告白、再び
正直なところ、今まで多少酒を過ごしたところで、二日酔いなりになった記憶は皆無だ。幸い、意識を失うほど泥酔したこともなければ、誰かに意図的に潰されたこともないので、醜態を誰にもさらすことなく今日までやってこれたし、おそらくこれからもそうだろう。
だから、例え帰るのが日を跨いだところで、せいぜいいつもより数時間ばかり遅く目が覚める、その程度で済んでいたわけだが、そんな体質のせいで、ほんの小さな嘘とはいえ、よりによって彼女につかなければならなくなるとは。
「……うん、今起きたところで……こんなに寝過ごすとは思わなかったんだ、ごめん」
日曜日、既に日も幾分傾いてきた、午後三時過ぎ。
僕は自室のソファに腰を下ろして、手にした携帯から、早瀬さんに電話を掛けていた。
『あ、いいえ、こちらこそ寝てらしたのに何度も掛けちゃって、ごめんなさい』
耳元で柔らかく響く、いかにもすまなさそうな声に、ちくりと罪悪感を覚えながらも、僕は続けて必要な嘘をさらに重ねた。
「それで、どうも飲みすぎで胃がやられたみたいで……」
『えっ!?だ、大丈夫ですか、おかゆとか持って行きましょうか!?』
そう伝えた途端に、慌てたように言ってきた彼女の提案が、あまりにも魅力的なのに、一瞬ぐらりと何かが傾いたものの、僕はなんとか持ち直すと、
「いいよ、ちゃんと軽く食べるものくらいストックしてあるから。君だって昨夜遅かったんだし、今日くらいはお互い、のんびり休んでおこう」
『……はい。でも、ほんとにお大事にしてくださいね』
忙しい時期なんですし、と、自分のことは忘れたように、心配そうに言ってくるのに、どうしようもなく口元が緩む。なんというか、本当にお人好しだ。
惚れた相手に気に掛けて貰える、それだけでも嬉しいのに、昨夜の可愛らしい姿までが思い出されて、より気持ちがほぐれる気がして。
ともかく、夕食に関してはまた週末にでも、と約して、通話を終える。携帯を閉じようとして、ふと思い立って着信履歴を見直すと、また自然と笑みが零れてきた。
今日になって二回、早瀬さんからの着信が続いていて、午後一時過ぎに一回、それから午後二時半過ぎに一回、となっている。昨日は揃って終電で帰ってきたから、彼女も遅くまで休んでいたはずで、こちらが確実に起きていそうな時間に掛けて来たのだろう。
それをわざとスルーするのは、正直なところ心苦しかった。昼前にはもう目を覚ましていたから、普通なら素直に出るところなのだが、今日ばかりはどうあっても無理だった。
今、二人きりなんていう状況になったら、手を出さない自信がないからな……
あんな風に、妬いてくれるなどとは思いもよらなかった上に、気恥ずかしそうにそれを認めて、じっと俯いている姿だけでもたまらなかったのに、触れそうなほどに近付いたら、自分の意思だけではどうしようもなくなりそうで。
受け入れて貰えるかもしれない、という希望的観測はあるものの、それを上回って暴走してしまいそうで、おいそれと行動に出す気にはなれなかったのだ。
それに、そろそろ考えておかなければならないこともある。気付けば、次の土曜日は、もうホワイトデーだから、手袋のお返しを用意するのだ。
僕はようやく携帯を閉じてしまうと、先程からセンターテーブルに広げておいたノートパソコンに触れて、スリープを解除した。開いたままにしていたブラウザには、ずらりと商品が並んでいて、その多様さに小さく息をつく。
「やっぱりネットじゃ、数がありすぎて絞り切れないな……」
検索していたのは、アクセサリーだった。もっと無難なものを返すことも考えたのだが、彼女に身に着けてもらえる(無論、気に入ってもらえればだが)ことを思えば、引かれるかもしれない、という多少の危険を冒しても贈ってみようと思ったのだ。
しかし、何にするかも決められていないというのに、モチーフ別、素材別と細別されていてきりがない。唯一決まっているのは価格帯だけ、という有様では、そう簡単に絞り切れるはずもなくて。
幸い、当日まではまだ一週間ある。やっぱりどこかに現物を見に行くことにするか、と諦めてブラウザを閉じてしまうと、外に出るわけにもいかないので、僕は借りていた本の続きを読もうと立ち上がった。
パーティションの脇を回り、ベッドの上に置いてあった本を取り上げると、ソファへと戻りながら、読み進めた個所までページをめくる。
彼女に借りた七冊の内、もう六冊目の終盤にかかってきている。今回はがらりと趣向を変えて、資産家の娘が姿を消し、その場に残されたのは名画の贋作、という状況で、学芸員であるヒロインの一人、寛子が意中の相馬ではなく、笹島とともに活躍する話なのだが、謎解き以外にも気になる展開になってきた。
つまり、笹島が寛子に対し、明確に恋心を募らせてきた、というわけで。
他人事ではない状況に、少しばかり感情移入もしつつ文字を追ううちに、あるシーンに行き当たる。僕は思わず手を止めると、しばらく反芻するように、その数行に何度も目を走らせていた。
明けて翌日、月曜日。
開庁後の喧騒が未だ途切れることなく続く、市役所一階フロア、午後十二時十七分。
その片隅で、まだ窓口対応が長引いているらしい井沢さんを待ちながら、僕は隣に立つ足立さんに声を掛けた。
「市民税の申告会場、結構お客様の待ちが多いですね」
「最終週の月曜だからな。忘れないうちにって、駆け込みで来られる人が多いんだよ」
かつて、同じ場所で申告を受け付けていたことのある足立さんがそう応じてくるのに、僕はなるほどな、と思いながら、広いフロアに時折鳴り響く、番号呼び出しのチャイムを聞くともなしに聞いていた。
去年までは二階の会議室でやっていたものを、今年は車椅子で来庁される方やご年配の方に配慮して、一階の共有スペースを仕切って申告会場を設置しているのだが、待合室に並べられた椅子の七割ほどがお客様で埋まっていて、まだまだ途切れる様子もない。
今日は、早瀬さんも会場で受付担当だと聞いているから、大変そうだな、となんとなく様子を窺っていると、まるで思い浮かべていたのに呼応したように、彼女が会場から出てくるのが見えた。しかも、おそらく対応していたお客様なのだろう、スーツにコート姿のいかにも会社員然とした若い男性と一緒だ。
他の窓口にご案内中、というところなのか、一生懸命な様子で何やら説明をしながら、こちらに向けて真っ直ぐに歩いてくる。
と、やっと進路上に僕たちが立っているのに気付いたのか、目を合わせるなり、慌てたように会釈をして、すぐ傍を通り過ぎていった。
「……どこに行くんだろう」
「税務署に案内じゃねえか?三軒隣だし、良くあるパターンだからな」
正面玄関の方へと向かう、二つの背中を見送りつつ、そんなことを話していると、住基担当の職員用出入口から、やっと井沢さんが姿を見せた。
「ごめん、引き継ぐのに時間掛かっちゃって。今日はどこに行きます?」
「最近行ってねえし、久々にゼフィールにするか……っておい、森谷、あれ見ろ」
突然鋭く変化した足立さんの声に顔を向けると、玄関の自動ドアの向こうに、さっきの二人が、向かい合わせに並んで立っているのが目に入った。
その光景を捉えるなり、僕は瞬時にきつく眉を寄せた。男性の手が、酷く馴れ馴れしい様子で、早瀬さんの肩に乗せられており、何やら笑いながらしきりと話しかけているのだ。
それに相対している彼女は、見るからに困ったような表情で、身を引こうとしていて。
「森谷、係長が呼んでるってことにしとけ。手も足も出すなよ」
「分かってます。口だけですね」
「既に色々と表情に出てるよ!せめて落ち着いて、無表情で!」
足立さんの忠告と、心配そうな井沢さんの声をそれぞれに受けて、僕は出来得る限りのスピードでずかずかと足を進め、次の瞬間には、軽い音とともに自動ドアが開け放たれた。
と、僕が声を発する前に、早瀬さんはすっと身を引いて、男性の手から逃れてしまうと、きっと正面から彼を見上げて、
「あ、あの、私、真面目にお付き合いをしている方がいるので!申し訳ありません!」
……こんなところで、至極大真面目に、なんてことを言ってるのか、君は。
妙に張りのある声で放たれたその台詞に、呆然としつつも、内心で突っ込んでいると、足を止めた三人の気配にやっと気付いたのか、はっとしたようにこちらを向いて。
そこからの彼女の様子は、例えて言うなら、うっかり尻尾を踏まれた猫のようだった。
零れ落ちそうなほどに大きく目を見張って、声にならない声を上げるように口を開いて、逃げ場を求めるようにあたふたと左右を見回してから、ぎゅっと唇を引き結んで。
「わ、私、職務中ですので、失礼致します!」
それでも、かろうじて自らの立場を思い出したのか、同じく呆然としている男性に頭を下げると、後も見ずに僕の脇をすり抜け、走り去っていってしまった。
その後は、男四人が揃って無言のまま、よく分からない連帯感めいた視線を交わして、しばし立ち尽くしていたが、
「……えー、お客様、もし何かお済みでないご用件がおありでしたら、私がご案内差し上げますが」
真っ先に我に返ったらしい足立さんが、対市民の方用というべき、あらたまった口調になってそう声を掛けると、男性はああ、いや、などと、一頻りバツの悪そうな声を上げてから、先の推測の通りに税務署の方向へと去って行った。
そして、何か取り残された感が辺りに漂う中、足立さんの深々としたため息が響いて。
「……森谷くん、顔、真っ赤だよ」
「……自覚はありますから、あらためて指摘しないでください」
ぽつりと零された井沢さんの声に、思わず顔を覆うように手を上げつつ、僕はひたすら一昨日からの連続攻撃のさらなる余波に、必死の思いで耐えていた。
そして、昼食を取っている間、あえてそれ以上話題にはしなかった先輩二人の心遣いに感謝しつつ、どうにか動揺を抑え込んで。
その日の業務終了後に、僕はここ数週間というもの続けている、帰りの行動パターンを変えてみることにした。つまり、寄り道をすることなく真っ直ぐに自宅へと帰り、自身と早瀬さんのために夕食を作り、としているのを、一日だけ全て止めることにしたのだ。
そうして、済ませたかった用を全て終わらせてから、彼女宛に、今晩はどこかで食事を一緒に取ろう、という旨のメールを送ってしまうと、後はただ持って来た本をひたすらに読み進めつつ、職場近くの喫茶店で適当に時間を潰している、というわけだった。
こうしていると、いつものように待っていても、良かったかもしれない、とも思う。
いずれにせよ、二人きりで会えることには違いないのだが、何故とはなく、違う状況で相対してみたいような、そんな気がして。
……会って、正直どうしたいのかも、今日ばかりは分からないのにな。
文字を追いながらも、半ば彼女のことを考えながら漫然と過ごしていると、ようやく、携帯が着信音を鳴らした。
From:早瀬里帆
Title:今から
本文:
すぐに出ます!
「……そんなに、急がなくてもいいのに」
わざわざ呼び出しておいたのは自分なくせに、僕は勝手なことを小さく呟いていた。
まさしく最低限、といった内容を、慌てつつも送信している姿が、目に見えるようで。
しばらくして、そろそろか、と見計らって顔を上げると、整備された官庁街の道路沿い、という立地のせいで、やけに見通しだけは良く作られた広い歩道を、えらく焦った様子で走ってくる早瀬さんの姿が、窓の外に遠く見えた。
おそらくそうするだろう、と見越してここで待つことにしたのだが、案の定だった。
僕は彼女が辿り着くのを待たずに席を立つと、すぐさま支払いを終え店を出た。派手なカウベルの音が店の表にまで鳴り響く中、ほんの数歩、というところまで近付いてきた、軽い足音が、ぴたりと止まって。
「……お待たせ、しました」
「お疲れ様。とりあえず深呼吸して、息整えて」
しきりと息を弾ませている早瀬さんに、僕はそう声を掛けた。庁舎から出てここまで、同じ通り沿いにゆっくり歩いておよそ三分、というところだ。それを走ってきたのだから、かなり疲れているだろう。おまけに、残業の後であるとなれば、余計に。
しばらく、素直に言われた通りに胸を押さえていた彼女は、小さく息を吐くと、
「あの、森谷さん、ご飯、早く行きましょう。お腹空いてるでしょう?」
僕を見上げてくるなり、心配そうにそう言ってくるのに、思わず笑みが零れる。
「そんなの、お互い様だろう?サーバの稼働時間、限界まで残業してたくせに」
「分かっていてしていることと、わざわざ待っててもらうことでは違うんです!もう、ほんとに急ぎましょう!」
何故か怒ったようにそう返してくると、先に立って駅の方へと歩き始めるのに逆らわず、静かにその後について歩く。早い足取りに合わせて左右に揺れる、肩を少し越えるほどの黒い髪を目に入れながら、僕はその背中に向けて言葉を投げた。
「早瀬さん、昼間の台詞、そのままの意味で取っておけばいいの?」
意図的にはっきりと届くように、声を張った甲斐があってか、彼女は覿面に足を止めた。振り向くのを待たずに追い付いてしまうと、その少し後ろに立って、じっと返事を待つ。
すると、早瀬さんは、小さく肩を震わせたけれど、
「……はい。そう、思ったので」
か細い声で、短くそう言ってしまうと、耐えられないかのように顔を俯ける。
その潔さに、いささかならず心の内に沸いていた、小狡い感情がすっとなりをひそめて、僕は気付けば、その言葉を口に出していた。
「……早瀬さん、好きだよ」
自分ですら、明らかに思いがけなかったのだから、彼女の方はさらに余程のことだったらしい。しばらく無言のまま立ち尽くしていた早瀬さんは、やがてのろのろと顔を上げて、
「……えっ!?い、今なんて、森谷さん!?」
「うん、好きだよ、って」
視線を合わせるなり、混乱したように叫んだ彼女に、僕はあらためて同じ言葉を告げた。
途端に、夜目にもはっきりと分かるほどに頬を染めた早瀬さんは、何か言いたげに唇を震わせはしたものの、声も出せないようで。
可愛らしい様子で、おろおろとうろたえているのを見ているうちに、次第に落ち着きを取り戻した僕は、思いのままに声を紡いだ。
「そういう風に、逃げずにいつも真っ直ぐに答えてくれるところとか、今みたいに赤くなってる表情とか、僕が勝手にしていることに甘えすぎないでいるところとか……細かく言い出すと、ほんとにきりがないんだけど」
初めて想いを告げた時から、いや増すままに募る恋心を、自ら暴き立てるように次々と言葉にしてしまうと、最後に残った決意を口にする。
「振り向いてくれなくてもいい、なんて、とても言えそうにないから、言っておくよ。いつか、君が僕のことを好きだと思ってくれるようになるまで、ずっと傍にいるから」
相当に手前勝手なことを言っている、という自覚は、もちろんある。
だが、多少なりとも彼女の想いが、こちらに向いていると感じているからこそ、言えたことでもあって。
自惚れでないことをそれでも願いながら、妙にすっきりとした気分で彼女を見下ろすと、身じろぎも出来ないでいるその背中を軽く叩いて、行こう、と促す。
と、スイッチが入ったかのような予想外の速さで、早瀬さんは僕の腕を掴んでくると、引き止めるかのように、ぐい、と引っ張って、
「あの、私も、その」
つつきでもしたら、今にも崩れてしまいそうな必死な表情で、僕の目を捉えてきたかと思うと、さらに言葉を継いだ。
「す、好きなところが、最初の頃よりずっと、増えてて。でも、変なことで妬いたり、自分の嫌なところも見ちゃうと、どうしていいかまだ分からなくて、自信もなくって……だから、あの」
まるで、足りなくなった空気を求めるかのように、軽く息を吸い込むと、
「好きになるまで、もう少しだけ、時間、ください」
微かに震える声で、前にくれた言葉とは、似て非なるものをくれて。
不意に与えられたそれが、綺麗に胸に沁み通るまでには、正直時間が掛かったけれど。
「……早瀬さん、さっき言ったことに、若干追加しとくよ」
「え?あの、何でしょうか」
「君が僕のことを好きになってくれたら、四六時中一緒にいるから」
「ま、真顔でとんでもないこと言わないでください!」
そう叫ぶように言うと、今更気付いたように掴んでいた腕を離して、今度こそ後も見ず、彼女は足早に歩き始めた。
動揺がそのまま表れているような乱れ気味の足取りを、しばらく楽しむように見やってから、僕はゆっくりとその後に続いていった。
そして、さらに翌日。
朝、ロッカー前で顔を合わせるなり、井沢さんがけげんそうな表情で僕を見てくると、
「……森谷くん、彼女と何かあったの?」
「ありましたけど、どうして分かったんですか?」
「うん、見るからに顔に出てるよ……今日窓口当番だから、にこやかなのはいいけど、緩みすぎないようにね」
苦笑気味に、しかしずばりと指摘されて、思わず頬を捻る羽目になってしまった。
……いずれ想いが成就でもしたら、自分でも、どうなることやら。
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