五月
答えは、ひとつ・2
四人で日帰り、しかもちょっと遠くに出かけるということになると、事前にさまざまな調整が必要になってくる。中でも重要なのは、混雑が予想される大型連休の初日だけに、交通手段をどうするか、食事はお弁当かどこかで取るのか、この二つだと思うのだけれど、意外にも、実にあっさりと分業体制が決まってしまった。
つまり、出来る人が出来ることをやればいい、ということで。
「井沢さん、朝早くからほんとに有難うございます」
土曜日、午前九時、上橋端の駅前ロータリー。
私と、森谷さんと、内野さん。三人が揃って異口同音にそう言うと、車のバックドアを大きく開けてくれながら、井沢さんは人の良さそうな笑みを浮かべて、
「僕はいつもよりほんのちょっと早く出て来ただけだから、気にしないで。それより、早起きって言うんなら、皆の方が大変だったでしょ?」
そう言いながら、森谷さんと手分けして、皆がそれぞれに手にした荷物を手早く積んでいってくれる。メタリックな光沢を持つ綺麗なライトブルーの車体は、丸みを帯びていてなんとなく可愛らしい印象なのに、ラゲッジスペースはなかなかに広い。
その中央に、とても慎重に置かれたのは、かなり大きめの保冷バッグだ。その中身はといえば、朝から三人がかりで張り切って作成した、中身のみっちりと詰まったお重並みに大きなランチボックスと、二本のかなり大きめな魔法瓶がメインで。
走行中に動いたり倒れたりしてしまわないように、持ち手をフックに引っかけたりして固定しながら、ふと井沢さんが、隣に立っていた内野さんに笑みを向けた。
「これ、かなり重いね。お昼、楽しみにしといていい?」
「大丈夫だと思うよ。三人で得意分野手分けしたし、ちゃんと味見もしたから」
「そのへんは心配してないよ。それでなくても、初デートで彼女の手作りとか、ほんと嬉しいし」
「い、一部だからね?それと、過度な期待は危険だから!」
とろけるような、という表現がふさわしいようなその声と表情に、ちょっと頬を染めた内野さんとのやりとりは、目に見えてはっきりと甘い雰囲気を漂わせていて。
「……えっと、仲良しですね、お二人」
すっかりあてられてしまって、思わず傍らに立つ森谷さんにそう囁いてみると、同じく苦笑交じりの小声が返ってきた。
「このくらいは予想の範囲内だよ。井沢さんの舞い上がりようときたら、ここ一週間は凄かったから」
普段から窓口でも電話対応でも大変にこやかで親切なのだけれど、それがさらにレベルアップ、というか、とにかく幸せ感が滲み出ていたそうで、
「そのおかげかどうかは分からないけど、今週一杯はほんとに苦情もトラブルもなくて、『井沢効果かな』とか係長が言ってたくらいだったし」
「確かに、今の状態ならなんでも跳ね返せそうですね……」
そう返しながら、私は少しばかりほっとしていた。自分の思惑もあって、この申し出を受けたものの、二人の邪魔になりはしないかな、と思っていたのだ。
それに、内野さんはともかく、井沢さんは何もご存じないはずだから、こうして不純な気持ちを抱えながらいることに、なんとなく申し訳ない気持ちもあって。
そんなことを考えながら、お二人のことをついつい見つめていると、森谷さんがふいに身を屈めてきて、耳の傍でからかうように言ってきた。
「ひょっとして、あんな風にしたい?なんだったら、負けないくらいにしてあげるけど」
「そ、そこは張り合わなくていいです!」
「おーい、もう乗っちゃってるよー。そろそろ行こうよー」
「後ろにクーラーボックスだけ置かせてもらってるから、適当に寄せちゃってねー」
「は、はい!行きましょう、森谷さん!」
助手席の内野さん、運転席の井沢さんの順で飛んできた声に、慌てて車に駆け寄ると、勧められるままに左側から乗り込む。シートベルトを締め終わると同時に、アイドリング状態だった車は、滑らかにロータリーの緩い弧に沿って走り始めた。と、
「……こうしてみると、なんだか、ちょっと新鮮」
見る間に窓の外に流れていく景色に目をやりながら、私はそっと呟いていた。
見慣れた街並みの中を、いつもより少し低い視点で走り抜けていく、それだけなのに、歩道を歩く人も行ったことのある店も、どこか違うもののように見えて。
そんなことを考えていると、森谷さんの声が耳に届いた。
「スピードのせいもあるだろうけど、確かに何か変わる気がするね。走らせる方だと、もっと違う感覚で楽しいし」
「……私、情けないんですけど、まだ緊張感がありすぎてぐったりしてしまいます」
言葉通りに弱い声になりながら、思わず私はそう零してしまった。
今日の計画を立てるにあたって相談していた折に、私を含め、今回の参加者全員が普通自動車免許を持っていることが分かったのだけれど、自分の車を持っているのは井沢さんのみだった。だから、最初はレンタカーを借りて全員で運転を交代しようか、という話になったのだが、すかさず井沢さんが、
『でも、それだと返す時間気にしてゆっくりもできないし。僕、運転するの好きだから、良かったら車出させてもらえると嬉しいんだけど』
保険の関係もあるし、と、さりげなく気を遣わせないように言ってくれて、すんなりとそう決まってしまった。その代わりに、残る三人は豪華版お弁当を作成する、となって、ほとんどペーパードライバーと化している身としては、心底ほっとしていたのだ。
ちなみに、内野さんはご両親と住んでおられて、家族共有の車をしょっちゅう動かしているというし、森谷さんは取得可能年齢になった年に免許を取って以来の運転歴だから、これといった不安もないそうだ。というわけで、既に取ってから二年も経つというのに、私だけが相も変わらず自信が持てない、という状態で。
「ああ、たまにしか乗らないとそうかもね。そういえば、里帆ちゃん、こっちに越してきてからは運転とかしてるの?」
「いえ、買い物とかはここの駅前と藤宮でほとんど済んじゃうし……実家に帰った時は、妹や母を乗せて走ることはあるんですけど、ほんとに慣れてる道だけで」
振り向いてきた内野さんにそう応じると、森谷さんが小さく笑って、
「そんなに不安なら、今度車借りて遠出してみようか。もちろん、高速も間に入れて」
「う、それは……感覚、覚えてるかなあ」
実際、高速道路に乗るなど、教習の時以来だ。途端に心細くなったのが表情に出たのか、森谷さんはすっと手を伸ばしてくると、優しく髪を撫でてきた。
「大丈夫だよ、難易度の低いルートにするし、いざとなったら何でもフォローするから」
「え、はい、有難うございます」
どうにかそう返しながらも、私は軋みが上がりそうなくらいに緊張してしまっていた。職場や通勤の行き帰りなら、身を引くことも多少は出来るものの、車内で、しかもシートベルトで固定されているとなれば、じっと見据えてくる視線から逃げることも敵わなくて。
それに、こうも見られていては、今はまだ秘めていたいものまで暴かれてしまいそうで。
「こらこら、森谷くん、僕たちがいること忘れてない?」
「ほんとだよ。里帆ちゃんもたまにはすっぱり拒否ってやってもいいんだからね?」
「いえ、さっきのお二人に対抗してみたつもりなんですけど。まあ、今はこのくらいにしておきます」
笑みを含んだ調子で、前の二人がそう言ってくるのに、森谷さんはさりげなくとんでもないことを言いながら手を引いて、ようやく視線を外してくれた。
ただ、離れていく際に指先で、するりと撫でるように、頬に触れられてしまって。
……拒むことなんて、もう、出来そうにないのかも。
いつまでも肌に残る感覚に、うるさいほどに騒いでいる胸の内を隠すように、私は窓に映る自身の顔を見返しながら、こっそりと赤くなった頬を引っ張ってみせた。
それからの道中は、平穏そのものだった。皆心配していた渋滞については、井沢さんの綿密なルートチェックもあってか、なんとことごとく回避することが出来て。
天気も、晴れ時々曇り、と予報そのままの様子だったけれど、強い日差しばかりにさらされるわけではない分、暑さも窓を時折開ける程度で、それなりに快適に過ごせて。
そうして着いた場所は、鮮やかなほどに新緑に包まれていて、私も内野さんも、車から降りるなり、どこか解放された気分で声を上げていた。
「思ったより、涼しい……あっ、内野さん、あっちにうさぎがいますようさぎ!」
「ほんとだー。それに、なんか凄いいい香りもするー」
そう言いながら二人揃って目を向けた先には、駐車場のアスファルトとコンクリートの地味な色合いと対照的な、蔓の絡んだアーチ状のゲートや、柵に咲き誇る白と黄色の薔薇。
そして、その少し奥に設置されている、木々に囲まれたかなり大きなサークルの中で、ちょこまかと走り回っている、さまざまな毛色のうさぎたちだった。
「手始めにこの子たちがお出迎え、ってとこかな?」
「みたいですね。それにしても、垂れ耳とかいるんだ」
手分けして荷物を持ってくれた男性二人(旅の初めから、女子は持たなくていいから、と、絶対に譲ってくれなかった)と並んで、皆でぞろぞろと華やかなゲートをくぐると、休憩所を兼ねたドーム状の建物に入る。さすがに連休だけあって、とにかく人の多い中をすり抜けて進んでいくと、ふっと目の前が開けて。
「うわ、ひっろー……これだったら、お弁当食べる場所確保するの楽勝だね」
手をかざすようにして遥か先の方まで見晴るかしながら、内野さんが声を上げる横で、私はこくこくと頷いているばかりだった。
この施設のメインとなるのは、広大な牧場とハーブ園なのだけれど、なだらかな曲線を描く緑の丘が、幾重にも連なるようにして広がっていて、ところどころに丈高い木々が、可愛らしいアクセントのように天を目指して伸びている。
そして、何より楽しみにしていた、ヒツジらしき白くもこもことした姿が、もくもくと草を食んでいる様子が遠くに見えて、俄然テンションが急上昇してしまった。
前もってパンフレットやホームページで見ていたものの、やはり本物には敵わないなあ、と、まるで絵葉書めいたその光景に見入っていると、ふいにぽん、と肩を叩かれて。
完全に意識がよそを向いていたせいで、びくりとして顔を向けると、当然のように隣に立っていた森谷さんが、口元に小さく笑みを刻んでみせて、
「夢中になるのは構わないけど、ほら、井沢さんたちかなり行っちゃってるよ」
上げられた腕が示すその先をなぞるように視線を動かしてみると、何かモザイクめいた煉瓦の敷かれた道を、二人が手を繋いで、のんびりと歩いている姿が見えて。
思わず、わあ、と照れを声に出してしまうと、森谷さんが小さく吹き出して、それからわざとのように、ゆっくりと足を進め始めた。追い付くつもりは欠片もないようだ。
ごくシンプルな、ざっくりとしたブルーのチェックシャツを羽織った、その広い背中をなんとなく見上げながらついていくと、振り向かないままに声が飛んできた。
「井沢さん、結構僕に凄いこと言ってたんだよ。『デートなんだし、積極的にいくから、森谷くんも構わないで早瀬さんと仲良くするといいよ』って」
「なんだか、まさしく有言実行、ですね」
「そうだね……正直に言うと、ちょっと羨ましいかな」
少しだけ声を落として、やや苦笑気味にそう言われて、微かに胸がちくりと痛んだ。
伝えたい、とは思うものの、こんなところで言ってしまったら、その後平静に過ごせるわけもないだろうし、おそらくこれからの予定が何もかも滅茶苦茶になってしまう。
そこまで考えてから、そうだ、同じところまで持っていければいいんだ、と思い至って、いつしか隣に並んで歩いている森谷さんの空いた左手と、彼の視線の先を見比べながら、じっ、とタイミングを見計らって、しばし。
濃淡の異なるそれらを組み合わせた、煉瓦の道が右へと蛇行してゆく、その先に視線が動いた瞬間、私は手を思い切り伸ばして、一回りほども大きな手を、きゅっと握り締めた。
途端に、弾かれたように振り返ってきた森谷さんが、目を見開いて私を見下ろしてきて。
「あの、こ、これであの、お揃いになるかなって思って」
あまりにもまじまじと見つめられて、目も反らせずに言い訳めいた言葉を必死に返すと、やがて、森谷さんは気が抜けたように息をついて、
「お揃い、っていう理由がかなり不満だから、腕組んでくれる?」
「み、密着度合いが高すぎるので、だめです!」
大真面目に一足飛びな提案をされてしまって、私は即座にそれを却下してしまった。
もっとも、彼もそこは予想通りだったようで、右の肩に掛けていた保冷バッグを、軽く揺すり上げると、あらためて、繋いだ手をくるみこむように握り直してきた。
「冗談だよ。だいたいそんなことされでもしたら、ダブルデート自体放り出したくなりそうだし」
「……お弁当のためにも、それは絶対に避けましょう」
笑いながらそう言ってくる森谷さんに、どうにか普段通りを装って返しつつも、内心はもちろん、それどころではなくて。
触れている手のひらが、指先が、最初の頃のただただ気恥ずかしいばかりだった時とは、全く違うものを伝えてきていることを思い知らされて、私はじっと顔を俯けていた。
そんなやりとりを交わしている間にも、先行していた井沢さんと内野さんは、しっかり昼食に最適な場所(ヒツジたちを適度な距離で眺められつつ、魔法瓶やランチボックスが転がっていかない斜面)を見つけ出してくれていて。
内野さん担当のスパイシー唐揚げ、森谷さん担当の筑前煮(すっかり煮物が得意料理になってしまったらしい)、私担当のロールサンドとおにぎりの他、ポテトサラダや出汁巻きなど、とにかく思いつく限りのおかずを盛り込んだお弁当を、皆で綺麗に食べ尽くして。
食後の休憩を挟んだその後は、ほとんどが私と内野さんの要望通りになってしまった。というのは、
『僕は彼女のお弁当、っていうメインの目的が叶えられたから、なんでも希望聞くよ』
『そうですね。僕も彼女が楽しんでくれさえすれば、どこでも付き合いますから』
などと、前者はにこにこと、後者は平然とした様子で、二人で顔を見合わせて赤くなるしかないような台詞を、揃って告げられてしまった、ということもあって。
色々とうろたえつつも、せっかくだから存分に楽しませてもらうことにした。元より、行き先が行き先だから、アクティブに動けるように皆ラフな服装だし、何だって出来る。
だから、マップを広げながら、ほぼぐるりと一周してしまえるようにルートを決めて、イベントの時間配分だけは、皆でチェックを入れてもらって。
ヒツジの毛刈りショーで、ヤギのように変身した姿に驚いたり、ふれあいスペースでは全員が子ヒツジの可愛さにやられてしまったり(意外にも、森谷さんが一番ハマっていた)、ハーブ園でアロマキャンドルを作るのに、井沢さんが香りに酔ってしまって、内野さんがなんと膝枕で介抱してあげていたり(様子を見に行って、目に入るなり思わず引き返してしまった)、本当に、ごく自然に盛り上がってしまって。
「あー、ポニートレッキングだけはほんっとに残念だったなー……さすがに一時間待ちまでは予想してなかったし」
「やっぱり、小さい子に大人気だからですよ。ご家族連れで来てる方がほとんどだし」
平積みでずらり、と並んだ、多種多様なおみやげを選びながら、深々とため息をついた内野さんに、私は慰めるようにそう声を掛けた。
今皆でいるのは、施設全体のほぼ中央に位置する大型のショップだ。ハーブ園の温室に併設される形で、各種ワークショップの会場などもあり、あと一時間余りで閉園時間だというのに、まだまだ人波が途絶える様子もない。
そんな中、そろそろ実家用のおみやげを買おう、という女子組と、何故かぬいぐるみのコーナーを目指すという男子組に別れて、それぞれうろうろしてみよう、となったのだが、彼女がまだ、あまりにもポニーに乗ることにこだわっているようで。
「馬も凄く可愛かったしさー、せっかく乗る気満々だったのにー。いっそのこと今度は年休取って、平日に来ようかなあ」
「次は、井沢さんと二人で、ですか?」
少しだけからかってみたくなって、小声でそう尋ねてみると、内野さんは目を見張ったけれど、すぐに唇の端を吊り上げてみせて、
「それは、当然でしょ?ていうかこっちのことより、里帆ちゃんこそ覚悟決めた?」
即座にそう切り返されて、これまでの楽しさにすっかり油断していた私は、一気に緊張してしまった。そうなのだ、今日の、私にとっての一番の目的は。
「あー、割と頭から吹っ飛んでた?まあ、凄い楽しかったしねー」
「……はい。思い出させてくださって、有難うございます」
ラベンダークッキーの箱を手にしたまま、身体を固くしている私に、内野さんはすっと真面目な表情になると、間近にまで身を寄せてきて、
「閉園までの時間で、なんとかしちゃいなよ?ずるずる引き延ばしたって、決心が鈍るだけのことだろうし」
「が、頑張ります」
忠告も含めた言葉に、私は必要以上に力を込めて、頷きを返していた。
先日、ダブルデートに誘われた時に、内野さんにお願いしていたのは、『デートの後半にさりげなく二手に別れさせて欲しい』ということだった。さすがに、お二人の目の前では何を切り出すことも出来ないし、彼と二人きりになるタイミングがどうしても必要で。
とはいうものの、上手くそれを作り出すことはなかなかに難しいので、彼女がどうにかしてあげる、と言ってくれていたのだけれど。
「……ところで、どういう段取りになるんでしょうか」
「あーと、そこネタばらししちゃうと絶対里帆ちゃん顔に出るだろうし、不自然極まりないから。とにかく適当なとこで口実作るし、あとはもう自助努力でよろしく」
と、ナチュラルな色合いの木製の棚の間に隠れるようにして、密談めいて話していると、前触れもなく、何か茶色いものが目の前に突き出されてきて。
「うわ!?なにこれ!」
「……え、ぬ、ぬいぐるみ?」
一瞬、何事かと思ったけれど、焦点が合ってみれば何のことはない、つぶらな瞳をしたポニーのぬいぐるみだった。その背中には、きちんと鞍まで乗っていて、デフォルメとはいえなかなかに凝っている。
そして、それを持っている当人はといえば、まるで挨拶をしているかのように、上下に振ってみせながら、至って機嫌良さ気ににこにことしていて。
「ごめんごめん、可愛いの見つけたから、つい。はい、内野さんこれあげる」
「え、私になの!?嬉しいけど、なんかめちゃくちゃ大きいよこれ!」
「もっと小さいのもあったんだけど、記念にするならこのくらいがいいかなって。本物には乗れなかったし……それと」
そう言葉を切ると、井沢さんは私の方を向いて、ちょっと面白がっているように笑って、思いがけないことを告げてきた。
「早瀬さん、良かったら、森谷くんのこと助けてあげてくれる?」
井沢さんに教えてもらった通りに広い店内を抜けて、ようやくぬいぐるみのコーナーに辿り着いてみると、すぐに森谷さんの姿は見つかった。
何しろ、立っているのが壁一面を埋め尽くす勢いで並べられた、白いもこもこの群れの前だから、上背のある彼のブルーのシャツは、とても目立っていて。
しかも、真剣な表情で、デザインもサイズも異なる、大きなもこもこを両手にしながら悩んでいる様子は、口に出したら怒られそうだけれど、なんだか可愛らしくて。
「森谷さん、個人的な意見ですけど、右の方が顔立ちも可愛いと思います」
すぐ傍まで寄ってから、そっと声を掛けてみると、意外に驚いた様子もなく、こちらに顔を向けてきて、
「それなら、こっちでいいかな。じゃあ、早瀬さん試しに持ってみて」
「あ、はい、分かりました」
問答無用で差し出されたそれは、大きめの枕くらいのサイズの、子ヒツジのぬいぐるみだった。大人のヒツジよりも柔らかい毛を表しているのか、何もかもがふわふわで、黒い艶々とした瞳が白に映えて、なおさら愛らしい。
「ふかふかで気持ちいい……これなら、抱き枕にもいいかもしれないですね」
手のひらで撫でてみながら、浮かんだ感想を正直に言うと、森谷さんは納得したように頷いて、まだ手にしていた大人ヒツジ(でいいのだろうか)のそれを棚に戻した。
それから、さほど離れていないレジの方を見てから、私の姿にざっと目を走らせると、
「僕はそれ買うけど、君はもういいの?」
「家族用と職場用はちゃんと買えたんですけど、私もぬいぐるみ見たいかな……」
右手に下げた、大きなクラフトのバッグを若干気にしつつも、私はそう応じた。
連休の後半には実家に帰ることにしているし、職場の方は所属はもちろん、足立さんや戸川さん、それから初島さんにもお礼を込めて用意してみたのだけれど、
「なんだか、こうやって見ちゃうと欲しくなっちゃって。それに、森谷さん、やっぱり子ヒツジの可愛さにやられちゃったんですね」
心地良い感触に、手放しかねていたそれを、森谷さんの手元に返しながらそう言うと、彼は大きく眉を上げてから、ふっと表情を緩めて、
「まあ、それもないわけじゃないけど。僕の部屋に置いておいたら、君がこれ目当てに来てくれるかと思って」
思いもよらない変化球を投げてこられて、とっさに返す言葉に詰まってしまった間に、森谷さんは、かさばるし先に買ってくるよ、とレジに足を向けて。
二拍ほども遅れて、私はその背中に小走りで追いつくと、
「……なくたって、お伺いしますよ」
はっきりと言おうとしたのに、届くか届かないかの細い声しか出なくて。
近付く気配を察したのか、それとも聞こえたのかは分からないけれど、顔を向けてきた森谷さんを、私はきっと見上げると、
「あの、そのぬいぐるみ、いっそのこと二人で一緒に買いましょう!」
「別にいいのに……元々、適当に理由つけてあげるつもりだったんだし」
「それは申し訳ないですから!折半にすれば、私も気兼ねなく触りに行けますし!」
と、半ば勢いのままに押し切って、レジに並んで支払いを済ませて。
サービスなのか、ヒツジ柄の包装紙で店員さんが包んでくれているのを待っていた時、ほぼ同時に、二つの携帯から異なる着信音が響いた。
「あれ、内野さんからだ……森谷さんもそうですか?」
「いや、僕の方は井沢さんから。とりあえず見てみようか」
From:
Sub:緊急事態発生ー。
ヒツジ舎のとこでポーチ落としてたみたいで、
店の人に連絡してもらったらありました、って。
あれなかったら化粧も直せないし、二人で取りに
行ってくるから、しばらく別行動でお願いー。
ちなみに、これ、仕込みじゃなくマジです。
自分で口実作っちゃったよーもー、ごめんね!
「あ、すぐに見つかったんだ、良かった……」
「井沢さんからは、時間掛かるだろうから駐車場で落ち合おう、って。まだ閉園まで、一時間はあるけど、どうする?」
腕の時計を見ながら、森谷さんがそう言うのに、私は持っていたマップを広げてみた。
施設はほぼ全制覇したし、お茶も一度飲んだし、休憩は十分過ぎるほどに取っている。それに、ここから駐車場に至る最短距離なら、徒歩でも三十分ほどで。
「あの、じゃあ、のんびりお散歩、というのではどうでしょうか」
森林浴の小道、という何やら涼しげなルートが、牧場の外縁を巡るように作られていて、所要時間を見ると、およそ四十五分だ。ゆっくりめに歩いたとしても、丁度いいくらいで。
「構わないよ、まだ外も明るいし。それに、井沢さんたちも、少しくらいは二人きりになりたいだろうしね」
意味ありげにそう笑った彼の台詞に、内心を見透かされたようで、にわかに心が騒ぐ。
だけど、この機会を逃したら、きっと溜め込んできた勇気もしぼんでしまいそうだから、絶対に言わなければならないのだ。
そう自らに言い聞かせながら、両腕に抱えた方が早いような、大きなビニールバッグにどうにかおさまったぬいぐるみと、中身がすっかり軽くなった保冷バッグを両脇に下げた森谷さんと並んで、私はショップの外に出た。
緑の芝生を縫うように敷かれた煉瓦の道を、そこここに立つ案内板通りに進んでいくと、ほどなく目的の道に入る。日はもうかなり傾いてはいるものの、網目のように伸ばされた枝葉を透かして落ちる、木漏れ日が地面を彩るようにさざめいていて、とても綺麗だ。
見渡す限りでは他に人気もないそんな中を、静けさに引かれるままに、しばらく言葉もなく歩いていたけれど、
「早瀬さん、明日はまだ特に予定、ないんだったね」
「え、あっ、はい!一応、余裕を持って」
どう切り出したものか、と、じりじりと考え込んでいたところに声を掛けられて、私は慌てながらもそう応じた。
今日は帰りが遅くなるかもしれないから、実家に帰るのは明後日にしていて、次の日の夕方に家に戻ってくることになっている。だから、完全にフリーなのは明日と最終日だ。
あらためてそのことを伝えると、森谷さんは持っているぬいぐるみの包みを持ち上げてみせて、
「だったら、うちに来る?そろそろ読書会の第二弾を開催してもいいし、これと一緒に昼寝してもらってもいいし」
示された楽しげな提案に、私はとっさに答えることが出来なくて、彼を見返したまま、その場に足を止めてしまった。
森谷さんと、そうして過ごしたいけれど、その前に、変えてしまわなければならない。
けげんそうな顔つきになった彼のことを見上げながら、途端に重くなった口を開こうとするものの、唇が震えて、思うように声が出ない。
心の中でずっと紡いでいたはずの言葉を、何ひとつとして形にすることもままならず、焦りだけが膨らむばかりでいると、
「……無理に、とは言わないから。君がいいと思うことなら、何でも付き合うよ」
小さく苦い笑みを刻むと、森谷さんは顔を前に向けて、そのまま足を進め始めた。
一歩、二歩、三歩。
合わせてくれているのか、酷くゆっくりとした四歩目が地面に下ろされようとした時、私はその背中に向かって小走りに駆け寄ると、チェックのシャツを掴んで引き止めた。
振り向かれてしまうのは、もう分かっているから、足を止めてくれたのをいいことに、半ばしがみつくように、シャツに顔を埋めてしまって。
「あの、私、森谷さんのことが、好きになりました」
震えは止められなかったけれど、何よりも伝えたかったことを、自身の声に乗せて。
でも、伝えようと思っていた言葉は、本当にたくさん用意していたつもりだったのに、どうしてもそれ以上、ひとことも続けられなくて。
こうしていても、何も返事が返ってこないことにも怖くなって、どうしようどうしよう、と、ぐるぐると考えながら動けずにいると、
「……どうして、ことごとく不意打ちばかりしてくるのかな、君は」
吐き出された深い息とともに、不機嫌そうな声音が耳に届いて、身体に震えが走る。
慌てて、掴んでいた手を離した直後に、鋭く振り向いてきた森谷さんの動きにつれて、両の手にしていた荷物が大きく振れて、中のランチボックスや大きなビニールバッグが、さまざまに派手な音を立てた。
それらを苛立たしげに見やった森谷さんは、肩からむしり取るようにバッグを外して、二つの荷物をその場に落としてしまうと、身体が触れそうなほどに私に詰め寄ってきた。
「こんなところだったらいつ人が来るか分からないし、何より時間はないし……それに、なんだってそんなに不安そうな顔をしてるの?」
「だ、だって、こんなに長く待たせたから、もしかしたら嫌だって思うかもしれない、って……私、貰った気持ちに甘えてばかりで、何も出来てなくて、だから」
強い口調で言い募る声に押されるように、気付かないままに抱えていたものが、言葉になって溢れてきて、私は驚いた。
それは、多分、戸川さんに言われたことが、酷く心に掛かっていたせいで。
と、ふいにきつく眉を寄せた森谷さんが、何かをこらえるように一瞬、目を伏せて、
「ずっと欲しいと思ってたものを惜しげもなくくれておいて、何を言ってるんだか……ああ、もういいよ、どうしようもなく君のことが好きだから」
真っ直ぐに向けられた視線と、乱暴なくらいに激しく投げられた言葉に、絡め取られたように動けなくなる。
瞬きの間に伸びてきた両の腕に、身体ごと引き寄せられて、痛いほどに抱き締められて、首筋をなぞるかのように、すっと熱が走って。
「も、森谷さん、あの」
「……頼むから、しばらくこうさせて」
耳元にそう囁いてくると、力の抜けたように私の肩にもたれかかって、顔を伏せて。
回された腕の力は緩んだものの、背中に這わせられる手や、髪に差し込まれた指先に、痺れめいた感覚を覚えて、耐えられなくて目を閉じる。
そのせいなのか、余計に自分とはまるで違う、押し付けられた身体の硬さや肌の匂いに、息も出来ない心地にされて、弱く身じろぎをするばかりで。
「……だめだな、離せない」
ふいに、独り言のような細い呟きが耳に届いて、私はおそるおそる瞼を上げた。
こちらが動きを止めたことに気付いたのか、巻きつけた腕はそのままに、少しだけ身を離した森谷さんは、私を見下ろしてくると、軽く息をついて、
「お友達から、っていうのは、ある意味正解だったよ」
言葉を切って、やりきれないように目を細めながら、視線を捉えてくると、
「まだ恋人じゃない、ってことがかろうじてストッパーになってたんだって、たった今、心底思い知らされたから。おまけに、こうしてても色々とまずいことしか思いつかないし」
何か、今、とんでもなく怖いことを言われてしまったような。
「こ、恋人になっても、その、なんていうか段階というものは大事だと思います!」
「そこは安心していいよ。何にせよ意思確認は怠らないつもりだから」
焦りながらもどうにか主張を述べるのに、すっかりいつもの調子に戻ったように笑った森谷さんは、もう一度、私を柔らかく抱き締めてきて。
宣言通りに、初めてになる意思確認をしっかりとされてから、酷く器用に動く指先に、眼鏡をそっと外されてしまった。
……でも、抵抗を諦めるまで迫る、というのは、何かちょっと違うと思う、ほんとに。
それから、閉園時間寸前になってしまったものの、なんとか時間内にゲートを出て。
先に車に戻っていた二人に、保冷バッグの中身が、見事にバラバラになっていることを指摘されて、とても珍しいことに、森谷さんが曖昧に言葉を濁していた。
……なんだか、内野さんと井沢さんの視線が、どことなく慈愛に満ちていたような気がするのは、この際、そっとしておくことにしよう。
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