七月
雨の、向こうに
藤宮市に就職が決まり、一人暮らしを始めるに当たって、おそらく長く住むことになるだろうからと、住居を決めるまでにはそれなりに時間を掛けた。卒論も無難に提出を終え、以降の空いた期間にはバイト以外に何をするでもないから、親の車を借りて市内を回りながら、飛び込みで目に付いた不動産屋を片っ端から巡る、ということが出来たわけだが、結果として、我ながら満足のいく物件を引き当てた、と思う。
間取りや設備、収納はもちろん、立地条件として通勤時間、駅からの距離、スーパーや銀行、病院など、過不足のない周辺施設の充実に加え、周囲の適度に閑静な環境も含めてのことだが、それがためにか、意外なところから依頼が飛んできて、驚く羽目になって。
「博史さん、ごめんなさい、ちょっと手伝ってもらってもいいですか?」
ぱたぱたと軽い足音を立てながら、玄関の方から駆け戻ってきた里帆の声に、僕は手にした布巾をフックに掛けてしまいながら、すぐにそちらに顔を向けた。
「それはいいけど、どうしたの?何か重いものでも届いた?」
そう尋ねたのは、つい先程鳴ったインターホンに応じて、僕の代わりに、彼女に応対に出てもらったからだ。その原因だった洗い物は終わったので、これから二人でお茶でも、というところだったのだが、
「そうなんです。あと、かなり大きいから、一緒に抱えてもらえたらって」
困ったように眉を下げて、先に立って歩いて行く里帆の後に続くと、じきにその荷物が目に入った。既に閉じられた玄関の扉に、立て掛けるようにして置かれたそれは、茶色のクラフト紙に包まれていて、やけに厚みがあり縦横に広く、高さは彼女の肩近くまである。
白の梱包ロープで纏められたそれを両手で掴んで持ち上げると、見た目よりは軽かった。手伝おうとしてくれる彼女に大丈夫だから、と告げて、取り急ぎ部屋に運んでしまうと、ソファの傍に横たえてから、あらためて表面に貼られた送り状を見る。
途端に、実家の住所と、母親の名前が目に飛び込んできて、僕は思わず眉を寄せた。
「母さんか……それくらい用意するから、いいって言っておいたのに」
そう零しながら視線を向けた先には、『品名:布団三点セット』と大きく記されていて、包装を解くまでもなく、中身ははっきりと分かる。そして、母親がわざわざこんなものを送って来た理由はといえば、つい昨晩に届いた、明史からのある一報だった。
「ああ、一次受かったのか。それはおめでとう」
ようやく七月に入り、未だ梅雨の最中。そろそろ暑さも顕著になってきた、金曜日。
常の如く、僕が彼女を家まで送って、自宅へと帰る途上で掛かってきた弟からの電話に、僕は歩みを止めないまま、そう応じていた。
『おかげさまで。まあ、なんとか引っ掛かった、って感じだけど』
相変わらず、淡々とした口調で報告してきた弟に、少し笑みを誘われる。昔から、事がいいか悪いかに関わらず、どんなことにおいてもこの調子なので、何を言われるか、なかなか予測が出来ないところがあるのだが、今回は、単純に朗報だった。
つまり、藤宮市の職員採用試験、その第一関門を無事に突破した、という話で。
「倍率も高かったって聞いてるし、単にお前の実力だよ。それで、どうした?わざわざ電話してきたからには、何か他に用があるんだろ?」
普段、余程のことがない限りはメールで済ませる弟のことだから、と、こちらから水を向けてやると、ああ、と短い返事が返ってきて、
『二次の試験、例年通りに土日二日なんで、二日だけ兄貴んとこに泊めてもらえないか、って思って』
あつかましくて悪い、と、さすがに遠慮がちに言い出してきたことに、やっぱりな、と僕は内心で頷いていた。
二年前に自らもかつて受けた試験の日程は、一次試験のみが六月最終週の日曜で、二次試験は七月最終週の土日、となっているのだが、当時は藤宮まで辿り着くのにも苦労した。というのも、隣県との境に位置する実家からは、同じ県内とはいえ相当な距離があるので、多大な時間と、あらゆる公共交通機関を駆使してやってこなければならなかったからだ。
これが一日だけならともかく、二日続けてとなると、体力的にも精神的にも正直やっていられないから、僕は非常に安直な方法を採った。つまり、前日の金曜日に藤宮に入り、駅近くのビジネスホテルに泊まる、という手段を用いたわけだが、
「床に寝てもらうことになるけど、それでも良ければ構わないよ。客用布団くらいは、こっちでちゃんと用意しとくから」
今は提供できるスペースがある以上、断る理由があるはずもなく、上手く行けば翌月にまた三次試験があるのだから、今から備えておくに越したことはない。
そう考えて、簡単に応じると、珍しく安堵したような声がすぐさま返ってきた。
『ありがとう、助かる。お詫びに、なんか兄貴と早瀬さんが好きなもん持って行くから』
「いや、そんなに気を遣う必要はないけど……僕はともかく、なんで彼女にまで?」
しかも、お礼でなくてお詫び、と言ったことに若干引っ掛かりを覚えていると、明史はあっさりと理由を明かしてきた。
『なんでって、毎日一緒に夕飯食べてるんだろ。二日も俺が邪魔する形になるんだし、全くなんもなし、っていうのも申し訳ないから』
「……お前に、そこまで細かいことを話した記憶はないんだけど」
どうして知ってるんだ、と尋ねかけた時に、先月のある光景が脳裏にひらめいて、僕は嫌な予感を覚えつつも、とりあえず思い当たったことを口にしてみた。
「もしかして、喋ったのは戸川さんか?」
確か、四人で昼食を取った後、お互いスマホユーザーだから、ということで、無料通話アプリのIDをやりとりしていたことは覚えている。戸川さんはあの通りの人だし、弟は、来るものは基本的に拒まず、というスタンスなので、あまり気にしてはいなかったのだが。
ともかく、明史は、ああ、とこともなげに肯定してくると、
『なんかホームページ見たらしくて、『合格したー?』って聞かれたんで、受かりました、ってやりとりしてるうちに、流れで兄貴に泊めてもらうつもりです、って送ったんだけど』
そこで言葉を切って、しばらく何かスマホを操作しているようだったが、やがて、履歴でも追っていたのか、あった、と声を上げると、
『えーと……『ぶっちゃけ、新婚さんみたいなラブラブっぷりだから、ひょっとしたらお兄さんの不興を買うかもしんないよー?』って言われたんで、そうかもな、って』
「……そこでさらっと納得するなよ」
棒読みで読み上げられた戸川さんの言葉に、余計なことを、と苦々しく思いながらも、そのあたりはもう気にしなくていいから、と、重ねて念を押すことだけはしておいた。
そういった経緯を、朝にやってきた里帆と朝食を取りながら話していて、今日は近くのホームセンターにでも行こうか、となっていたところに、これが突然届いたわけで。
取り急ぎ、このまま置いておいても場所を取るだけなので、母に到着した旨のメールを送ってから、里帆と二人で包装を解いてみると、当然ながら品名の通りの物が出てきた。
掛け布団、やや厚めの敷布団に、枕。全て白のシンプルなもので、飾り気も何もない。
包装を纏めて片付けている間に、癖なのか、ソファにしていた時のように、手で触れて柔らかさを試していた里帆が、ふと何かに気付いたように顔を向けてくると、
「博史さん、これ、お手紙が入ってますよ」
そう言って差し出して来たのは、ごく小さな封筒だった。枕の下に挟んであったらしいそれは、淡いピンクに散る白の小花、という、母の趣味だと一目で分かるもので、表には『ヒロへ』とだけ書かれている。
花のシールで閉じられた封を切ると、中にはレースめいた縁取りのカードが入っていた。
母でーす!
アキを泊めてくれるということで、有難うね!
丁度いいのがあったし、布団だけ送らせてもらいました。
布団カバーどうしようか、って考えたんだけど、
ヒロは結構好みがうるさいからね、止めておいたよ。
せっかくだから、彼女と一緒に選んできたらどうかな?
それじゃ、アキのこと頼んだから。
里帆さんにも(書いちゃった!)よろしくお伝えください!
「あ、弟さんもこんな風に呼ばれてるんですね」
「僕たちに関しては、そうだね。父親だけは、『
横に立って、一緒に読んでいた里帆に何気なくそう返すと、彼女はえっ、と小さく声を上げて、驚いたように僕を見上げてきた。
「あの、もしかして、皆さん『
「そうだね。母がそうしたい、って聞かなかったらしいけど」
別段、代々その字をつけなければならない、などというしきたりがあったわけでもなく、単に響きが好きなのと、並べた時に『親子』だと一目で分かるようにしたかったらしい。
そんな由来を告げてみると、里帆はますます瞳を輝かせて、
「うちもなんです!母が
偶然の一致が、余程嬉しかったのか、笑みを零しながら話していたというのに、ふいに言葉を途切れさせてしまうと、わずかに表情を曇らせて。
唐突な感情の変化に、自分でも戸惑ったように顔を俯けてしまったのを目にして、僕はそっと腕を上げると、慰めるように頭を撫でた。
「……まだ、志帆ちゃんから連絡ないの?」
なるべく優しくそう尋ねたのは、ここのところ、どことなく沈んでいる様子の彼女から聞き出していたことがあったからだ。
先月の、僕との諍いに端を発したことで、一度彼女が電話で話して以来、メールすらも来なくなっているらしく、今日で既に二週間ほどになる。実家と距離が離れたがゆえに、頻繁にやりとりをしていた姉としては、やはり心を痛めていて。
顔を上げないまま、里帆ははい、と小さく頷くと、落ち込んだ様子で続けた。
「志帆も考えがあるだろうし、あんまりうるさくしちゃだめかな、って思って、こっちから連絡するのはずっと控えてたんですけど……昨日、父から電話があって」
最初はあたりさわりなく、元気か、暑いが体調は崩してないか、などと話していたそうだが、やがて、妹の様子に話が移っていったということで、
「家に帰ったあと、いつもなら何があったとか、私のことを矢継ぎ早に話すのに、すぐ部屋に入って、出て来なくて……それから、心配して父が何かあったのか、って尋ねても、なんでもない、って頑なで」
さらに、お姉ちゃんには言わないで、と口止めされていたため、気を揉みながらも日々見守っていたそうなのだが、里帆が電話を掛けた日から、より思い悩んでいる風で。
「見かねて、もう一度話をしてみたら、ぎゅって唇結んで、泣き出しそうになって……『お姉ちゃんの彼氏に、嫌なこと言っちゃったの』って」
その時の、妹の表情をまるで写したかのように、唇を引き結んで。
こらえるように、微かに震える声が、同じ痛みさえも覚えているようで。
「そんなこと、気に病まなくていいのに。真面目なところは、やっぱり似てるのかな」
宥めるように、柔らかく抱き締めながらそう言うと、里帆はまた、こくりと頷いて、
「もう、博史さんとも話したし、喧嘩も仲たがいもしてないから、父に妹と話したい、って言ったんですけど、いずれにせよあの子自身で消化しなければいけないことだから、もう少し待ってあげてくれないか、って」
心に溜めていたことを吐き出すように、一息に言ってしまうと、僕の胸に顔を埋めて、軽くしがみついてきた。
「志帆も、大事で。でも、博史さんは特別な人だから、二人とも大切にしたいんです」
「……うん」
何を飾ることもなく、端的に告げられた言葉が、静かに胸に沁み通る。
そして、僕と同じように想われている彼女もおそらくそうなのだろうと、素直に思えて。
「きっと、彼女も分かってるよ。正直に言うと、僕と嫌に似たところがあると思うから」
「……どんなところですか?」
「そうだね、気に食わない相手には敵愾心を隠しもしないとか、余計なちょっかいにも容赦しないとか、目的を達するまでは一歩たりとも引く気がないとか、色々あるけど」
顔を上げないまま、くぐもった声で尋ねてきた、彼女の背中をゆっくりと撫でながら、僕は思いつくままに挙げていったけれど、結局、ただひとつのことに集約されて。
「最大の共通点が、君のことを、この上なく好きでいることだから。お互いに譲り難いところがあるのは、ある意味どうしようもないんだろうね」
妹として、優しい姉を純粋に慕う、その気持ちと。
恋人として、何もかもを欲してしまう僕とでは、随分異なるけれど。
想いの中に、常に清濁併せ持つ身としては、あの時にはっきりと言い当てられたことに反論のしようもなくて、向けられた敵意にも、ただ口を噤むしかなくて。
けれど、それでも、彼女を離すことなど、考えも及ばないから。
「里帆、もし志帆ちゃんと連絡が取れたら、一度話したい、って伝えておいて」
僕の言葉に、里帆は微かに身を震わせると、そろそろと不安げな面持ちで見上げてきた。
思い詰めたようなその表情に、思わず苦笑を漏らすと、
「大丈夫だよ。彼女に伝えておきたいことがあるだけだから」
「え、いえ、違うんです」
安心させるように続けた言葉に、里帆は慌ててかぶりを振ると、泣き出しそうに俯いて、
「……志帆、これまでみたいに、私と、話してくれるかな」
滅多に零すことのない、酷く弱気な声に、僕は包み込むようにその身体を抱き直した。
大丈夫だから、と時折繰り返しながら、こんな姿を見せてくれることに、奇妙なほどに満たされるものを感じて、密かに唇を歪める。
ありようの異なる独占欲の発露で、これ以上、彼女を悩ませるわけにはいかない。
そう思いながら、いつしか僕の背中に腕を回して、すがるように抱きついてきた里帆を、ただ、そうしていたいと思うままに、ひたすらに抱き締めていた。
それから、ようやく身を解いた彼女を落ち着かせてから、広げたままにしていた布団を二人で、クローゼットに一旦片付けて。
中断していたお茶でも淹れようか、と揃ってキッチンに足を向けかけた時、里帆がふと何かに気付いたように首を巡らせた。
「あれ、雨、降ってる?」
その言葉に、閉じられていた聴覚がふいに戻ってきたように、激しい雨音が耳に届く。
狭いベランダに向かって作られた、掃き出し窓に寄って行った彼女がカーテンを開くと、一面に広がっていたのは、鈍い灰色だった。眼下に見える街並みは激しい雨にさらされ、それぞれの屋根の上で弾かれた水滴が、白く辺りを霞ませている。
「遣らずの雨、ってところかな。これじゃ、しばらくは出かけられそうもないか」
同じように窓に近付くと、空をじっと見上げている里帆の隣に、僕は並んで立った。
防火用の、硝子に施されている網格子を透かして、細い水の束が幾筋もぶつかっては、透明な破線を描きながら流れて行く。
そのさまに目を引かれて、しばし外を眺めていると、ぽつりと里帆が呟いた。
「……晴れると、いいな」
雨の軌跡を追うように指先を動かしながら、願いを掛けるように響いた声には応えずに、僕はわずかに目を細めて、厚く垂れ込める雲の行方を見やっていた。
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