は照れを誤魔化すように、ジョッキに口をつけた。あの時、僕の姿を認めるなり、ぱっと明るい表情になった早瀬さんを見て、どうしようもなく嬉しさが滲んできてしまったのだから。

 そんな僕の様子をどう見たのか、戸川さんは驚いたように大きく眉を上げると、

 「そのどっか初々しい感じまで似てるんだよなあ……あーもーマジで神様って残酷ー、こんなん、一生に一回で十分だったのによー」

 そう嘆くような声を上げるなり、グラスを脇に置いてテーブルに突っ伏してしまった。

 かなり芝居がかっているような気もしなくもなかったが、この状況で聞かないわけにもいかず、僕は渋々問いを発した。

 「以前に、同じような失恋をしたってことですか?」

 「うん、まあそういうこと。高校ん時なんだけどさ」

 あっさりと身を起こしてきた戸川さんは、もう十年ほども前の情景を思い返すように、細い目をさらに細めていたが、やがて懐かしそうに話し始めた。

 「里帆ちゃんは真面目可愛い系ってとこだけど、そん時に好きだった子は真面目クール、っていうのか、いわゆる学級委員長タイプでさ」

 真っ直ぐに切り揃えた黒髪と、黒縁眼鏡の奥のやや鋭い瞳を持ったその女子は、二学年先輩。彼女が足立さんと同じクラスだったことが縁で、少しずつ接する機会が出来た、ということだったそうだが、

 「ふって零した笑顔が可愛くて惚れたんだけど、これがまあ、めっちゃくちゃ難攻不落でさー。俺、当時から行動力だけは無駄にあったから、暇さえあれば三年の教室行って、なんやかんやと呼び出して、受験生に勉強教えろとかデートしようとか迫ってたんだけど」

 もちろん、時期的にそれどころではない彼女は、頑として戸川さんのアプローチを受け付けなかったそうで、最後には見かねた足立さんにまで『やめとけ』と諭されたらしい。

 しかし、それで諦めるようなことは出来なかったらしく、

 「呼び出して真面目に惚れてるんですけど、って告白したら、すっげえ真っ赤になって。いい感じじゃねえのって思ってたら、ごめん、好きな人がいるから、ってばっさり言われちゃってさー……マジでベコベコにへこんだわ、あん時」

 「それで、あっさり諦めたんですか?」

 「いいや。何回でも好きだっつって言うつもりだったし、実際言ったんだけど、どうも好きな人、ってのがフリーらしくて、全然いい答え貰えなくてさー」

 それで、業を煮やした戸川さんは、彼女の『好きな人』を突き止めるべく観察を始めたそうだ。自分より格上、と感じる相手ならともかく、そうでもない程度の男なら蹴散らすつもりで、地道に情報を集めていったところ、

 「それがもー、誰に聞いても『いるっぽいけど相手が分かんねえ』って言われてさー、しょうがねえからひたすら彼女の周りの男に注目してたら、もーあっさり判明してさ」

 「……もしかして、足立さんですか」

 話の流れからして、それしかないのでは、と思って尋ねてみると、戸川さんはうん、と素直に認めてしまうと、頬づえをついて、

 「これがまた、夏休み入る直前でさー、放課後の教室っていうシチュエーションですよ。あだっちゃん先輩、試験日九月だし、その前に井沢も一緒に遊びに行こうぜーって誘いに行ったんだけど、なんか、二人で向かい合って話してて」

 他のクラスメイトもちらほらといる中、窓際に立っていた二人が喋っているのを見て、遠慮なく突っ込んでいこうとしたその時、足立さんが何気なく外に視線を移して。

 それを追った、彼女の表情が、得も言われぬ切なさをたたえていて。

 「でも、あだっちゃん先輩が顔を戻した時にはさ、もういつもの顔に戻ってんだよね。そんでまあ、俺、なんで、って思ったわけよ」

 お互いに受験生だという以外には、特に障害があるようにも見えず、つかず離れず、といった距離感で、あえてそれ以上踏み込まないようにしているのに気付いた戸川さんは、どう動いたものか悩んだそうだが、

 「人生で初めて、めっちゃくちゃ躊躇したわー。なんもしなけりゃ、このまま卒業まで進展なさそうだし、それなら俺の方向いてくれるかも、ってさんざん考えて……でもまあ、結局、俺、二人とも好きだったんで、タイミング計りまくって後押ししたんよ」

 二人それぞれの合格が確定した、三月。井沢さんにも協力してもらって、教室に彼らを呼び出しておいて、足立さんと彼女に宛てて、短い手紙を書いておいたそうだ。

 「今言わないと、マジで二度と会えなくなるかもしれねえから、言っとけばー、って。まあ、えらっそーな勘違いガキの言い分だったけど、上手くいったからいいかなーって話」

 一息にそう話してしまうと、またグラスに口をつけた戸川さんに、僕は確かめるように尋ねてみた。

 「じゃあ、足立さんはもしかして今も、その彼女と続いてるってことですか」

 「っていうか、今まさに婚約中で同棲してるよ。あとは結婚するタイミング調整してるとこ」

 あそこも共働きだからー、と、何やらしみじみした様子で返してきた戸川さんは、突然僕に目を戻してくると、にっと笑って、

 「ま、そういう感じだから、君ら見てるとどうにもちょっかい出したくなっちゃってー。実際好みだったし、あわよくば、ってのも期待しなかったわけじゃないけどさ」

 「そんなことになったら、全力で奪い返しますよ」

 あくまで軽い言い方とはいえ、一度でも彼女に本気の思いを向けた人に対して、警戒を解くなど出来るはずもなく、眉を寄せつつそう返すと、戸川さんは、ん?と声を上げて、

 「この状態で、まだ不安なわけなん?これで森谷くんがフラれるようなことがあったら、確かに俺としてはそうですか有難う頑張るわって感じなんだけど」

 「……あと一息かな、っていうのは、正直なところ、分かってますよ」

 後半の台詞は一切合財無視することにして、僕は初めて本音を漏らした。

 彼女が、ことさらに思わせぶりな態度を取れるような人ではないことは、よく理解している。だから、この前の反応も、時折見せるよそよそしい態度さえにも、意識されていることは疑いようもなくなっていて。けれど、


 「もう、自意識過剰でもなんでもない、とは思ってるんですけど……僕からの言葉は、何度もはっきりとぶつけてるから、絶対に、彼女からの言葉が欲しいんです」


 今の二人のスタンスは、もう互いの好意がほの見えて、ぬるま湯めいたその心地よさに半ば甘えている、そんな感じだ。こちらから破ってしまいたいけれど、頷いてもらったとしても、僕ばかりが彼女のことを想い続けているのかと、そんな風に卑屈になりそうで。

 さすがに、そこまでは口に出すことも出来ず、にわかに沸き上がる嫌な気分さえも振り払えなくて、黙々とビールを飲み続けていると、

 「なー森谷くん、オーダーやたら遅くねえ?枝豆すら来てないとか信じられねえし」

 「……チャイム押しましょうか」

 至って気楽な調子で声が返ってきて、むっつりとしたまま手近にあったそれを押すと、どこの店でもだいたいは同じの、電子的な呼び出し音が店内に鳴り響く。

 ありがとなー、と笑いながら返してきた戸川さんは、ふっと真面目な表情になると、

 「何でもそうだけど、求めてるものに手が届く、ってだけでめちゃくちゃ恵まれてんよ?俺みたいに、指先だって引っ掛からずに終わっちゃうこともあるんだからさ、そのへんはぶっちゃけ贅沢だわー」

 そう言いながら、わずかに目を細めて、射るような目つきを向けてくる。

 揶揄交じりのその視線を、真っ向から受けながら、僕は間髪入れずに言い返していた。

 「だからって、これだけは譲れないんです。僕でなくてもいいんじゃないか、なんて、そんなことをずっと思いながら過ごすくらいなら、はっきり拒まれる方が余程いいから」

 そう口に出しながら、彼女の前にこの人がいた、あの情景が脳裏に蘇ってきた。

 頬を染めて俯きながら、何事かを必死で伝えようとしている、そんな姿を、僕以外にも見せていることに、どうしようもなく苛立ちを覚えて、我ながら見苦しく詰め寄って。

 なのに、泣き出しそうにしながら、あんなことを言ってくるから。


 他の誰でもなく、僕がいい、と、彼女の声で、どうしても伝えて欲しくて。


 「間違いなく僕の我儘だし、傲慢だって自覚はあります。けど……」

 渦巻いている迷いに、言葉が出なくなったその時、失礼致します、と今度は女性の声が掛かって、襖が開けられる。

 途端に、何事もなかったように笑みを浮かべた戸川さんが、オーダー遅いんだけど、と伝えるなり、その店員は慌てた様子で謝罪を述べると、すぐさま確認に下がっていって。

 まだ慣れていないのか、少しだけ閉め切れていない襖に、戸川さんは手を伸ばしながら、微かに息をつくと、

 「羨ましいねえ、先輩も、森谷くんも」

 ぽつりとそう零して、そっと開いた隙間を閉じてしまうと、疲れたように目を覆った。それから、元のように座り直すと、背後の壁に背中をすっかり預けてしまって、

 「俺、そこまで必死になれるだけ誰かに惚れてたかって言われると、自分でも疑問だわ。はるかさんには、そりゃ泣いて欲しくなかったんだけどさ……」

 腕を組んで、考え込むように目を閉じると、そのまましばらく唸っていたが、やがて、瞼をゆっくりと上げて、ひとりごとのように呟いた。

 「……多分、俺、あんな風に惚れて、惚れられたかったんだよなあ」

 静かに放たれたその言葉に打たれて、僕は無言のまま彼を見返していた。

 思いを向けている先は、僕でも、もちろん早瀬さんのことでもなくて。

 そう考えていると、突然、我に返ったように、ぶるぶると激しい勢いでかぶりを振った戸川さんが、深呼吸めいた長い息を吐き出してしまうと、

 「あー、もー、なんかトラウマっぽいもん抉り飛ばした気分ー。こーんなマジ話とか、全然する気なくて、里帆ちゃんネタでからかってやるくらいのつもりだったのにー」

 「……僕をからかえるだけの材料なんか、あるんですか?」

 少しばかり呆れながらも、張り詰めていたものが四散したように感じて、やや安堵する思いでそう尋ねると、戸川さんは笑って、

 「うん、こないだ里帆ちゃんと喋った時に新たに作ってきた。いやー、純粋にあの子、いじり甲斐あるからさー、特に森谷くん絡みは」

 「……何を言ったんですか。あと、彼女のことを名前で呼ぶの、本気で止めて欲しいんですけど」

 「えーやだよー早瀬さん、なんて心底味気ねえじゃん。いいだろーそれくらい、一歩も二歩もそっちの方がリードしまくってんだからー」

 「まだ追ってくるつもりなんですか?言っておきますけど、これ以上寄せ付けるつもりなんか一切ありませんから」

 「だってー、万が一でも億が一でもチャンスはあるかもしれないじゃん?まったくもー、あんまり聞き分けねえこと言うと、彼女の反応教えてやんないよー?」

 などと、すっかり体勢を立て直したらしい様子に、遠慮なく反撃を返しているうちに、遅れていた料理もやっと手元に届いて。

 色々と話しているうちに、その表情から、次第に翳りが消えていくのを見ながら、僕は行き場のない想いが、未だ辺りにぼんやりと漂っているような、そんな気がしていた。



 そうして、二時間ほどもとりとめもなく話し続けて、そろそろ帰るか、となった時、

 「何か、次に約束でもあるんですか?」

 精算を終えて駅に向かい始めるなり、手にしたスマホを忙しく操作し始めた戸川さんに尋ねると、彼は軽く首を振ってきた。

 「いや、ちょっと井沢にね……お、なんか二軒目移動したみたい」

 「……井沢さん、もしかして誰かとデートですか?」

 以前に聞いた、足立さんの言葉を思い出してそう言うと、あっさりと頷きが返ってきて、

 「そんな感じらしいけど。なあ、バルって割と二人っきりになりにくくね?」

 「基本、立ち飲みが多いですからね。そういえば、確かこの近くにもあったはず……」

 と、何気なく顔を動かした途端、落とし気味の照明に照らされた店内が、通りに面したウィンドウ越しに見えて。

 少し奥に見えるカウンター席に並ぶ、どう見ても見覚えのある背中が二つ、目に入って。

 「……そのへんは心配しなくてもいいみたいですよ、ほら」

 先を行く肩を叩いて引き止めると、振り返ってきた戸川さんもそれを認めて、おー、と声を上げると、

 「結構いい感じじゃね?なー、森谷くん、店内潜入レポートとかやる気ない?」

 「そんな趣味はありませんから!ほら、気付かれないうちにさっさと帰りますよ!」

 そのまま放っておいたら、本気で先陣を切って店に入っていきそうな戸川さんの背中を押しながら、僕は明日、どうやって井沢さんに突っ込もうかと、切り出し方を考えていた。

 ……ついでに、どうやったら戸川さんの『名前呼び』を阻止できるのかも、きっちりと尋ねておくことにしよう。

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