ちょっと、送り狼
なんというか、警戒心が薄すぎる。
すぐ隣を歩く、早瀬さんの黒い髪をなんとなく見下ろしながら、僕は内心でそう呟いた。
もう、駅前のロータリーも通り過ぎてしまい、さまざまな店の喧騒も聞こえなくなった住宅街の中を、二人並んで、彼女の家へと向かっているという、告白した直後としては、なかなかに理想的な展開で。
僕に手を取られたまま、薄く頬を染めて黙々と歩いている姿は、正直可愛いけれど。
本当なら、まるきり『告白が成功した』パターン通りのシチュエーションだというのに、何か苦い思いが沸いてくるのは、これが『お友達から』の回答後、という事態だからだ。
思い返してみれば、今までまるで面識のなかった(これは本当に自分でもショックだったが)相手の誘いに、押し切られたとはいえ乗ってきて、あまつさえ食事まで共にして。
酒を飲む雰囲気でも気分でもなかったから、ソフトドリンクのみの全くの素面だというのに、こうして素直に家まで送られているとか、本気で何を考えてるんだか。
……自分から仕掛けておいて、理不尽なことだ、とは心底思うけれど。
「あの、森谷さん、何か怒ってますか?」
「え?」
声の方へと顔を向けると、おずおず、といった表現がぴたりと合うような表情で、早瀬さんが見上げてきている。おそらく無意識なんだろうが、こちらを窺うような上目遣いが、どうにもこちらの神経を逆撫でして来て、思わずきつく眉を寄せると、
「呆れてるんだよ、君の無防備さに」
「……それは、どういう」
どうやら、本気で意味が分かっていないらしい、困惑した声音が返ってきて、抑えきれないため息が漏れる。これは一度、懇切丁寧に説明しておいた方がよさそうだ。
道の端で足を止め、正面から眼鏡の奥の瞳を捉えてしまうと、繋いでいる手を、あらためて思い知らせるように軽く握り締める。
と、すぐに、かすかに身を固くするのが伝わってきた。
この反応だと、一応、全く意識されていない、というわけではないらしいが、
「なんで、あっさり手なんか繋がせるの?このへん人気もないし、このまま引き寄せてどうこうされないとも限らないのに」
ことさらに煽るようにそう言ってみせると、彼女は一瞬絶句したあと、さっと顔を紅潮させて、おろおろとした様子でいたけれど、
「……何もしない、ですよね?」
「そんな保証はどこにもないけど?」
「い、意地悪言わないでください!それに、その、あっさりなんかじゃないですよ!色々考えて、そうしてみよう、って思ったから」
「へえ、どんな考え?」
すかさず尋ね返すと、早瀬さんは困ったように眉を下げて、どう言ったものかと迷っているようだったが、やがて観念したように話し始めた。
「……ほんとに、凄く躊躇したんです。手を繋ぐ、って何か特別な気がするし」
その意見には、頷くところが大いにあった。
さんざん迷った挙句、分かりました、と意を決したように、彼女は頷いて。
おそるおそる伸ばしてきた手を、我ながら信じられないものを見たように凝視してから、ためらいつつも、そっと取って。
自身のものよりも遥かに小さくて、ふんわりと柔らかいそれを包み込んだ瞬間、身体に新たな熱が灯ったような、そんな感覚さえ沸いたのだから。
「だから、最初は断ろうか、って思ったんですけど……今日って、森谷さん、たくさん私に、真っ直ぐに想ってることを伝えてくれたでしょう?」
「……まあ、そうだけど」
振り返れば、結構長く想いを抱えてきていたわけだし、なんとしても射落とすつもりで臨んだのだから、それは当然だ。さらに言えば、知らず溢れ出て来たというか、驚くほど自然に言葉となって零れて来たのだが、そこまでは言う必要もないだろう。
「それに、私の考えを返すのさえ、ほんとに大変で、どきどきして……だから、もしかしたら、森谷さんも、心の中はこんな風だったのかな、って」
ふいに図星を突かれて、より眉間の皺が深くなる。それを見取ったのか、彼女ははっと慌てたような表情になったけれど、
「ち、違ってたら、ごめんなさい。でも、真剣に言葉をくださった分、こっちも勇気を出してみよう、って思って」
伸ばされた手を取るのは、恋人としてではまだなくても、向けられた想いをひとまずは受け入れる、その意思を表すためだと、彼女は結論付けた、そうで。
「それに、ここで断ったら、何もかも全部はねつけてしまうみたいな気がして。だから、その、ええと……」
そういうわけです、と、俯きながらもごもごと、今の心の内を吐露してくれた彼女は、気恥ずかしくなったのか、街灯の光にさらされた頬を、ますます赤くしていて。
……なんなんだ、このひとは。
かなり鋭く斬り込んだつもりだったのに、柔らかく受け流されて、しかも宥められて。
まるで構えを解くように息を吐いて、僕は、再び彼女の手を引いて歩き始めた。
「そう言われたら、刀をおさめざるを得ないな」
「……やっぱり、攻撃だったんですか」
「いや、どちらかというと、八つ当たり」
苛立っていた理由は、自分でも分かっている、くだらないものだ。
つまり、相手が僕でなくても、同じように誰かに迫られれば、そうしたんじゃないか、という、根拠のあるようなないような、そんな思いがくすぶっていて。
しかしとりあえずは、僕のことを見た上でそうしてくれたらしい、と理解していいようだから、それでいい、と思ったのだが。
「八つ当たりって……森谷さん、なんとなくですけど、余裕ありそうなのに」
「そんなもの、あるわけないよ」
そもそもあったら、こんなことをいちいち尋ねるはずもないだろうに。
意外そうにそう言ってくる早瀬さんに、即座に否定を返しつつも、ふと周囲を見渡す。
駅の西側付近は、駅前近辺に林立している、分譲マンション群の横を抜けてしまえば、閑静な住宅街のそこここに時折集合住宅が混じる、というありがちなパターンの街並みだ。
区画整理された街区には、等間隔に、白く光を放つ街灯が並んでおり、夜間に歩くにも不自由しなさそうではあるのだが、少し不安が残る。
彼女の住むマンションは、駅から徒歩五分。単身者向けのワンルームで、オートロックだと聞いているが、物件の安全性はともかくとして、周囲の環境が僕の住んでいる東側とかなり異なるから、若干心配なのだ。
「早瀬さん、帰り道で怖い目にあったとかはない?」
「え?ええと、今のところは幸い、何もないです」
「酔っ払いに絡まれた、とか、ロータリー付近でたむろしてるヤンキーにナンパされたとかは?」
「ないです。というか、あんまり酔ってる人がいる時間帯に帰らないですから……でも、どうしてそんなことを?」
「いや、どうせならそれを口実にこうやって、毎晩送っていってもいいかなって」
結構駅から距離あるし、と言った途端、ぴたり、と足を止めた早瀬さんの方を見ると、あからさまに狼狽していて。
「何、こうしてても別に、嫌じゃないんじゃないの?」
「い、嫌とかではないですけど、毎日とかはそのっ……手を繋ぐのは」
「恥ずかしい?」
「わ、分かってるんなら聞かないでください!」
そう返してきながら、手を解いてしまおうというのか、じたばたと身じろぎするのを、しっかりと握り締めて、離れないように軽く引っ張る。
途端に体勢を崩して、とん、と一足踏み込んできたところを、背中に空いた腕を回して、きつく抱き締めてみたいのをこらえつつ、そっと抱き込んでみせる。と、
「冗談じゃなく、かなり心配だから。このへん店とかもなくて静かだし、変な奴が出没しないとは限らないし、割と真面目に言ってるんだけど」
特に用もないから、あまりこちらの方へは来たことがなかったので、余計にそう思う。商店街に並ぶ店舗のせいで、夜中でもかなり明るい東口付近とは大違いだし、担当が担当だから、これから残業も多くなる時期に入るというのに、気が気ではないのだ。
そう言ってみると、早瀬さんは、しばし僕の腕の中で硬直していたけれど、やがて我に返ったのか、ふいに繋いでいた手をさっと解いてしまって。
それから、思うさまに両腕を突っ張って、僕の身体を必死で押し返すと、フェイントに負けて緩んだ腕からするりと逃れて、そのままくるりと背中を向けるなり、後も見ずに、一散に駆け出した。
「あ、こら!ちゃんと家まで送るから!」
「もうすぐ近くですから!それにこれじゃ、森谷さんの方が危ないですー!」
至極もっともなことを言い返されたものの、はいそうですか、と納得するわけにはいかない。重い革靴なりのスピードですぐさま追い掛けるものの、パンプスのくせに、意外と足が早いのは、朝の状況と同じだった。
他に人気のない道を、二つの足音をばたばたと響かせてしばらく走っていたが、やがて、少し先を行く早瀬さんが、ベージュとブラウンのタイルに包まれた建物の前で、ようやく足を止めたかと思うと、こちらを振り返ってきた。
それ以上は逃げる様子もないのに、足を緩めて近付いていくと、まだ警戒の色を露わにしながら、じっと見返して来たけれど、
「あの、家、ここなので……送っていただいて、有難うございました」
やっぱり律儀な性格は変えようがないのか、きちんと頭を下げて、そう挨拶をしてきた。
ああ、と返しながら、オートロックらしい五階建ての建物をざっと見上げると尋ねてみる。
「早瀬さん、何階?」
「三階で、305号、です」
一番右端です、と、ためらうことなく答えてくるのに、だめだな、としみじみと思う。
「あんなことされといて、警戒くらいすればいいのに……これだから、僕みたいな奴に付け入られるんだ」
「聞こえてますよ。こ、今度からはちゃんと、そうならないようにしますから!」
拳を握り締めつつそう言うものの、まだ真っ赤になった頬が冷めてもいない様子では、迫力も何もあったものではなくて、まあ、ありていに言えば、可愛らしい。
遠巻きに見ているより、こうして一歩踏み込んだ方がやはり良かった、と思いながら、僕は彼女に向けて、小さく笑みを返していた。
そうして、さすがに大人しく別れて、元来た道を急ぐこともなく帰る途上。
駅前ロータリーの灯りが遠目に見え始めた頃、手元の携帯にメールが飛んできた。
「なんだ、送る前に来たか」
食事の終わり際にしっかり交換しておいたアドレスに向けて、いち早く送っておこうと文面を考えながら歩いてきたのだが、先を越されてしまったようだ。
ともかく、作成途中のメールは放っておいて、届いたメールを開く。と、
From:早瀬里帆
Title:今日は
本文:
遠回りになるのに、わざわざ送っていただいて
有難うございました。
今後とも、宜しくお願い致します。
それでは、また。
「……シンプルだな」
とはいえ、あの性格からすると、悩んだ挙句にこれだけしか書けなかった、ような気もするが、まあ、別に悪い内容ではない。
ただ、なんとか送り終えて息をついているであろうところに、すかさず、追撃を掛けてやりたいという気持ちが沸いてきて、手早く返信を打ち返す。
To:早瀬里帆
Re:どういたしまして。
本文:
ところで、明日はお暇ですか?
早速ですが、懐柔策第一弾として、どこかへ
誘いたいと思っているんですが……
時間もご要望も、そちらの希望を聞きますよ。
但し、あまり朝早いようなら、間に合うように
連絡をお願いします。
だめなら、日曜でもいいので。
それでは、お返事お待ちしてます。
自分的にも最速のスピードでメールを送信してしまうと、音を立てて携帯を閉じる。
さて、次の反撃は、果たしてどう出て来てくれるか。
メールを読んだ彼女の、おろおろとしている様子が目に浮かぶようで、僕はこらえきれない笑みに口元を歪めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます