泣いて、笑って

 自分から積極的に本、というか小説をがんがん読み始めたのは、大学に入ってからだ。それまでに手を出すと言えば、勉強の気晴らしに読むマンガ(しかも兄弟のせいで、少年マンガばっかり)だったし、手を出し始めた理由も、里帆みたいに幼児期は絵本、小学生以降はジュブナイルからラノベ、純文学を経て乱読へ、みたいな正当進化とかじゃなくて、もうめっちゃくちゃに超ヨコシマ、な理由からだった。

 つまり、好きになった相手が、いわゆる本の虫、だったっていうだけのことで。

 「……優理、いい加減、感覚が無くなってきたんだけど」

 「あー、もうちょっとで読み終わるから、それまで諦めてー」

 畳の上に仰向けに寝転がって、両手で広げた文庫本に目を走らせながら、あたしはすぐ上にあるむっちゃんの顔に向かって、あっさりとそう応じていた。

 途端に、スクエアなセルフレームの眼鏡の奥にある、二重だけど細め、という特徴的な瞳がさらに細められる。それから、薄い唇を軽く歪めて、そのまま、まさしく一瞥、って感じで、きつめの視線をくれて。

 この癖を間近で見ているのが昔から好きで、そのためにちょっとわがままを言っているのは、多分とっくにばれてるんだけど、だからといってお互い、止めるでもなくて。

 マジであと少しですよー、と言わんばかりに、にっと笑って、つまんだ残りのページをひらひらとさせてみると、小さくため息をついたむっちゃんは、また仕事に戻った。

 背の高い座椅子にあぐらを組んで、真っ直ぐに腕を伸ばし、テーブルの上のノーパソでひたすらに作業をする、このスタイルは出会った時から全然さっぱり変わっていない。

 まあ、そのおかげで、猫みたいに脇から頭を突っ込んで無理矢理ひざまくらを堪能する、という技が使えるわけで、こっちとしては別に文句もないんだけど、よく集中できるなー、などと、ひとごとのように思ってしまったりして。

 「むっちゃーん、そっちは進行状況どんな感じ?」

 「七割。けど、八割時点で坂本に引き継ぎするから、そんなにはかからん」

 「そっかー。今日は晩御飯八宝菜にするから、頑張れー」

 「炒飯は?」

 「作るよー。じゃこ入り葱多めバージョンで」

 「分かった」

 短くそう応じるなり、キーボードに走らせる指のスピードが格段に早まる。狙って彼の好きなものばかりを作るつもりで用意してきたのだから、まさしく効果覿面だ。

 今日は、土曜日。一応、二人揃ってお休み、という日の、昼下がり。

 あたしは幸いにして土日は休みだし(上司はそれどころじゃない人もいるけど)、彼も、本来ならそのはずだったんだけど、直前にヘルプコールが他課からかかってきたせいで、こうして朝からずっと、自宅で仕様書などを作成しているわけだ。

 けれど、この程度の予定変更はいつものことだし、出張で会えなくなるよりはよっぽどいいし、むしろお互いに残業慣れしてるから(したくもないけど)大変だねーでも手伝えないしそもそもが職種違うもんねー、って感じで、邪魔にならない程度にひっつきつつ、こうやって過ごしていることが多い。

 それに、今日はちょっとばかり、その方が都合もいい、ってこともあって。

 「あー、だめだこれ感動分が足りないー。むっちゃん、他の本借りちゃっていい?」

 音を立てて読み終えた文庫本を閉じてしまいながら、あたしは膝を使って、ずりずりと足先方面へと水平移動を開始した。摩擦で畳が毛羽立ちそうだけど、こうでもしないと、顔の真上にあるむっちゃんの腕を強打して、大惨事になりかねないからだ。

 膝の上から無事に頭が抜けたところで、よっ、と腹筋の要領で身を起こした時、背中を低い声が叩いてきた。

 「いいけど、それ、かなり良く出来たオチだっただろ。どこがだめなんだ」

 「うん、話自体は面白かったし、どんでん返しのカタルシスも十分だったんだけどさ、泣ける系でもあんま痛くなくて、素直にだーっと泣けちゃう系がいいんだよねー」

 せっかく選んでもらったのになー、とちょっと申し訳ない気分で、あたしはそう答えた。

 実は、この本はむっちゃんの数ある蔵書のうちの一冊だ。自分でもそれなりに本は買うけど、チェックする作家の数もジャンルも和洋も問わずの彼には到底敵わないから、よくあたしの大雑把なリクエストに応える内容のものを貸してもらっている。

 しかし、今回はその大雑把さ加減が、いささか仇になったっぽくて。

 やや的を外した感に、惜しいなー、とか思いながら立ち上がると、間断なく響いていたキーボードを叩く音が、ふいに止まって。

 思わず、期待を露わに振り返ると、座椅子を引いて膝を立てかけていたむっちゃんが、照れくさそうにそっぽを向いて、ぼそりと言ってきた。

 「お前のせいで、すっかり膝が痺れたからな。治すついでに探してやる」

 「やったーありがとーむっちゃん!でも、仕事いいの?」

 ダッシュで傍に寄っていきながら、立ち上がったむっちゃんの腕にすかさず絡みつくと、ノーパソのモニタをちらりと窺う。と、画面には、専用のグループウェアが起動していて、見る限りではファイルのアップロードも、多分終わったっぽくて。

 「もう送った。あとは坂本からのツッコミ待ちだから、心配しなくていい」

 どうせすぐには返事も来ないだろうし、といつもの無愛想なくらいの調子で言いながら、隣の部屋へと足を向けるのに、あたしは嬉々としてその後に引っ付いていった。

 ちなみに、さっきの居間も畳敷きの八畳だけど、次の間も六畳の和室だ。これは完全に彼の趣味で、当然の如く寝るのは床に布団だし、ベッドは絶対に置かせてくれない。

 というのも、畳に痕が残るから、っていう理由だけじゃなくて、壁という壁が限界までみっちみちに本棚で埋め尽くされているから、なんだけど。

 ていうか、押入れと小さい窓の前以外は、床から天井まで全部だから、むしろよくこれだけ設置できたもんだよね、と感心するしかない。必要に迫られて、なのは確かだけど。

 「ジャンルは問わないとして、お前の言う条件なら、殺伐としたのは避けた方がいいんだな?」

 「うん、ついでに愛憎も確執も深刻過ぎるのは却下かなー。ほのぼのしみじみで素直に泣けるやつー、あとさっくり読めてー可能な限り女子向けでー」

 「……結構難しいな。まあ、ないことはないから、ちょっと待ってろ」

 少しだけ眉を寄せて、それでもすぐに立ち並ぶ背表紙に目を走らせ始めたむっちゃんに、あたしはありがとー、とまた言うと、借りていた本を元の場所に戻しにかかった。余裕で手は届く位置だけれど、何しろ数が多くて、どの棚にもぎっちり隙間なく入っているから、出し入れが大変なのだ。

 万が一にも帯やカバーに皺などが寄らないように、慎重に作業を進めていると、ぽん、と頭の上に、一冊の本が置かれて。

 それから、するりと伸びてきたごつごつとした大きめの手が、慣れた手つきであたしが持っていたそれを、なんなく棚に収めてしまって。

 「とりあえず、これ。短編の連作で綺麗に纏まってるし、映画も質が良かった」

 「おー、さっすがむっちゃん検索エンジン超はやーい、ありがとー」

 お礼を返しながら頭を傾けて、バランス良く乗っかっていた文庫本を片手で受け止める。

 ジャンルはレーベルからして間違いなくSF、表紙のイラストは、水色と白の背景の奥に小さな扉、周囲を取り巻く緑の中には一人の女の子、という、どこか絵本めいた装丁だ。

 取り急ぎ、ひっくり返して裏表紙を見つつ、あらすじに目を通していると、くしゃり、と、髪に手を突っ込むようにして、むっちゃんがぐりぐりと頭を撫でてきた。

 こうされるのは気持ち良くて大好きで、喉が鳴らせるなら鳴らしたい気分で、しばらくうっとりとされるままでいると、

 「……なんか、あったのか」

 そろそろと、気遣うような声音が傍で響いて、あたしは半ば伏せていた瞼を上げた。

 と、思った通りに、心配そうな表情で、どこか照れを滲ませながらもじっと、こちらを見下ろしてきていて。


 あー、もう、なにこのひとめっちゃ可愛いんだけど。年上のくせに。


 真面目に言ってくれてるのはもう分かりきってるから、ぎゅっと抱きつきたい気持ちをとりあえず抑えて、違うよ、って首を振って、安心させて。

 「あたしじゃなくて、里帆」

 「本好きの子か?」

 「そうだよー。ちょっとね、気がかりなこと抱えてて、悩んでるみたいだからさ」

 森谷さんもだけど、とにかく内心が外に漏れやすい子だから、ちょいちょいとつついてそれとなく聞き出すのは、もう慣れっこだ。けれど、ガス抜きはしてあげられても、解決するのは結局、里帆自身でどうにかするしかないわけで。

 「またそれがなんか微妙な問題っていうかー、でも地味に一生ものの付き合い絡みだし意外とひとごとじゃないって感じなんだけどー、ほらー、あたしもむっちゃんのご両親とずっと仲良くしていきたいしー……」

 どさくさに紛れて、自分の希望と展望を織り交ぜたりもしつつ、思い返すようにふっと目を上げて。

 「とにかく、煮詰まった時って、泣けるだけ泣いちゃうと、ちょっとすっきりするから。いったん空っぽにしちゃえば、なんかいいこと思いつくかもしれないしさ」


 忙しくて長いこと会えなかった時とか、色々ともうだめかもって思った時とか。

 まるで身代わりみたいに、借りてた本を読み漁って、洗い流すみたいに泣いて。


 そういや泣いたのってむっちゃん絡みばっかだったなー、他に泣くようなことってないもんなー、とか、ついでのように思い出したりして、なんとなくしみじみとしていると、

 「……お前が泣きたいのかと思って、心配した」

 髪に乗せていた手を離しざま、彼はめちゃくちゃほっとしたように、短く息を吐いて。

 それをまともに表に出したことが、今更ながら気恥ずかしいのか、すぐさま隠すように、背中を向けてしまって、もう、笑うしかなくて。

 「ねー、むっちゃーん、今晩の海老もうずらの卵もー、あたしの分ぜーんぶあげるー」

 「馬鹿、お前も食え。俺をコレステロール過多にするつもりか」

 「だーいじょうぶだってー、野菜もっさり入れるしー、それでなくても痩せぎすだしー、ちょっとは肉ついてもバチ当たらないよー」

 「こら、あばらをなぞるな!本数を数えてどうするんだお前は!」

 「人体の不思議を堪能しつつ単にいちゃいちゃしたいだけー。ほらー、あたし基本的に欲望のままに生きてるからさー」

 言葉通りにしっかりと抱きついて、馬鹿みたいなこと言い合って、甘えて、叱られて。

 細いわりにちゃんと男の人っぽい体格とか、ほんのり爽やか目なシャンプーの匂いとか、とにかく好きなところだらけなことを、あらためて確かめてみたりして。


 むっちゃん、って呼ぶのもあたしだけ、こうやってごろごろできるのも、あたしだけ。


 目を閉じて、たまらないくらいに溢れる『好き』を思い知らせるように、独占欲全開で、あたしは全力でむっちゃんに絡みついては、検索するのを邪魔しまくってしまった。



 それで、むっちゃんお墨付きの『号泣レベル』本を、二冊ほど貸してもらって。

 彼氏と読むの推奨だってー、とか適当なことを言って里帆に渡してから、しばらくして。


 「あの、優理、どっちも凄く良かったけど、感動ものは当分封印するから」


 と、頬を染めて返してきたのに、にやにやしながらも追及はしないでおいてあげた。

 ついでに、森谷さんがやたらと機嫌がいいのも、まあ、幸せのお裾分け、ってことで。

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