答えは、ひとつ・1
四月も終盤となってくると、職員の異動もすっかり完了し(うちは驚いたことに、課内での異動しかなかった)、新採の皆さんも、各担当に徐々に馴染んでくるころだ。
そんな、何をどうしても気忙しい、年度初めの慌ただしい雰囲気がようやく落ち着いてきた、木曜日。
「里帆ちゃん、今度の土曜日って、森谷くんとデートじゃない?」
相変わらずの残業を終えた帰り際、職員用の通用口(一般的に『裏口』と呼ばれている)から外に出た途端、内野さんにそう言われて、私は少し驚きつつも応じた。
「いえ、まだそのへんは何も決まってないですが。でも、どうしてですか?」
「んー、ちょっと里帆ちゃんに相談、というか……良かったら、お茶でもしながらって思ったんだけど」
「それは全然構いませんけど……何か、ええと、秘密めいたご相談ですか?」
彼女のちょっと深刻そうな表情を見取って、言葉を選びながらそう尋ねてみると、内野さんは何かがツボにハマったのか、小さく吹き出した。
「うん、まだ秘密と言えば秘密、かな。バラす段階としては早過ぎるし」
どこか楽しんでいる、というか、とても可愛らしい笑顔とともに返してくるのに、私は思わず彼女の顔を見つめてしまった。なんとなくだけれど、今までにはない何か柔らかなものが含まれている、そんな印象を受けてしまったのだ。
それに気付いたのかどうか、内野さんは私と目を合わせるなり、照れたように笑うと、
「まあ、森谷くんも明けても暮れても里帆ちゃん確保しまくってるんだから、たまには先輩に貸してよ、って言っといてー」
「そ、そこまでではない……と思いますけど。分かりました、伝えておきます」
とり急ぎそう答えたところで、通勤がバスルートである内野さんとは別れて、私は常のように、五番出口から地下通路に入った。今日は、きっちり八時までの残業だったから、人気の少ない中を、こつこつとヒールを鳴らしながら進んでいく。
この通路は割と長いので、歩きながら森谷さんにメールを打つことも初めは考えたのだけれど、一度うっかり転びそうになってからやめてしまった。その代わりに、とりとめもなく彼のことについて色々と考える、そんな時間になってしまって。
……今日もきっと、いつもみたいに、優しく接してくれるんだろうな。
歓送迎会でのことがあってから、彼に近付かれるたびに意識してしまって、平静に対応することがすっかり出来なくなってしまった。目に見えて態度に出ているから、彼の方も、あえて触れることなく相対してくれていて、どうにか日々顔を合わせることも出来ている。
だけど、そろそろ、心を決めなければいけない。
自身に言い聞かせるように、そう考えながら、私はつい今日の午後、戸川さんと話したことを思い返していた。
戸川さんの所属は保険年金担当だから、市民税担当に問い合わせをしたり、調査に来られたりという関わりが多い。保険税の基になっているのがうちのデータだから、何らかの変更がこちらにあれば、当然ながら合わせて課税内容が変動することもあるわけだ。
そういった次第で、今日も、市民の方からの照会があったとのことで、端末から内容を確認していたのだが、
「……先月、かなり遡及して確定申告されてるんですよね。直近の資料はすぐに出ますけど、前年度以前のものは倉庫になるので、全部揃えた方がよさそうかな……」
「あー、悪いんだけど一応そうしてくれる?なんか、申告したこと自体は、本人も当然分かってるみたいなんだけど、それでも増額には納得いかないみたいでさ。とりあえず、ご理解いただけるまで根気よく説明させてもらいます、って感じなんで」
「分かりました。倉田さん、しばらく倉庫に行ってきますね」
新年度も結局変わることなく、斜め前の席についている倉田さんにそう声を掛けると、端末に向けていた顔をこちらに向けて、了解ー、と返してくれて、
「戸川くん、もし説明ややこしそうなら俺出向くからー。その方、俺が処理してるから中身覚えてるし、来庁されるんだったら良かったら呼んでー」
「マジですか!あー助かりますー、さすがにこっちの課税内容までは上手く説明できる自信ないんで!あ、でもできたら里帆ちゃんがいいなって思わなくもないんですけどー」
「うん、そこは倉庫までで我慢しといてー。まだうち時間的に余裕ないから余分なことしないでねー」
……二人とも、にこやかになんていう会話をしてるんだろう。
切り返しの速さに口を挟めないままに、とりあえず私は戸川さんと連れ立って、フロア奥の倉庫に向かった。専用のICカードをカードリーダーにかざして鍵を開けてしまうと、途端に、古い紙の匂いがつんと鼻につく。
あいにく予算の関係なのか、可動式の書庫は電動ではなく、ハンドル式の手動なのだが、年度を確認しつつ、戸川さんが指示通りに書棚を動かしてくれ、すかさず資料を私が取り出してくる、という作業の流れだったので、さほど時間はかからずに済んだ。
付箋を貼っておいたファイルの該当のページを、念のために最後に確認してから、さあ戻ろう、となったところで、戸川さんが声を掛けてきた。
「なー、里帆ちゃん。森谷くんにまだ答え返してやんねえの?」
完全に不意打ち、といったタイミングで飛んできた台詞に、私は驚いて振り返った。
背中から撃って来た当人はと言えば、微かに笑みは浮かべてはいるものの、どことなく真剣な様子でこちらを見つめていて。
これは、絶対に真面目に返さなければならないのでは、と、返す言葉を探していると、戸川さんは抱えたファイルを軽く揺すり上げながら、私をじっと見据えて、
「余計なお世話だなーとは思うんだけどさ、彼、結構きっついんじゃねえの、って思うんだわ。一月からずーっと待ってて、傍にはいるけどずっとおあずけ、って状態なんだろ」
「……それについては、返す言葉もないんですけど」
もう少しだけ時間をください、と彼に告げたのは、三月の上旬だ。四月ももう四週目に入ってしまったから、とうにひと月以上も経過している。
何度も、真摯な心の内を言葉にして与えてもらっているから、その気持ちに疑いを挟む余地など既にありはしない。そして、何より自分の心の向かう先は、もう。
「ひょっとして、なんか不安?森谷くん、傍から見ててもめちゃくちゃ惚れまくってるから、大事にしてくれると思うんだけど」
「えっ、いえ、あの、それは今でもそう思うんですけど、その……」
とっさにそう返すと、戸川さんはひょい、と眉を上げてみせてから、少しばかり意地悪そうな笑みを向けてきた。
「おー、俺相手に堂々と惚気てくれるとかー?振った相手にさらに追い打ちー」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、今のはふざけただけだから。ほんっと里帆ちゃん真面目なんだからー」
そう言って、器用に肩をすくめてみせた戸川さんは、戸惑っている私に視線を合わせてくると、宥めるように言ってきた。
「ま、なんか引っ掛かることがあるんだったら、森谷くんに言ってやんなよ。黙ってたところで、人間どんだけ好きでも以心伝心、なんてありえないんだからさ」
「……それは、ご経験から、っていうことですか?」
「一応ね。さーて、余計なことはこれくらいにして、行きますか」
扉開けてくれるー?という戸川さんの言葉に応じて、再びカードで開錠をしてしまうと、かなりの高さになったファイルを抱えた彼に先に出てもらった。
事務室までのちょっとした距離を、前と後に並んで黙々と歩きながら、人がいないのをいいことに、私はその背中に向けて、ずっと考えていたことをぽつりと零してみた。
「戸川さん、お付き合いを始めると、何か変わるものなんでしょうか」
「あー、細々と変わるね、距離感とか、喋り方とか、触れ方とか……悩んでるの、その辺なん?」
「……みたい、です」
今の関係が、ひとつの言葉でどれだけ変わるのか、未経験なだけに想像もつかなくて。傍にいて心地良くて、それが、あと一歩踏み込んだらどうなるのか、少しだけ、怖くて。
そんなことを言ってみると、戸川さんは私の言葉に軽く喉を震わせて、
「だからって、里帆ちゃん、森谷くんが傍からいなくなったらどうすんの?万が一さ、あなたの恋人にはなれません、なんて言ったら、彼、それこそ一切関係断ち切るよ」
「……それ、は」
さらりと飛んできた容赦のない言葉に、我ながら愕然として足を止めると、戸川さんは構わず先に進みながら、首だけを巡らせてくると、さらに言ってきた。
「甘えるのはいいけど、ほどほどになー?いつまでも待ってられるほど、そんなに男に余裕あると思う?」
からかいも消えた調子でそれだけを告げてしまうと、さっと顔を戻して、そのまま後も見ずに足を速める。その様子に、ようやく我に返った私は、慌ててその後を追い掛けると、言葉もないまま、その後ろについていくことしか出来なかった。
戸川さんに言われたことで、よりはっきりと自分の心は見えてきた。だから後は、このどうしようもない怯えめいたものを振り切ってしまえれば、と思うのだけれど、彼と顔を合わせてしまうと、つい、これまでのようにふるまってしまって。
こんなのじゃだめだなあ、と、ひとりぐずぐずと考え込みながら、気付けばもう改札もエスカレーターも過ぎてしまって、こつん、とホームに降り立った自分の足音に、はっとして顔を上げた。
しまった、メール打たなきゃ、と反射的に思ったその時、短く着信音が鳴った。
From:森谷博史
Sub:もう出たかな?
メールがいつもより遅いから、心配になって。
先走ってたら、ごめん。
今日は、ふと思いついてお弁当を作ってみたから。
中身は開けてのお楽しみ、ということで。
それじゃ、気を付けて帰っておいで。
「……女子力、高すぎだよね」
そう呟いて、笑みを作りかけた唇がふいに震えて、思わず口元を押さえる。
もし、こんなやりとりさえ、出来なくなったら、私。
心に浮かんだ思いと、微かに滲んだものを吹き飛ばしてしまうように、ホームに入ってきた電車が目の前を過ぎてゆくのをぼんやりと見ながら、私はそれが頼りだというように、携帯を握り締めたまま、ただその場に立ち尽くしていた。
それから、電車に乗っている十五分の間になんとかメールを打ち、きつく頬をつねって色々なものを必死で抑え込んでから、森谷さんに会って。
土曜日の予定の話をしてみると、それなら週末は一度実家に顔を出してくるから、との答えが返ってきて、少しだけほっとしてしまった。いわば、思いがけなく猶予を貰えた、というわけだから、その間に、気持ちの整理もすることが出来るだろう、と思って。
さらに、その次の土曜日から五連休、となるから、このお休みの間のうち、森谷さんと会える日を、結論をお伝えする日にしてしまおう、と、なんとか心に決めたのだけれど。
「……えっ、ダブルデート、ですか!?」
土曜日、藤宮の商店街からは一筋外れた通りに佇む、隠れ家的なカフェ。
特にスフレパンケーキがイチオシ、だというそのお店の、どこかのどかな雰囲気の中、内野さんと向かい合って座っていた私は、思いがけない申し出に、そう声を上げていた。
「うん。なんかねー、私も井沢さんもデートとか、お互いに久々過ぎてどうしよっか、ってなっちゃって……それなら、森谷くんと里帆ちゃん誘っちゃえば楽しいんじゃない?みたいな話になって」
こともなげにそう続けてきた内野さんは、さりげなく混ぜられていた驚くべき情報に、思い切り動揺してしまった私に気付いたのか、ちょっと苦笑を零して、
「ごめん、ほんといきなりだよね。だけど、こっちもこんなことになったの、つい最近だから、どうしたもんかなーってところもあってさ」
「い、いえ、それは全然いいんですけど……いつの間に、ってびっくりしちゃって」
二人は年回りも近いし、ユースの幹事などの関係もあって、確かに顔を合わせる機会も増えていたけれど、まさかそんな展開になっているなどとは、さすがに思いも寄らなくて。
そう返してみると、内野さんは手にしていたシンプルな白のカップをソーサーに戻して、少し考え込むように間を置いてから、そっと口を開いた。
「言われたのは、先週なんだけど……話したいことがある、っていうから、いいよー、って、何の気なしに行ってみたら、なんかそういうつもりだったみたいで」
一軒目のお店では、あたりさわりなく職場や仕事の話に終始していたそうなのだけれど、飲み足りないから、と誘われた二軒目で、ついに本題を切り出されたそうで、
「私が新採で入ってきた時に、なんかいいなって思ってくれてたらしいんだよね。でも、前にも言ったけど、当時は彼氏いたから、諦めてたんだって」
ところが、三年前に彼氏と別れた、という話を聞いて、井沢さんはチャンスだ、と俄然意気込んだそうなのだが、
「自分ではあんまり分かってなかったんだけど、私、それなりに沈んでたみたいで……落ち込んでるところに付け込みたくないから、って、ずっとタイミング計ってたんだって。それでも三年は長くない?って、なんか笑っちゃったんだけど」
言葉を切った内野さんは、それまでのどこか軽い調子で話していたのを止めてしまうと、視線をテーブルに落として、ほんのりと頬を染めた。
「そしたら、凄く真剣な顔して、『付き合ってください』って言われちゃって。普段が、親切そうににこにこしてるとこばっかり見てたから、ギャップに負けちゃったみたい」
「じゃあ、即答、されたんですか?」
「ん。気が付いたら、口が勝手に動いてて、『はい』って」
そう答えてくれた内野さんは、しばらく落ち着かなげに視線をさまよわせていたけれど、やがて、頬にそっと手をやって、小さく息を吐き出した。
「結構、照れるねー。もっとあっさり言えちゃうかなって思ってたんだけど」
「……なんだか、私まで照れます」
いつもてきぱきとしていて、何事にも抜かりのない感じの彼女の、可愛らしいところを覗いてしまった、ということもあるけれど、自分が同じことを言われた時のことを、つい思い出してしまって。
もっとも、私と内野さんでは、返した答えがまるで異なるから、その潔さが今は眩しいくらいだ。そう思ったことを口に出すと、内野さんは笑って、
「それは条件が違うよー、こっちは割と付き合いだけは長いし」
話を聞いてみれば、新採の時に、当時の指導役だった足立さんに紹介されるような形で井沢さんと引き合わされた、ということらしい。となると、もう五年以上だ。
「むしろ森谷くんの方が無謀っていうか、リスク高いのによくやったな、って。これで里帆ちゃんがすっぱり断ってたら、なんていうかお互いにいたたまれないじゃない?」
「……今みたいな関係には、絶対なってないですよね」
ぎくしゃくするどころか、顔すらも合わせづらくなってしまっていただろう。そして、彼のことを何ひとつ分かることのないまま、それきりになっていたかもしれなくて。
あり得たかもしれない別の展開に、そう思いを巡らせていると、内野さんは頷いて、
「一度でも好意を口にしちゃうと、もう、絶対に後戻りはできないんだよね。なのに、森谷くんも、井沢さんも、なんであんなに思い切れたんだろうな、って思うよ」
呟くようにそう言いながら、手元のカップに目を落として、さらに言葉を継いだ。
「ほんとは、何を言われるのか、だいたい見当はついてて……誤魔化しちゃおうかな、って、ちょっと考えてたの。もう一回、一から全部誰かと恋をする、なんて、出来る気がしなかったし」
ずるいよね、と、ぽつりと零した彼女は、じっと見つめているばかりの私に気付いて、少し困ったように微笑んでくると、
「でも、あれだけのことをぶつけられちゃったら、言い訳してる場合じゃないなって。不安とか、戸惑いとか、こっちが感じてることも全部、鏡写しみたいにお互い抱えてて、それでも、伝えてくれたんだから」
言葉にされたひとつひとつが、今までにずっと、森谷さんが与え続けてくれたものを、より鮮やかに思い起こさせてくれた気がして、私は目を瞬かせた。
どうしたいのか、なんて、今更自らに尋ねるまでもなくて、後は、きっと。
そう思い至った私は、口を付けることすら忘れていたカップを、とりあえずテーブルに置いてから、身を引き締めるように姿勢を正してみせる。と、
「あの、内野さん、デート、一緒に行きます!それで、ええと、私も頑張りますから!」
「え?うん、それは有難いし嬉しいんだけど……里帆ちゃん、何を頑張るの?」
前置きも何もかも飛ばした勢いで放たれた言葉に、不思議そうに返してきた内野さんに、私は気持ちを鎮めるように浅く息を吸い込むと、心に決めたことを話し始めた。
そうして、デートについて森谷さんに了承を貰ったり、四人で集まってどこに行くか、具体的に相談したりしているうちに、めまぐるしく一週間が過ぎて。
いよいよ、明日から五連休が始まる、となって、職場全体もどことなく浮かれ気味な、そんな雰囲気に包まれている、金曜日。
閉庁時刻を知らせるチャイムの最後の音が、尾を引くように消えて行くのを耳にしつつ、やっと終わった、と息をつきながら、端末の電源を落としていると、思いがけなく受付の方から声が飛んできた。
「早瀬さーん!すいませーん、ちょっとお伺いしたいことがー!」
聞き覚えのあるそれにすぐさま顔を向けると、カウンターの向こうに立っていたのは、初島さんだった。こちらの気を引くかのように、大きく両手を振っているのを目にして、急ぎなのかな、と慌てて近付いていく。と、いきなりすまなさそうに頭を下げられて、
「お帰りになるところなのにごめんなさい!ほんのちょっとでいいんで、お時間貰っていいですか?」
「え、はい、大丈夫だけど……何か仕事のことだったら、良かったら中で」
「あ、えーっと、そのへんはあんまり関係ないんですが……とにかく、こっちです!」
言葉を遮るように、どこか焦った様子でそう言い切ってしまうと、初島さんは私の腕を取って、先に立って通路を歩き始めた。
時期が時期だけに、早々に退庁すべく各担当から流れ出てくる人波を避けながら、訳の分からないままについていくと、彼女は足早に階段を降りて、一階フロアに辿り着くなり、自身の所属する担当へと足を向けた。つまり、介護担当だ。
お客様をご案内する以外には、ごくまれにしか来ることのない部署に、落ち着かなげに入っていくと、足立さんの姿が奥の方に見えた。
他にちらほらと職員の姿は見えるものの、もう大方は帰ってしまったらしいその中を、初島さんは真っ直ぐに突っ切っていくと、待っていたかのように立っている彼の前へと、そのまま私を引っ張っていった。
「お待たせいたしました!足立さん、確かにお連れしましたよ!」
「所要時間一分か。まあまあだな」
腕に巻いた時計に、軽く一瞥を加えた足立さんがそう応じるのに、初島さんは敬礼でもしそうな勢いで、やりきった感いっぱいに笑みを浮かべると、
「はいっ、全力で急ぎました!えーと、それじゃ早瀬さん、どうぞこちらに!」
「え?あの、二人とも、どういったことで……」
戸惑いつつ尋ねかけた私の背中を、構う様子もなくぐいぐいと押して、何故か奥にある面談室の方へと向かわせようとしてきた。
そして、足立さんはと言えば、わざわざ先に立って、入口の扉をさっと開けてくれて、
「さっさと帰りてえから、二分以内に終わらせろ。しょうもねえことすんなよ、戸川」
私が部屋に入ると同時に、その奥に向けてきっぱりとそう言い切ってしまうと、背後で扉が音を立てて閉まった。
すると、面談用のパイプ椅子と机が並んでいる前に、どことなく所在なげに立っていた戸川さんが、俯けていた顔をこちらに向けてきて、にっと笑ったかと思うと、
「悪いねー、里帆ちゃん。ま、すぐ終わるからそんな顔しないでー、ちょっと言いたいことがあっただけだからー」
「は、はい。ええと、どんなことでしょうか」
この間のこともあって、反射的に身構えてしまいながらそう応じると、彼は、んー、と短く声を上げて、少し思案する様子を見せたけれど、
「時間厳守しねえとあだっちゃん先輩にガチでしばかれるから、端的に言っちゃうけど」
そう言いながら足を進めて、歓送迎会の時のように、すぐ傍にまで近付いてくる。と、
「……ごめんな。こないだはちょっと、言い過ぎた」
これまでに見せていた飄々とした雰囲気はすっかり消えて、少し弱気なくらいの声音で。
ようやく耳に届いた言葉に、ずっと気にしてくれてたんだ、とあらためて気付いて。
だから、真っ直ぐに顔を上げて、戸川さんの視線をしっかりと捉えると、私は言った。
「大丈夫です。おかげで、きちんと言わなきゃ、って覚悟が出来ましたから」
二人に貰った言葉を、それぞれに深く、心に刻んで。
今度は、自ら選んだ言葉を、ためらうことなく伝えると、そう決めたから。
驚いたように目を見張った彼に、安心させるように大きく頷いてみせると、戸川さんは気が抜けたかのように、深々と息をついた。
「あーあ、じゃあ、もうマジで一ミリも入る隙ねえじゃん……自分で言っといてなんだ、って感じかもしんねえけどさー。なあ、里帆ちゃん今からでも俺に乗り換えない?」
「そ、それはちょっと……というか、そもそもがまだ、そういう以前の問題ですから!」
じりじりとにじり寄りつつ微妙な台詞を言ってくるのに、慌てて後ずさりながら、私は相変わらずそれが冗談なのか本気なのか、判断がつきかねていた。
そうこうしているうちに、リミットを過ぎたのか、扉を開けた足立さんが、まさに問答無用で戸川さんを回収していって。
頑張ってくださいねー、と、笑顔の初島さんに手を振って見送られて、取り急ぎ担当へ戻りながら、私はふとあることに気付いた。
……明日のことって、いったい、どこまでバレちゃってるんだろうか。
考えれば考えるほど、頭を抱えたいような気になりながらも、さまざまに背中を押してくれた手のことを思い返して、私は気合いを入れるように、しっかりと拳を握りしめた。
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