作って、食べて
料理を作ること自体には正直なところさほど興味はなかったが、状況が変わり、自分で作らざるを得なくなってきた時点から、なんとなく手を出してみるようになってきた。
コンビニや弁当屋も徒歩五分圏内に複数あるが、数日でバリエーションのなさに飽きてしまったというのもあるし、何より、殊の外ジャンクな味に毎日さらされるのは予想よりきつかった。そういうわけで、家には初心者向けの料理本が何冊かあるわけだが、
「もう、これも一度作ったしな……井沢さん、何でもいいんですけど晩ご飯に食べたい、っていうメニューとかないですか?」
職場からほど近い、居酒屋『
「え、そうだなー、久し振りに肉じゃがとか食べたいかも。甘めのやつ」
「ああ、それは真っ先に作っちゃったんですよ、定番中の定番だから。足立さんは?」
「井沢はともかく、俺にまで聞くのかよ……それに、なんだよその付箋。作りまくってガチで貼る余地なくなってんじゃねえか」
そう言いながら、向かいの席に座った足立さんが、呆れたような感心したような微妙な視線をこちらに向けてきた。
確かに、作った印としてつけ始めた付箋は、ほぼ全ページに渡っていて、そろそろどうにかしないと、貧弱なレパートリーがいい加減尽きてしまう。比較的得意なメニューを、ひたすらローテーションするという手もあるが、そうなるとパスタや丼なども入ってきてしまうので、人に分けるには甚だ難しくなってくるから、今回の趣旨には合わないわけで。
と、井沢さんが、何か物珍しげに開いた本を覗き込んでくると、
「というか、僕たちみたいな男じゃなくて、女の子が食べるって考えると、結構難しいよね。残業で遅くなる分、カロリーとかも凄く気にするだろうし」
「とりあえず、なんでもいいけど野菜ぶっこんどきゃいいんじゃねえのか。大根とか」
「大根ですか……手羽先と根菜の煮物、っていうのがあるんで、それにしようかな」
「……そのチョイス、マジでおかんか、お前は」
「意外と簡単ですよ。書かれた分量さえ守ればいいし、あとはとにかく、出汁と醤油と酒とみりんがあれば大抵のものはクリアできますし」
眉を寄せた足立さんにそう返しながら、また手頃な新しい本を一冊買うべきか、と僕は真剣に考えていた。
こうして、今晩の夕食メニューなどを考えているのは、自分ももちろん食べるが、専ら早瀬さんのためだ。二月も終盤に入り、いよいよ残業も頻繁になってきた彼女に、最近、迎えに行くたびに、タッパーに詰めた惣菜を渡しているのだが、引かれるかと思いきや、意外にも好評で。
もっとも、最初は相当に驚かれたし、遠慮もされたものの、口に合わなければ捨ててもいいから、とまで告げて、ようやく受け取ってもらえたのだが。
「しかし、普通こういう胃袋掴む系アプローチすんのって反対なんじゃねえのか?」
「それは彼女も言ってましたけど、共働きみたいな感じで考えればいいから、って押し切ったんですよ。悪いな、と思うんなら週末にでも夕食に呼んでくれたら、って」
「あ、それが狙いなんだ。森谷くん、割と策士だよね」
半ばからかうように笑いながら言ってきた井沢さんに、僕は軽く頷いて認めてしまうと、ため息交じりに零した。
「そうでもしないと、なかなかあの人、お友達意識抜けてくれなさそうですから」
「ていうかお前、真面目な話、なんか進展してんのか?そんな雰囲気変わったようにも見えねえけど」
足立さんの鋭い指摘に、僕が一瞬黙り込んだ時、本日の日替わり定食が運ばれてきた。三人ともの前に並んだそれに、揃って箸を付けながら、僕は今までのことを話し始めた。
「一応、デートとかはしましたよ。映画行ったし、僕の部屋にも何度か来てもらったし、けど、まだあくまでも友達、っていうスタンスまではこっちも崩せなくて……」
「要するに、手が出せない、ってことか」
「そんなことしたら、確実に逃げられますよ、今の状態じゃ」
こちらの意思ははっきりと伝えつつ、じりじりと距離を詰めている段階なのだ。ここで下手に急いては、怯えられてしまいかねない。
だけど、内心ではどこか、変わらない現状に焦る気持ちがあるのも事実で。
「なんていうか、こっちが色々と攻めるたびに、赤くなったり照れたり、分かりやすい反応が返ってくるんで、少しは効いてるのかな、と思うんですけど……向こうから返ってくるのは、純粋な好意だけであって、恋愛的なそれじゃないって感じなんですよね」
それでも時折、こちらの心臓にくるような言葉や表情を向けられる時もあって、思いが揺らぐ時もあるのだが、確信までには至らなくて。
「ああ……なんか分かる気がする。友達としては認められてるけど、ってやつだよね」
何やら実感ありげに、井沢さんが苦笑気味に言ってくるのに、足立さんが出汁巻き卵をつまみながら、訳知り顔を向けてくると、
「まあ、お前だってそうだもんな。しかも結構長いこと」
「ちょっ、こんな時にばらさないでくださいよ!森谷くん、聞こえてないよね!?」
「……そういうことにしときましょうか?」
「あーもう、なんかその『弱み握った』みたいな笑顔やめてほしい!足立さんも何気に酷いですよ!」
などと、場の状況がにわかに二対一、という構図になった時、遠くから聞き覚えのあるおーい、という声が掛かって、三人がほぼ同時にそちらに顔を向ける。と、
「ごめーん、悪いんだけど相席させてもらってもいいかなー?」
いつものように、人の良さそうな笑顔を浮かべて近付いてきたのは、倉田さんだった。もちろん、混んだ店内の状況もあり、皆否やもあろうはずもなく、四人掛けの席はこれで綺麗に埋まったわけだが、
「なんか、出るの遅れたか?」
「うん、ちょっと電話対応で長引いてさー。レアケースだったから、色々確認してたら遅くなっちゃった」
足立さんの言葉に、倉田さんがそう返すと、何故かにこにこと僕の方を向いてきて、
「今日も残業は残業なんだけど、回付資料少な目らしいから、ちょっとだけ早めに切り上げられると思うよー。また彼女から連絡行くと思うけどねー」
「有難うございます……って、早瀬さんが僕に連絡してるの、ご存じなんですか?」
「うん、正確に言えば内野さん情報。毎日、ロッカーで着替え終えるなりメールしてる、って」
何でも、あまりにも一生懸命にメールを打っているので、事情を知っている女性陣皆にからかわれているそうだ。……かわすの下手だから、きっと真っ赤になってるんだろう。
その様子を見てみたいな、と口元を緩めていると、足立さんがふうん、と唸って、
「なんか、それだけ聞くとすっかり付き合ってるみたいな状態なのにな」
「え、どういうこと?もう俺、そんな感じなのかなーって思ってたんだけど」
すかさず倉田さんがそう反応するのに、僕は仕方ないな、と思いながらも、先程話していたようなことを簡単に伝えた。
すると、水を口にしていた倉田さんは、なるほど、と頷いた後、ちょっと頬を撫でて、
「うーん……森谷くん、今から言うこと、俺のひとりごとなんだけど」
「……は?」
「まあ、特に口止めされたわけじゃないんで、話半分に聞いといてね」
そう前置きしてから、僕の知らないあることを、にこやかに教えてくれた。
その夜、倉田さんの情報通り、ここ数日よりも若干早く、彼女からメールが届いた。
From:早瀬里帆
Title:今日は幸い
本文:
思ったより早く、お仕事終わりました!
一時間早いだけで、なんだか凄く嬉しいです。
ところで、今日は内野さんに、お返しするのに
持って来たタッパーを見られてしまって……
休憩中に、しっかり追及されてしまいました。
この間は美味しい肉豆腐だった、と話したら、
『むしろこっちにも差し入れしろ!』
って、笑ってましたよ。
それでは、これから帰ります。
七時十四分の準急には間に合うと思いますが、
万が一乗り遅れたら、また連絡しますね。
「……お疲れ様」
そう呟きながら、いつも通り、迎えに行く旨を簡単に送信してしまうと、僕は既に用意していたタッパーを紙のバッグに入れて、準備を完了した。
中身は、昼間決めた通りの煮物がきっちりと入っている。大根も人参も家にあったので、手羽先だけを買い足すだけで済んだし、おかげで野菜室の整理も出来て、一石二鳥だった。
自分の分の食事はもう済ませてしまったので、味もさほど悪くないことは確認済みだし、追加で小松菜のおひたしもつけてみたから、白飯さえ用意すればいいくらいだ。
栄養バランスまで考えてしまうあたり、おかん、と言われても仕方ないのかもしれない、などと、昼間のことを思い出していると、また着信音が鳴った。
From:倉田孝人
Title:今日なんだけど
本文:
早目に終わったんで、差し入れは特になし!
チョコをつまんでたのを見たくらいだから、
普通に用意してあげていいと思うよ。
それじゃ、頑張ってねー。
どうやら応援してくれているらしい内容に、僕は思わず笑ってしまうと、有難うございます、と礼のメールを返した。そうこうしている間に、時間はそれなりに経っていたので、コートを羽織り、用意したバッグを持って僕は家を出た。
当然、というか、先日貰った手袋は身に着けている。スマホ対応(ガラケーなのでその点では意味がないが)だというそれは、思ったよりも指先が使いやすく、携帯の操作にもさして支障がないのがいいところだ。
そういえば、これを初めて身に着けて会った時も、ぱっ、と嬉しそうな表情になって、あったかいですか?と、にこにこと尋ねてきて。
分かりやすいくらいに内心が顔に出る分、それだけ、期待もしてしまう。その笑顔が、特別な意味を少しでも含んでいるのか、赤くなるのは、単なる物慣れなさ以外にも、僕に何かを向けてくれているのか、始終考えて。
幸いなのは、少なくとも嫌われたりはしていないだろう、というところだ。朝の通勤は何もなければ、必ず一緒に行動するようになってきたし、帰りも会えれば同様にしている。
それに、僕の知らないところでも、こちらを気に掛けてくれていることも、分かって。
と、思考を裂くように、ホイッスルの音が耳を叩く。もう東口の近くまで来ていたから、フェンスの向こうに、藤宮方面に行く、下りの電車が発車するところが見えた。
この後、しばらくしてから彼女の乗った電車が到着するので、特に急ぐこともないまま、エスカレーターで上がっていくと、思わぬところで声が掛かった。
「あっ、森谷さん!」
その声に顔を上げると、降り口の少し向こうに立っている早瀬さんが、懸命にこちらに手を振っていた。その表情は、何かやけに機嫌良さ気で、子犬が尻尾を振っているような、そんなイメージだ。
ともかく、前に誰も乗っていないのを幸いに、僕は残りのステップを足早に上り切ってしまうと、彼女に近付いていった。
「なんで……そんなに早く出れたの?」
「いえ、そうでもなかったんですけど、ちょっと順番を変えてみたんです」
とりあえず西口に向かって足を進めながら、彼女の話を聞いてみると、ごく単純なことだった。いつもはロッカーでメールを打ってから出ていたのを、藤宮の駅に着いてから、エスカレーターに乗りつつ打つ、という風に変えてみたら、ひとつ前の電車に乗れた、と、それだけのことだったらしい。
「なら、連絡してくれたら、もっと早く出たのに」
「でも、凄く早く着く、ってわけでもなかったですし、森谷さんが早めに来てくれてるから、待ち時間なんてほとんどなかったですよ?」
だから、いいかなって思って、と笑う彼女に、僕は小さく息をついた。なんのために、早く出て来てると思ってるんだろう、この人は。
改札から上がってくる人波の中から、いち早くその姿を見つけたいから、だというのに。それから、こちらに気が付いて、慌てたように駆け寄ってくる仕草も、好きで。
そんなことを考えながら、ますます惚れてるな、と、妙な自覚を覚えていると、
「やっぱり、早く帰って来れるっていいですね。時間の余裕が違いますし」
「ここのところ、連日だからね。やっぱり疲れてきた?」
「目と、腕はさすがに疲れるかな……でも、おかげさまで、ご飯を作る時間短縮出来てますから、ちゃんと休めてるし、まだまだ大丈夫です」
そう言われて、そっと隣を歩く彼女の顔色を窺うと、確かに血色は悪くない。先週から数えて、こうして送っていくのももう七度目になるが、酷く疲れた様子も見せないでいる。
それでも、やはり女性だから体力的に心配な部分はあるのだが、何より気になることがあって。
「だからって油断せずに、残業中、腹が減ったらちゃんと何か口に入れるんだよ。僕のこれに関しては、何も気にしなくていいから」
そう言いつつ、手にしたバッグを示してみせると、はい、と反射的に小さく頷いた後で、彼女はふと含まれた意味に気付いたようで、足を止めると、さっと僕を見上げてきた。
「だ、誰かから、何か聞かれましたか?」
「そこまで察してるんなら言うけど、倉田さんから。先に言っとくけど、心配もあって伝えてくれたんだからね」
昼間、倉田さんから聞いた話というのは、こういうことだった。
毎年のことだが、この時期の残業時には、何度か管理職からの厚意で、差し入れが入るそうだ。合間にすぐにつまめる菓子類などが多いが、たまにパンやおにぎりなどの軽食も届けられるとのことで、先日も一度、休憩室にそういったものが並べられたそうなのだが、
『なんかね、早瀬さん全然手を付けようとしないもんで、ちょっと心配で。俺声掛けに行ったんだけど、大丈夫ですから、の一点張りなのに、途中でお腹鳴ってねー』
それで、見る間に真っ赤になった彼女から、どうにか聞き出したことが、
『今食べちゃうと、帰ってからいただいたおかずが食べられなくなるから、せっかくのご厚意なのに、無駄にしたくないんです、って。そう言われたら、無理に勧めるわけにもいかないしねー』
と、いうことで、結局、朝食にでもするといいよ、とパンを持ち帰らせたそうで。
そう聞いたことを話すと、途端にうろたえを見せた彼女に、僕は眉を寄せると、
「いつもとサイクルが違うんだし、空腹を我慢させるために渡してるんじゃないから。それと、差し入れだって厚意なんだから、素直に食べときなさい、分かった?」
「……はい」
軽く叱るようにそう言うと、こくりと頷いた後、彼女は落ち込んだように俯いてしまって。
思わず、その姿に手を伸ばすと、宥めるように小さな背中をぽん、と叩く。
身を震わせるものの、まだ顔を上げられずにいるのか、うなだれたままの様子に、僕はさらに頭を撫でてやると、
「でも、正直に言うと、僕を少しでも優先してくれたっていうのは、凄く嬉しいよ」
本音を言えば、そんな言葉では表せないくらい、だけれど。
人の語彙にもたいがい限界があるな、などと、くだらないことを考えながら、ほら、と促すようにもう一度背中を叩いて、先に立って歩き始める。
と、数歩歩いたところで、ごく軽い、地面を蹴る音がしたかと思うと、彼女が横に追い付いてきて。
勢いよく僕を見上げてくるなり、一瞬ひるんだように眼鏡の奥の瞳が見開かれたけれど、思い切るようにきゅっと、それが細められて、しばし。
「あの、私だって、いつもたくさん嬉しいって、そう思ってますから!」
そうきっぱりと言い切ると、にわかに気恥ずかしくなったように、顔をそらして。
何もかもを振り切りたいように、酷く早足で先を急ぎ始めたその背中を、しばらくの間見つめていたけれど、
「早瀬さん、嬉しい、って、具体的に何が?」
「詳しく聞かないでください!色々です、色々!」
「その色々、を聞きたいのに。今後の参考にするから」
「……参考って、何のでしょうか」
「それは、君へのアプローチに決まってるだろう?」
「な、なんとなく恐いので、言いません!」
すぐさま追い掛け、追い付いてしまうと、我ながら意地の悪い問いを次々と重ねては、彼女の反応をじっくりと楽しんでしまった。
おかげで、家に着く頃には、すっかり拗ねられてしまったけれど、それはそれでいいか、と、珍しく不機嫌さを露わにしたその表情を、僕は笑いながら見つめていた。
そして、翌日。
「あ、森谷くん、今晩は差し入れないよー、貰ったお菓子類まだたくさんあるし」
「有難うございます。それじゃ、いつも通りの分量で作ることにしようかな」
「いいんじゃないかなー。それとね、うちの奥さんが良かったらレシピ本提供しようか、って言ってくれたんで、持って来てみたんだけど、使う?」
「……お前ら、マジで、主婦か」
「なんか、さらにグレードアップしていきそうですよね……」
などと、また四人で昼食を食べながら、流れで夕食のメニュー選定を手伝ってもらった。
まあ、先々のことを考えれば、家事の腕はなるべく上げておいた方がいいだろうし、と、僕は借りた本のページをめくりながら、昨夜の彼女の姿を思い返して、口元を緩めていた。
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