想い、それぞれ

 六月というのは、市民税担当にとってはこれまでの集大成であり、試練の月、と言ってもいい。申告の時期は今更言及するまでもないけれど、この月には、税額の決定通知書を一斉に発送するわけだから、市民の方の元へ到着しはじめるなり、お問い合わせが殺到し、窓口には長蛇の列、電話は応対を終えて、切った傍からまた鳴って、というありさまで、担当全員が喉を湿らせる暇もないほど、延々喋り続ければならなくなるからだ。

 そして、当然ながら同時期に、税と連動している保険年金担当、介護担当も通知が送られる訳だから、一階フロアも二階フロアも、常ならぬ喧騒に一日中包まれるというわけで。

 だから、忙しさに目を回しつつも毎日一緒にいたのに、少しの変化に気付くのが遅れてしまった、のかもしれない。

 「博史さん、お願いですから、思ってること、全部話してください」

 何もかもが一旦落ち着いた、金曜日の夜、私の部屋で。

 床に敷いたラグの上に向かい合って、きちんと正座した状態で、私は彼の瞳を見据えたまま、静かにそう切り出していた。

 いつものように、家まで送ってくれた彼を常ならず引き止めることまでして、こうして膝を突き合わせているのには、理由がある。

 それは、ほんの数日前から始まり、今もこうして見上げている顔に浮かんでいる、博史さんの、どこか思い詰めたような表情で。

 「……足立さん達からそれとなく聞かれたから、そろそろ言ってくると思ってたよ」

 諦めたように小さく息を吐き、きつく寄せていた眉を少しだけ緩めた彼は、それでも、まだためらいを見せたけれど、ここで目をそらすわけにはいかない。

 今日こそは絶対引かないんだから、と、訴えるように必死で見つめていると、ようやく、どこかほろ苦い笑みを零した博史さんは、手を伸ばして、私の髪をそっと撫でてきた。

 「凄く馬鹿なことを言ってると承知で、聞くんだけど……ひとつ、教えて欲しいことがあるんだ」

 「はいっ。何でも、お答えします」

 やっと言ってくれた、と私は内心で安堵しながら、問いを待ち受けるべく姿勢を正した。

 彼がこの一週間というもの、何か切り出そうとしているのは分かっていたけれど、思い当たることがなくてずっと悩んでいたから、その憂いを除くためなら、元よりどんなことでも応じるつもりでいて。

 間髪を入れない私の返事に、一瞬、酷く辛そうに眉を寄せてから、彼は口を開いた。

 「……君が、とても好きだったっていう、初恋の人のことを話して欲しい」

 きっと、頭では理解しているはずなのに、耳に滑り込んできた単語の意外さに、言葉が出なくて。

 それでも、そのことを知っているはずの、本当に数少ない人の顔を次々に思い浮かべて、消去法で絞っていった結果、やけにはっきりと確信してしまって。

 「も、もしかして、志帆に聞いたんですか!?」

 気恥ずかしさと焦りとがないまざったせいで、ひっくり返る寸前の変な声を上げた私に、博史さんは沈痛な表情のまま頷くと、

 「そう、この間。やっぱり、腹立ち紛れに、っていうところもあったんだろうけど」

 ……志帆、よりによって、なんてことを。

 いつの間に言ったんだろう、とか、そういえばあの日以降だった、などと、思い返せば色々とつじつまが合うことにあらためて気付かされながら、私はぐるぐると乱れる思考に振り回されていた。



 二月からこの方というもの、年休も取らずに残業を繰り返していれば、例え一年目だとしても、それなりに残業代はいただける。もちろん、限られた予算内で、ではあるけれど。

 普段の生活費は給与内で全て賄っているし、将来のこともあるので、ほとんどは貯蓄に回してしまうけれど、それを考慮しても余裕が出たので、ふと思いついたことがあった。

 それは、前に果たせなかった、妹と一緒にお茶をする、ということだった、のだが、

 「絶対にふわふわでなかったらダメなんだからね!あと、はちみつたっぷりで!」

 「こら、志帆、包丁持ってる時によそ見しないの!指切っちゃうよ!」

 「言われなくても、きちんと仕上げるよ。君の分はあくまでもついでだけど」

 「うわむかつくー!サンドイッチにマスタード鼻血出るくらい仕込んでやるから!」

 「辛いのは平気だから別に構わないよ。けど、間違っても里帆に回したりしないように」

 ……何故か、気が付けば、博史さんのお家で、キッチンに並んで賑やかにしているのは、どうしてなんだろう、ほんとに。

 六月、その半ばの、土曜日。

 残念なことに今月は祝日もないし、仕事はまだまだ気を抜けないけれど、せっかくだし、ちょっと息抜きというか、楽しいイベント的なことをしたいな、と思って、志帆に連絡を取ってみたら、


 『そっちに遊びに行く!あと、森谷さんがちゃんとしてるか見に行ってやるからね!』


 と、なんというか高らかに宣言された上、その話を私から聞いた博史さんと志帆の間でやりとりがあって(目の前で電話していたけれど、相変わらずの喧嘩腰だった)、申し出の通り、こうしてやってきたわけだけれど。

 「それと、パンケーキ、五段だからね!サイズと厚さ全部同じでないと却下するから!」

 「はいはい、わめいてないでさっさと手を動かして。不戦敗になりたいの?」

 「言われなくても分かってる!あー、お姉ちゃんは座ってて、あたし負けないし!」

 「もう、勝ち負けとか考えなくていいよ。作ってくれるだけで、凄く嬉しいんだから」

 コンロ前でフライパンを準備している博史さんから少し離れて、まな板の上のゆで卵を細かく刻んでいる志帆に、私はそう声を掛けた。

 こんな風に、キッチンに立つ妹を傍で見ているのは、久し振りだ。私が六つ上だから、働いていた母の代わりに、彼女が幼い頃から、ちょっとした家事を教えてみたり、一緒に簡単な料理を作って両親を待っていたりしたけれど、あの頃よりも、遥かに手付きが様になっていて、成長したなあ、と感慨深くなってしまったりもして。

 すると、う、と小さく声を上げて、照れたようにちょっと頬を染めた志帆は、くるりと私の方を振り返ってきて、

 「そういう問題じゃないー!それに、合格祝いしてもらったお礼も兼ねてるんだから!」

 「それこそ、気にしないでいいの。あれは志帆が、本当に頑張った結果なんだし」

 笑いながらそう返すと、私もただぼうっと見ているだけというわけにはいかないので、動くことにした。二人が作ってくれるもののために、食器などを用意しておくのだ。

 電話でのやり取りの結果は、何がどう転んだものか『料理対決』だった。しかも、私が食べて、どっちがより嬉しそうな顔をさせられるか、というのを二人で判定する、というもので、当日に聞かされて、あまりのことに呆然としてしまったのだけれど。

 でも、こうやって見ている限りでは、なんだかんだと仲良しになれるんじゃないかな、などと考えながら、私はテーブルの横の食器棚からお皿を取り出した。

 まずは、志帆が作ってくれるという、サンドイッチ用の大皿だ。角の取れたスクエアで、ベースは白、縁飾りには淡い緑の蔓草に赤とオレンジの小花、という可愛いものだ。

 それから、パンケーキ用には、ほどよいサイズの丸皿。同じシリーズの柄違いで、そのぐるりに細かいドットが描かれている。五枚のセットだったから、私は赤で、博史さんはグリーンをいつも使っているのだが、志帆は水色が好きなので、それに決めてしまう。

 加えて、ホイップ済の生クリーム、はちみつの瓶、盛り付けや取り分け用のトングなど、必要なものをあらかたキッチンのテーブルに並べて置くと、私は忙しく手を動かしている二人に声を掛けた。

 「博史さん、志帆も、こんな感じでだいたい足りるかな?お皿もこれでいい?」

 と、ほぼ同時に振り向いてきた二人が、揃って、どうしてだか私と並べたものをざっと見比べると、しばらく、奇妙な沈黙が続いて。

 あれ、何かいけなかったかな、と戸惑っていると、やがて、やけにまじまじと私の顔を見つめていた博史さんが、ようやく口を開いた。

 「……里帆、僕に敬語じゃなく話してくれたの、初めてだ」

 唐突に思いがけないことを言われて、私は途端にうろたえてしまった。

 というのも、向けられたその声が、あからさまなほどに嬉しさを滲ませていたからで。

 「えっ、いえあの、今のは志帆もいるし、うっかりしてて、そういった意図だったわけじゃないです!」

 「なんだ、崩してくれて全然構わないのに。まあ、いつもの口調も可愛いから、不満があるわけじゃないけどね」

 「い、妹の前で何を言ってるんですかー!!えっと、志帆は大丈夫かな、足りないものない!?」

 溢れるほどに甘さを含んだ声で、照れるような台詞を平然と投げてきた彼から、思わず顔をそらしてしまうと、私は志帆に焦りながらも尋ねてみた。

 ところが、目を合わせるなり、明らかに一瞬顔を強張らせたかと思うと、慌てたようにさっと背を向けてしまって。

 「あれ、志帆?」

 「……なんでもない。十分足りてるし、お姉ちゃんはあっちで待ってて」

 と、にべもない調子できっぱりと返してきて、そのまま顔を俯けると、あとはひたすら忙しなく包丁の音を響かせるばかりで、こちらも言葉を継げなくなってしまった。

 何か変なこと言ったかな、と、少しばかりはねつけられたようで寂しくて、ぐずぐずと動けずにいると、博史さんが傍まで寄ってきてくれて、

 「まだ、どっちもかなり時間がかかるから。言われた通り、本でも読みながらゆっくりしてるといいよ」

 「……はい」

 優しく言い聞かせるように、頭を撫でられてしまっては、さすがにいつまでも留まっているわけにもいかず、私はしぶしぶ頷くしかなかった。

 キッチンを離れつつ、ちらりと未練がましく様子を窺ってみると、志帆はバターナイフを手に、眉をぎゅっと寄せながら、一心不乱にパンと格闘していて。

 元の位置に戻った博史さんは、その姿を見るともなく見ながら、何やら考え込んでいて。

 結局、何事もなかったように作業を再開した二人の邪魔にならないように、私は部屋でひとり、大人しくしていることにした。



 その時、心に刺さったかすかな違和感は、見事なまでにふわふわなスフレパンケーキと、フルーツロールまで添えられた、可愛いサンドイッチのタワーに押し流されてしまって。

 三人で紅茶と一緒に全て平らげてしまった頃には、あまりにも幸せな気分で、勝負も、気付けばうやむやのうちに『引き分け』的になって。

 その後、前と同じように私の部屋に泊まっていった志帆も、それ以上気になるそぶりを見せたわけではなかったから、そんな思いも次第に薄れていってしまったのだけれど。

 一瞬の混乱からどうにか立ち戻った私は、真っ先に浮かんできた疑問をとにかく投げてみることにした。

 「あの、志帆はどうしてそんなことを……あの子が言い出したんですか?」

 「いや、言ってみれば、売り言葉に買い言葉、ってところかな」

 小さく口元を歪めた博史さんは、思い返すように軽く目を細めながら、言葉を続けた。

 「君が部屋に下がったあとも、彼女がずっとどこか思い詰めた様子でいるから、尋ねてみたんだ。あって当然だろうけど、何か、僕に気に入らないことでもあるの、って」

 その声に、小さく身を震わせた志帆は、黙々と動かしていた手を止めて、顔を向けないまま、しばらくじっとしていたけれど、やがて、ぽつりと零したそうだ。

 「なんで、そんな仲いいのよ、って。あんたなんか、ほんのちょっとしかお姉ちゃんの傍にいないくせに、全部持って行くような真似しないでよ、って、責めるように言われて」

 容赦なくぶつけられた非難交じりの台詞に、さすがに博史さんもどう返していいものかためらってしまい、黙ったまま次の言葉を待っていると、志帆はきっと顔を上げて、


 『お姉ちゃんがずーっと好きだった人、あたし知ってるんだから。真面目で優しい人で、困った時には手を引いてくれて、凄く理想なの、って言ってたんだからね!』


 きっぱりとそれだけを告げてしまうと、驚きに目を見開いている博史さんを睨み付けて、未だに冷めやらない苛立ちを叩きつけるように、また作業に戻ってしまったそうで。

 「ダメージを与える、って意味では、この上なく効果的だったよ。おかげで、情けないことに溜め込んだ屈託も隠せなくて、君に悟られるまでになってしまったんだから」

 常になく力ない声でそう続けると、見上げているこちらの視線から逃れるように、顔をそらした彼の姿に、私は動揺しながらも、膝に置かれたその手をぎゅっと握り締めた。

 志帆の放った、棘を纏った言葉のことも、とても気には掛かっている。

 けれど、今は何よりも先に、このひとのわだかまりを解いてしまわなければならない。だから、

 「あの、妹が言ったことは、間違いじゃないです。確かに昔、私が言っていたことの、そのままの言葉ではあるんですけど」

 気恥ずかしさを振り飛ばすように一息にそう言うと、触れている手に一瞬の震えが走る。

 傷ついたように半ば伏せられた瞳に、しまった、また変な誤解を生んでしまった、と、私は慌てて言葉を継いだ。


 「けど、あの、その人は、人じゃないんです。というか、人ではあるんですけど、その、そもそもが住んでいる次元が違うというか!」


 混乱のあまり、とんでもなく妙な言い回しをしてしまった直後、それをどう呑み込んだのか、博史さんがのろのろと私に視線を向けてきて、

 「それ、どういう意味?いや、待って、もしかして」

 「……小説の、登場人物なんです」

 概ね、結論を察してくれたらしい彼の言葉に重ねるように、私は熱を上げていた当時のことをつぶさに思い返しながら、この場から逃亡したい気持ちをひたすらに抑えていた。

 その『彼』は、いわゆるジュブナイル小説のヒーローだった。特殊な力を持つが故に、さまざまな組織に狙われる気弱で引っ込み思案なヒロインの少女を、優しく、時に厳しく導いていくさまがとても好きで、すっかり憧れの君、となってしまって。

 しかも、主人公たるヒロインは、当時の私と同い年である、となれば、夢見がちな年頃ゆえに、自分自身を重ね合わせてみたりと、振り返るほどに顔を覆いたくなるばかりで。

 「それで、中学の友達や志帆にまで読ませて、裕臣くん格好いいよね、とか、今思えば引かれちゃいそうなくらいはまってて……だから、その、初恋っていう点では、ある意味間違ってはいないんですけど」

 実際、これまでに雑談で『好きなタイプは?』と聞かれて思い浮かべるのは彼だったし、どれだけの物語を読んで、様々な人物の人となりを知って行っても、それは上書きされることもなく、今まで来ていて。

 そういったことを、沸き上がる照れにうろたえつつも話し終えると、口を挟むことなく聞いていた博史さんは、心底疲れたように、深々と息を吐いて。

 それから、すぐ脇にある私のベッドに、倒れ込むように突っ伏してしまった。

 「だ、大丈夫ですか、博史さん!」

 「……夢に見るほど悩んだっていうのに、そのオチはないだろ、全く」

 「ご、ごめんなさい。まさか、私もそんなことだとは思わなくて」

 顔を掛け布団の上に埋めてしまったまま、くぐもった声を漏らした彼に近付くと、その背中を宥めるように撫でてみたけれど、こちらを向いてくれることはなくて。

 「しかも、架空の存在とか、そこらの男より性質が悪いじゃないか。君のことだから、そこまで惚れ込むなら、完成した理想の塊、ってところだろうし」

 珍しいことに、まるで拗ねたような口調で続ける彼の様子に、私は胸の内に抱いているものを表す言葉を、どう伝えたものかと考えていたけれど、


 「あの、でも、こうして恋をしているのは、博史さんとだけですから」


 ただの憧れであった想いとは、何もかもが違う。

 日々を一緒に過ごしてきて、ひとつひとつ、『好き』を重ねて、そうして、これからも。


 声にしてしまった途端に、頬にまで上った熱を、触れた個所から移してしまうように、癖のない黒く短い髪を、幾度も撫でて。

 思ったより硬いんだなあ、でもさらさらしてて気持ちいい、などと、横に逸れる思考もそのままに、そろそろと手を動かしていると、わずかに、彼は身じろいで。

 ごろり、と、寝返りを打つようにして、横向きになった博史さんの視線を捉えようと、思わず身を乗り出す。と、

 「……ちょっと、まだ、見ない方がいい」

 そう言いながら、隠したいかのように顔の前に腕を上げても、色を変えた首筋や耳の先までは、覆うことは出来なくて。

 自らの言葉が、思いも寄らぬ効果を及ぼしてしまったことに、今更ながら気付いた私は、おさまりのつかなくなった感情を逃がすように、彼に倣って、じっとベッドに顔を埋めた。



 そして、翌日、土曜日。

 博史さんのたっての希望で、『彼』の出てくる小説を一緒に読むことになって。

 実は大事に持って来ていた(やっぱりか、と博史さんには笑われてしまった)それらを、彼の部屋に運ぶべく、すっかり鞄に詰めてしまってから、私は志帆に電話を掛けた。

 七回ほどもコールを聞いて、まだ寝てるのかな、と仕方なく一旦切ろうとした時、声が聞こえて。

 『……お姉ちゃん?』

 喋り出す前の、一瞬の間に何かを感じて、言葉に詰まる。

 けれど、これだけはどうしても伝えておきたくて、私は携帯を握り締めると、


 「あの、志帆。お姉ちゃんね、志帆のことずっとずっと、大事だから」


 身勝手なほどに唐突に投げた台詞に、当然のように沈黙だけが返ってきて、しばらく、動くことも出来なくて。

 『……分かってる。ごめんなさい』

 細く、かすかに震える声が耳元で響いて、それからすぐに通話は切れてしまった。

 「……どちらか、じゃなくて、どっちもなの」

 無機質に続く不通音を断つこともできないまま、誰に聞こえるはずもないことを、私はひとり、囁くように呟いていた。

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