告げて、はじまり
連休が明けたと言っても、今年に関しては土曜日からの五連休だから、ほんの中二日でまた休みに入るわけで、庁内全体もどことなく緩んだような雰囲気が漂っている。
とはいえ、無論それどころではない部署も多数あるし、呑気に過ごしてられるのも今のうちだぞ、などと、同期に半ば脅かされたりもしているが、元より覚悟の上で。
加えて、何をおいても守りたい人が出来てしまった以上、なおさらのことだ。もっとも、彼女なら、一方的に守られるなどということは許してはくれないだろうから、口に出せば叱られてしまいそうだが。
「あー、もうそのへんの真面目な心情とかいいからー。里帆ちゃんの具体的な反応とかどこまで何したとかそういうことを求めてるのにー」
「言うわけないでしょう。彼女が恥ずかしがるし、何より知っているのは僕だけで十分ですから」
金曜日、午後六時過ぎ、藤宮市役所一階のホール。
閉庁時間も過ぎて、すっかり人気のなくなったその片隅で、やれやれといった風情で、わざとらしく肩をすくめてみせた戸川さんに、僕はすぐさま切り返していた。
こんなところで彼のくだらない質問に答える羽目になったのは、これから、有志で企画された飲み会に参加することになっているからだ。発起人は戸川さんだが、何故か幹事は内野さんと井沢さん、というよく分からない構成になっている。
そのメンバーはといえば、担当を問わず単に彼が呼びやすい人間だけを集めたそうで、その中に僕も入れられてしまったらしい。……いつの間にそういう認識になったのやら。
「なんだよーもー、昨日里帆ちゃんに特攻したら内野さんに笑いながらセクハラだよー、ってばっさり斬られたから、こっちに聞こうと思ったのに」
「その経過は知ってますよ。それに、聞いたところで今更何をどうするんですか?」
人の色恋沙汰にこうまであけすけに尋ねてくるその神経に感心しつつも、純粋な疑問を覚えて、とりあえず僕は戸川さんにそれをぶつけてみた。
彼女に一時でも気があったのなら、他の男と上手く行った経過など、耳にしたところで切なくなるだけだろう。そう思っていると、彼はうーん、と短く唸って、
「なんつうのかなあ、ほら、虫歯の痛いところをあえて舌先でぐりぐりするあの感じ?冷水含むとやりすぎ感出るけどこのくらいだったら痛気持ちいい?みたいな」
「その妙に詳細な例え止めろ。寒気がする」
戸川さんの背後から、容赦のない調子で斬り込んできたのは、足立さんだった。
やけに具体的な描写が余程気に障ったのか、眉間に深々と皺を寄せて、戸川さんを軽く睨みながらもその横に立つと、呆れたように問いを投げてくる。
「だいたいお前、昨日も井沢にさんざん惚気られてうなだれてただろうが。まだ懲りてねえのかよ」
「あれは俺だって防ぎようがなかったじゃん……酔ってたせいもあると思うけどさー、寄せては返し寄せては返しで話終わんねえし彼女萌えエピソード無限に沸いてくるし」
さすがにげんなりとしている戸川さんの姿に、参加しなくて良かった、と、僕は内心で呟いていた。
言うまでもなく、井沢さんの幸せ状態はまさに最高潮に達していて、常に周囲に花でも飛んでいそうな雰囲気だ。おかげで、こちらにはさほど追及も飛んでこず、正直なところ助かっている。まあ、目端の効く人には、いくらか察せられてはいるようだが。
ちなみに、あの二人は双方とも実家住みだから、僕たちのように帰省する必要もなく、休みの間をほぼデートに費やしていた、と聞いているのだが、
「そういえば、戸川さんは連休中、何をしてたんですか?」
一方的に聞かれるばかりなのも何やら腹立たしいので、僕はそう尋ねてみた。
見る限りでは、大人しく家でじっとしているタイプにはとても見えないし、あっさりと返事が返ってくるだろうと思っていたのだが、何故かぐずぐずとしていて。
「いやー、別に普通っていうかー、適当に……」
「初日は、俺の家に遊びに来て嫁さんの飯食って帰ったんだよ。あとはいつか知らねえけど、初島となんか甘いもん食いに行ったらしいぞ」
「え?……もしかして、入籍されたんですか?」
何気なく挟まれていた言葉に、職業病、というほどのことではないが、即座に浮かんだ単語を、僕は足立さんに投げていた。だが、彼が答える前に、戸川さんがさっとこちらを向いてくると、代わりのように口を開いて、
「まだだけどー、いちいち説明するのめんどくさいから嫁って言ってるんだってー!!あーもう遥さんめちゃくちゃ幸せそうだし、清佳ちゃんは『傷口に塩ですね!』とかって慰めにもならないこと言ってくるしー!!」
「……自ら進んで奈落を目指す人に、他にどう言えって言うんですか」
足立さんに、井沢さんに、加えて僕の話まで聞いて、落ちるところまで落ちようとでも思ったのだろうか、と考えていると、ふいに腕をがっちりと掴まれて、
「だから、森谷くんなんか里帆ちゃんとの情報くれよー!!燃え上がる羨望パワーで、いつか次の恋に突き進みたいからー!!」
「僕はともかく、彼女を嫌なエネルギー源にしないでください!」
などと、ホールに響き渡るほどの声で妙なことを叫ぶ戸川さんを黙らせるために、僕は渋々、語れる範囲のことを話し出した。
「……あの、森谷さん、少しだけ腕を緩めてくれませんか?」
耐えられなくなったかのような、早瀬さんの微かな声が間近で響いて、僕は閉じていた瞼をようやく開けた。
視界に映るのは、彼女のほんのりと色づいた白い首筋と、その上に巻きついた金の鎖。それに、軽く編んで綺麗に結い上げた黒の纏め髪と、羽毛めいて広がる柔らかな後れ毛で。
いいコントラストだな、などと思いながら、半ばその肩口に埋めていた顔を上げると、自分より遥かにほっそりとした腰に回していた腕を、お願いの通りに緩めてみせた。と、
「ほ、ほんのちょっと過ぎないですか?全然動けないんですけど」
「言う通りにしたつもりなんだけどね。君は、どうしたいの?」
きつく抱き締めた腕の中から逃れようと試みるものの、身じろぎひとつ出来ないでいる彼女に、我ながら意地悪な口調で、僕はそう尋ねてみせた。
すると、わずかに首を巡らせてこちらを見てきた早瀬さんは、頬を染めながら、困ったように眉を下げて、
「だって、もう見終わって随分経つし……もうちょっと、って言って、ずっとこのままだから、そろそろ離して欲しいな、って」
「何、嫌になった?」
「そういうわけじゃないです!ただ、その、傍で猫みたいにごろごろされ続けるのは、凄く、心臓に悪いというか」
連休の四日目、その夕刻。今、こうして二人で過ごしているのは、彼女の部屋だ。
ほんの三時間ほども前、彼女がやっと実家から帰ってきて、当然のように駅まで迎えに行ってから、荷物持ちも務めつつ、そのまま一緒に上がらせてもらって。
ひとまず落ち着いたところで、夕食までの時間をどう過ごすか、という話になった時に、彼女がいそいそと取り出して来たのが、一枚のDVDで。
『これ、『水際に触れる』の特装版、買っちゃったんです!特典映像もあるんですけど、良かったら、一緒に見ませんか?』
映画を見た直後に、内容について随分落ち込んでいたから、どうしてわざわざ買ったの、と聞いてみたら、付属のブックレットに入っている、書き下ろしの中編目当てで購入したそうで、それも面白かったですよ、と勧めてくれて。
特に異論もないので提案に乗ることにしたのだが、ひとつだけ条件をつけてみた。僕は基本的に一度見たものを二度見る趣味はないから、本編を見る間は、好きなようにさせて欲しい、と頼んだのだが、すんなりと頷いてくれたので、言葉の通りにさせてもらった。
つまり、こうしてラグの上に腰を下ろして、座椅子めいて膝の間に彼女を座らせては、構いたいだけ構っている、というわけで。
「仕方ないだろう?宣言した以上は、必ず実行する主義なんだから。それに、君が一日傍にいなかったのは、思ったよりずっと堪えたからね」
自分でも情けない、とは思わなくもないが、いささか自嘲気味に、僕は今更隠しようもない本音を零してみせた。
連休初日に、彼女から渇望していた言葉を貰ってからというもの、ありていに言えば、僕は使い物にならなくなっていた。離れがたいのをどうにか押して、車に戻ってからも、ずっと繋いだ手を、解くことも出来なくて。
互いに実家に帰っている間は、特に酷い有様だった。気を緩めると、思考があらぬ方に流れていって、滅多とないことに、弟にまで心配されるほどで。
だから、こうして触れてしまうと、もう何もかもがおしまい、という心地になって。
溺れ過ぎだな、と、内心で苦笑しつつも、僕は巻きつけたままの腕を解いてみせると、少しばかり身を離してみた。途端に、意外そうに振り返ってきた彼女の面に広がる、困惑した表情を認めて、さて、どうするのかな、と窺っていると、
「……メールとか、電話、足りなかったですか?」
膝に置いていた僕の手を取って、すまなさそうに尋ねてくるのに、抑えきれない笑みが口元に浮かぶ。引いてみせると、おずおずながら追って来てくれるのは、素直に嬉しくて。
わざと何も言わないまま、しばらく次の反応を待っていると、彼女は弱ったように顔を俯けてしまった。
「実家だとやっぱり家族と一緒だし、なかなかタイミングが難しくて……あと、あの、実は、志帆が、森谷さんのこと両親に話しちゃってて、その……」
言葉を切って、言いにくそうに口ごもるのに、僕は眉を寄せると、促すように強く手を握り返した。さすがに、聞き捨てならないどころの話ではないからだ。
「そんな大事なこと、なんで言わないの。何か、反対でもされた?」
「いえ、そんなことは!でも、色々話してるうちに、家族会議みたいになっちゃって」
何やら大仰なことになったのか、と一瞬案じたその顛末は、聞いてみればあっさりしたものだった。
家族の待つ実家へと帰りつくなり、じりじりと待ち構えていたらしい両親と妹に出迎えられ、お土産を渡すのもそこそこに、僕とのことを尋ねられたそうで、
「今までのことを話して、いい機会だから、と思って、大事な人でお付き合いしてる、って伝えたんですけど……そしたら、志帆がなんだか混乱しちゃって」
一瞬放心した後に、あの調子で、なんであんなやつと!から始まって、いつからなの、どこがいいの!?とさまざまなことを追及されて、必死で答えを返しつつも、宥めるのが大変だったそうだ。
そして、ようやく妹の興奮がおさまった後は、話を聞いているうちに涙目になっていた父(なんとなくだが、気持ちは分かる)と、完全に面白がっている様子の母に挟まれて、さらに細かい点について、納得するまで尋ねられて。
「それで、三人からそれぞれ、森谷さんに伝えて、って言われたことがあって……」
「……こら、なんでそこで黙るの?」
肝心なところに来て、迷いを見せて口をつぐんでしまった早瀬さんの肩を、僕はそっと掴むと、自分の方へと引き寄せた。小さく声を上げて、あっさりと倒れ込んできた華奢な身体を、正面からくるみ込むように抱き直すと、耳元に囁きを落とす。
「何を言われたにせよ、ちゃんと話して。必要だと思えば、そのままにはしないから」
そう口にしてから、我の強さを嫌になるほど自覚して、僕は微かに顔をしかめた。
何も、頭ごなしに否定されると限ったわけでもないのに、彼女の反応ひとつに、いやに身構えてしまう自身にも、苛立ちを覚えてしまって。
にわかに揺らいだ感情の波に煽られて、軽く息をついていると、されるままに僕の胸に顔を埋めていた彼女が、慌てたように身じろぐと、さっと顔を上げてきて、
「あ、あの、そんな大変なことではなくて!ちょっと、一部の発言に問題がある、っていうか……」
「……どういうこと?とにかく、聞かせて」
焦った様子で話す、その瞳を見据えてそう言うと、早瀬さんは諦めたように口を開いた。
「志帆は、『泣かしでもしたら承知しないからね!』って……それと、父は、『お互いのことをくれぐれも大事にしなさい』だったんですけど……母が、その」
意外な展開に、僕は思わず眉を上げた。てっきり、妹から口を極めて責められるものと思っていたのだが、違ったようで。
と、しばしためらっていた彼女は、僕の服を握り締めてくると、細い声で告げてきた。
「あの、『いつ一緒に住み始めるの?その前には挨拶に来てちょうだいね』って……」
……それは、まあ、全く考えていなかったわけではないけれど。
さすがに、付き合い始めてたかだか四日で、こうも先手を打たれるとは。
これは釘を刺された、と思っておいた方がいいな、と考えつつ、泣き出す寸前のように真っ赤になって俯いている彼女の髪を、宥めるように撫でるうちに、ふと悪戯心が沸いて。
「確かに、僕の部屋ならレイアウトの変更も簡単だし、いい発案だな」
ことさらに真面目な口調でそう言ってみせると、早瀬さんは途端にうろたえを見せて、
「ま、まだ、というか、そんなの無理ですから!」
「そうかな。うちの方がまだ広いし、このくらいなら家具を一式持って来てもらってもどうとでもなると思うんだけど」
「だから、実際的にどうという問題じゃなくてですね!」
「うん、なら、何がまずいの?」
いよいよ混乱しだした様子に、からかっているだけだと示すように、笑いながら尋ねてみると、ようやく気付いたのか、彼女は怒ったようにきゅっと眉を寄せて、
「……こんなに、始終どきどきさせられてるのに、四六時中とか、無理です」
軽く握った拳で、抗議するようにとん、と、僕の胸を叩いてみせて。
眼鏡の奥から、どうやらこちらを睨んでみせているらしいが、どう見ても逆効果にしかなり得ない上目遣いに、こらえきれずに笑みが零れる。
「そこは諦めるんだね。そもそも僕が、君に構わないでいられるはずがないんだし……まあ、いい機会だから、とりあえず明日一日、僕の家で検証してみる?」
「……怖い予感しかしないんですけど。ええと、何を、でしょうか」
「君の耐久力。この先、伸ばしておいて貰わないと、何事にも支障が出るだろうし」
「あえて伸ばさなくてもいいですから、もうちょっと落ち着かせてくださいー!」
意図を正確に察して、身の危険を感じたのかじたばたと身をよじる彼女を、しっかりと捕まえてしまって。
よくよく考えてみれば、今からでも別にいいんじゃないか、と思い至った僕は、力なく抵抗を試みてくるそのさまを見つめながら、より効果的な攻め方をじっと考えていた。
そういった出来事を、ほんの概略に留めつつも、それなりのダメージを与えるべく話し終えてみる。と、狙い通りになったらしく、戸川さんはリノリウムの床に向かって深々とため息をつくと、
「あー、だめだわ、なんか草一本も残ってない感じー……三人ともー、寂しい独り者にもうちょっと容赦してくれる優しさがあってもいんじゃね?」
「俺は知らん。上るとっかかりくらい自分でなんとかしろよ」
「それに、十分過ぎるほど燃料投下したはずなんですけどね。まだ足りませんか?」
「いやマジで許してとっくの昔に底打ったからー……でも、地味に気付いたけど、俺、かろうじて森谷くんに勝ってるとこあるしー」
足立さんと僕にすぐさま斬り捨てられながらも、しぶとく切り返してきた戸川さんに、反射的にけげんな視線を向けると、彼は何故か胸を張って、
「ほら、まだ『早瀬さん』って呼んでたじゃん?こっちはほぼずーっと『里帆ちゃん』呼びだしさー」
「なんだ、そんなことですか。それは……」
いささか拍子抜けしながらも、即座に反論しようと口を開きかけた時、賑やかな足音が耳を叩いた。三人が一斉に音の方に顔を向けると、丁度階段の踊り場に降り立った人影が、気付いて大きく両手を振ってくる。
「すいません、お待たせしましたー!やっと総務から解放されましたよー!」
「っていうかー、それは初島の自業自得だからー。足立さーん、お願いですからこの子うちに来させる前にダブルチェックお願いしたいんですけどー」
口々にそう言いながら、前後に並んで降りてきたのは、初島さんと川名さんだった。
初夏へと移る今の時期にはありがちな、グレーやライトグレーのスーツ姿の男性陣とはまるで異なり、身に纏っているのは淡いグリーンのブラウスやピンクのレースニットと、遠目にも華やかだ。
先に立っている後輩の、高く結い上げた茶色の長い髪の房を、手癖のように弄びながら、川名さんはホールの床に降り立つと、笑いながら足立さんを見やってきた。
「決裁内容と一覧の人数、なんか合わないと思ったら、綺麗に一枚忘れて来てるしー。ありがちなだけにミスりやすいんで、ほんとお願いしまーす」
「ああ、悪かった。プリンターの排出ミスだったのは分かってっから、気を付ける」
「誠に申し訳ありませんでしたー……って川名さん、あたしの髪は縄跳びの縄じゃないですからー!!」
派手に髪を振り回されながら、不満を表明している初島さんの声が高くホールに響く中、僕は新たに踊り場に現れた人影を、迎えるように見上げていた。
いつもの通り、真っ直ぐな黒い髪は下ろしているが、一月のあの時からは随分伸びて、胸のあたりまで届いていて、緩やかに結んだ白のボウタイの上で、微かに揺れている。
と、こちらの姿を認めるなり、ネイビーのフレアスカートが翻るほどに、慌てたように足を速めて降りてくるのに、僕は笑みを浮かべると、彼女に向けて呼び掛けた。
「里帆。そんなに急がなくても、大丈夫だから」
はっきりと狙って、通るように放った声は、その場にいた全員の気を引きつけるには、十分なほどのボリュームで。
当然ながら、零れんばかりに目を見開いて、一瞬の内に頬を染め上げた彼女の耳にも、届かないはずなどなくて。
残り数段を転びかねない勢いで駆け下りてくると、周囲に目もくれずに、一直線に僕の元へと走り寄ってきた里帆は、小さく拳を振り上げて、抗議の声を上げた。
「も、森谷さん!職場では呼ばない、って約束したじゃないですか!」
「ごめん。でも、もうお客様もおられないし、時間外だから大丈夫かと思って」
叱ってくるそのさまもどうにも可愛らしくて、思うさま頬を緩ませていると、地の底を這うような低い声が、すぐ脇から響いてきた。
「なにこれー、足引っかけられて倒れ伏したところをエンドレスでがしがし踏まれてる状態っていうかー……」
「ボディプレスで一撃必殺、の方がまだましな感じだよねー」
戸川さんの台詞に続けて、妙に明るい声で後を取ったのは、倉田さんだった。これで、参加を予定していたメンバーは、全員揃ったことになる。
「まあ、とにかく行こうかー。内野さんから、人数分席確保出来たって連絡あったし、名前は井沢くんで取ってるらしいから、皆、適当に俺についてきてねー」
既に目的地へのマップが表示された、白のスマホを示しながらそう言った倉田さんは、言葉通りに先頭に立って、正面玄関の方へと足を向けた。
その後に、戸川さんを半ば引きずるようにして足立さんが続き、にやにやとした笑みを隠しもしない川名さんは、やけに瞳を輝かせている初島さんを、無言で引っ張っていって。
わずかに間を置いてから、僕はすぐ傍らに立ち尽くしたままの彼女に、問いを投げた。
「手、繋いでもいい?」
「……庁舎を出てからでないと、だめです」
「他の人がいるのに、構わないの?」
間髪入れずに返ってきた思わぬ答えに、俯いているその顔を覗き込もうと身を屈める。
と、すっと顔を上げてきた里帆は、真っ向から僕の視線を捉えてくると、
「いいんです。森谷さんは、特別だから」
柔らかく試すような台詞に、酷く端的な言葉を返されて、息を呑む。
もう、それが心からのものだと思い知っているだけに、衝撃は強くなるばかりで。
何も言えずに見つめていると、自分で口にしたことに照れた風に、里帆は顔をそらして、か細い声で付け加えてきた。
「でも、あの、人前だし、ほどほどに留めてくださいね?」
「分かってるよ。これ以上追い打ちを掛けるのも、さすがにちょっと気が引けるし」
そう笑いながらも、皆の後を追って、どちらからともなく肩を並べて歩き始める。
まだ施錠されていなかった自動ドアを抜けて、五番出口へと向かいながら、僕は彼女に向き直ると、誘うように手を差し出してみた。
と、目を合わせるなり、ふわりと微笑んで。
迷うことなく伸ばされてきた、小さなそれを握り締めると、傍に引き寄せて。
「里帆、好きだよ」
言葉も、態度も、与えたいものは、とめどなく溢れてくるけれど。
ひとつたりとも惜しむことなく、このひとに告げて。
「……私も、好きですから」
耳元に落とした熱と、同じだけのものをくれた彼女の、朱に染まった頬を目にしながら、僕は、ある種の誓いめいた言葉を、心の中で静かに呟いていた。
このひとと共にいられるのなら、例え、どんなことでも。
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