後日談:五月

呼んで、密かに

 本人を目の前にするよりはきっとハードルが低いはずだ、と考えて、まずはパソコンの中に取り込んだそれを、そのままの解像度で表示してはみたものの、見つめているうちにやっぱり照れてきて、どうにも直視できなくなってしまって。

 それなら、携帯の液晶なら小さいし平気かも、と考えて実行してみたものの、まったく威力が軽減されることはなくて、待ち受けが彼氏だ、という事実にも気付いてしまうと、ひとりベッドに顔を埋め、ひたすらに気恥ずかしさに耐えながら、私は呟いた。

 「……なんで、こんなになっちゃうんだろ」

 木曜日、午後、十時過ぎ。他に物音ひとつも聞こえないような、静かな宵。

 残業が常の如く終わって、森谷さんに家まで送ってもらってから、何もかもを済ませてしまった今は、眠るまでの間の完全に自由な時間だ。普段なら、未読の本を読んでみたり、ネットで新刊情報や書評をチェックしたり、音楽を聞いてみたりと色々しているのだが、やってみよう、と心に決めたことがどうしてもこの状況でなければ出来ないことだから、いざ、と挑戦してみたものの、なんというか、撃沈してしまって。

 「森谷さんは、あんなにさらっと切り替えてきたのに……」

 情けない声でそう零しながら、私はどうにか顔を上げると、まだスクリーンセーバーが起動していないパソコンのモニタを、ちらりと遠目に見やった。

 そこに表示したままなのは、連休に内野さんたちと四人で行った、ダブルデートの時の写真だ。それぞれのスマホや携帯で撮影したものを集約して、井沢さんが時系列に沿って纏めて、全員にデータを配ってくれたのだけれど、その中でも、彼が一人で写っていて、なおかつ、こちらを向いているものをあえて選んでいる。

 もちろん、動画ではないのだから動きはしないし、話しかけてくるわけでもないのだが、相対しているうちに、これまでに言われたことや触れられたことが蘇ってきてしまって、まともに見ていられないのだ。

 と、写真を変えてみようか、と思い至って、私は立ち上がると、壁際に据えてある机に向かった。白のそれに合わせた、同色の椅子を引いて座ると、とにかく気持ちを落ち着かせようとマウスを握り、画像を素早く閉じる。

 途端に安堵して、思わずほっと息をついてから、昼間頑張るって言ったじゃない、と、自らの発言を顧みて、私はうー、と小さく唸り声を上げた。



 こんなことをしている、そもそもの事の発端は、その日の昼休みのことだった。

 内野さんに優理、それから清佳ちゃんと私の四人ともが、窓口や電話当番ではない、というなかなかに珍しい日だったので、揃って庁舎の地下にある食堂に集合、となったのだけれど、まさか、そこでいきなり、予想外の一撃を食らうとは夢にも思わなくて。

 「ほー……人は見かけによらないものなんですねー。傍から見てるとひたすらクール、っていう感じなのにー」

 「いや、それは皆思ってたよ。人当たりは別に悪くないけど、特に女子とはどことなく一線引いてるって印象だったから、ひょっとして苦手意識あるのかな、って」

 「里帆に惚れちゃってむっつりが爆発したんじゃないですかー?さすがに職場ではアレですけどー、通勤の行きも帰りも見てたらなんていうかめろめろっていうかー」

 「……優理、お願いだからそこは見なかったことにしておいて」

 六人ほどが掛けられるシンプルな白の長テーブルに、私は突っ伏しそうになりながら、止めのように忌憚のない意見を飛ばしてきた優理に、力なくそう返していた。

 三人から見事な連携で繰り出されてきたのは、それぞれの『森谷さん評』だ。そして、それを促す原因になったのが、今日、この場に優理が持って来たもので。

 「あー、それは無理無理。一緒に帰ってる時点でもうバレバレだし、森谷くんも隠す気ゼロだもんね」

 「それとー、なんといってもこれですよ、これ!恋人繋ぎ!」

 青いロゴ入りの紙パックの牛乳を片手に、苦笑しながら言ってきた内野さんに続いて、向かいに座っていた清佳ちゃんが一枚の写真を取り上げて、わざわざ示してきてくれて、私はもう、反論のしようも無くなってしまった。

 皆がそれぞれの昼食を並べたその真ん中に、トランプめいて広げられていたそれらは、つい先日の飲み会の折のものだった。参加者総勢九人だから、お酒も入って(無論、清佳ちゃんだけ除く)結構な盛り上がりようだったのだけれど、いつの間にか優理にこっそり撮られていたらしい。

 皆の後から庁舎を出たから、追い付くまでならいいかな、と、照れながらも求められるままにそうしていたのだが、彼女はわざわざ五番出口の影に隠れていて、後をつけて来ていたそうだ。……前の方ばかり気にしてて、全然気付いてなかった。

 他にも、長椅子に二人並んで話しているところとか、カラオケの音量のせいで、何事か耳打ちされているタイミングとか、明らかに狙って撮ってるよね、としか言いようのない写真ばかりで。

 「もう、こんなの、森谷さんが見たら嬉々として欲しがりそうじゃないー……」

 「あー、もうとっくに要求されたからー、データ送っといた。自分で編集するからって言ってたよー」

 ……なんか、既にデスクトップと待ち受けが変更されてそうな気がする。

 思わず零した呟きに、即座に優理から恐ろしい答えが返ってきて、ますますうなだれていると、あれっ、と清佳ちゃんが声を上げた。

 「そういえば、里帆先輩、まだ『森谷さん』って呼んでるんですかー?」

 「え、えっと、うん。そうだけど」

 唐突な問いを向けられて、少しばかりどきりとしながらそう応じると、内野さんが何か思い返すように軽く眉を寄せて、

 「確か、飲み会の時、森谷くんはずーっと呼び捨てしてたけど、里帆ちゃんは普段通りだったよねー。単に職場とプライベートで分けてるんだと思ってたよ」

 「そういう内野さんはどうなんですかー?ちなみにうちはー、ちゃんとした場所以外は全部『むっちゃん』ですよー!」

 何故か胸を張って、自慢げにそう言う優理の彼氏の名前は『宗秋むねあきさん』だ。ちなみに、彼女のスマホの待ち受けは彼氏との堂々たるツーショットなので、まだお会いしたことはないけれど、ここにいる皆のみならず、飲み会参加者は全員、どんな人かを知っている。

 ……酔った優理に、強制的に見せられたから、だけれど。

 それはさておき、いきなり問われた内野さんは、わずかに照れた様子を見せたものの、

 「職場では今まで通り、だけど……外では、彼の名前にくん付け、かな」

 「おー、それもいいですねー。で、井沢さんからはなんて呼ばれてるんですか?」

 すぐに返した答えを、さらに優理に突っ込まれて、ちょっとそっぽを向いて。

 「……名前に、ちゃん付けで」

 ようやく耳に届くかどうか、という感じの小さな声で言われた言葉に、残る三人揃って、

 無言で顔を見合わせると、清佳ちゃんが私と優理に目くばせをしてきて。

 「言っちゃっていいですか?……なんかそれって、すっごい可愛いです」

 「あーもう、二人も頷かないでー!ただでさえ似合わないって思ってるのにー!」

 相当に気恥ずかしいのか、牛乳パックを持ったまま、両の手で顔を覆うようにしている内野さんを見ながら、なんだか井沢さんらしいな、と思ってしまった。

 あの、とても優しい口調で、にこにこと嬉しそうに呼んでいる姿が、目に見えるようで。

 そんなことを考えていると、ふいに清佳ちゃんがうーん、と短く唸って、

 「どっちもいいなー。あたしなんか、歴代全員に呼び捨てしてたし、されてましたよー」

 「あれ、初島って今彼いないんだっけ?」

 「全然さっぱりいないですー、モテ期が高一で終わっちゃったんでー」

 「なにそれ終焉早過ぎー。ってことはー、初島はこれから出来るまではほっといてー、里帆だけだよね、今から呼び方変える余地あるの」

 「ですよねー。どうですか里帆先輩、選択肢はとりあえず三つ上がってますけど!」

 「え、その、そうだね……」

 優理とテンポよく言葉を交わしていたかと思ったら、突然こっちに話を振って来られて、私はうろたえてしまった。それは、全く考えていなかった、などというわけではなくて、むしろここ最近というもの、ずっと気に掛かっていたことで。

 「んー、そんなハードル高い?森谷くん、里帆ちゃんが呼ぶんなら何でも受け入れ態勢整ってると思うけど」

 「あーそうかも。じゃあさー里帆、『もっちゃん』辺りからいってみようかー」

 「さ、さすがにそれは厳しいと思うよ……」

 もっちゃん、はひとまず置いておいて、呼び捨てやくん付けは、彼が年上だというのもあるけれど、正直なところ、何よりも照れが先に立ってしまって、出来る気がしない。

 となると、もう選択肢としては、あとひとつくらいしか残っていないのだけれど。

 「あー、さん付けですね!いいじゃないですかー、なんかイメージにも合ってるしー」

 「うん、そう思って、そうしようかな、って考えてたんだけど」

 少し迷いながら言葉を切ると、瞳を輝かせてこちらを見てきた清佳ちゃんだけでなく、二人の視線も、窺うように向けられたのを感じて、私は、心に抱えていた小さなことを、この際だからと話してしまうことにした。

 「その、ちょっと前に、森谷さんといる時に、彼のお母さんから電話があって……」

 丁度、彼の部屋でソファに並んで掛けて、のんびりと本を読んでいたところだったのだけれど、ここで話しても構わないかな、というので、いいですよ、と頷いてみたところ、

 「そしたら、思ったよりお母さん、話す声が大きくて……内容も筒抜け、って感じだし、いいのかなあ、って隣でうろうろしてたら、『ヒロ』って呼ぶのが聞こえたの」

 それを耳にした瞬間、どうしてだか胸がざわざわとして、落ち着かなくなって。

 あまり長くは掛からなかった通話が終わってから、私はそのことについて、彼に尋ねてみた。昔からそんな風に呼ばれているのか、ということを。すると、

 「小さい頃からずっとそうだったから、仲のいい友達からも『ヒロ』って呼ばれてる、って聞いて、なんだか、うわーってなっちゃって」

 焦りなのか何なのか分からない、奇妙に切羽詰まったような感情が沸き上がってきて、混乱しつつも、いぶかしげになった森谷さんの追求を、うやむやながらなんとか避けて。

 その後、ひとりになってから、理由についてじっと考えを巡らせているうちに、とても単純な結論に辿り着いてしまった。つまり、


 「私だけの、特別な呼び方、したいな、って……その、お母さんや友達に対抗意識とか、自分でも変だなって凄く思うんだけど」


 例えようもなく大事なひとでも、まだ、一緒にいるのはほんの数か月で。

 追い付くすべのないその分を、何かで埋めてしまいたい、なんて、ただのわがままで。


 そう零してみてから、あまりにも身勝手な言い分にしかなっていないことにあらためて気付かされて、恥ずかしさに俯いていると、目の前に、一枚の写真が滑り込んできた。

 驚いて顔を上げると、それを寄越してきた優理が、にっ、と唇の端を吊り上げて、

 「いいじゃん、どこまでだって欲張っちゃえばー?こんな顔させられるのって、きっと里帆だけの特権なんだしさー」

 そう言うと、軽くとんとん、と、指先を写真の上で躍らせてみせた。

 綺麗に整えられたそれが示すのは、照れたような困ったような、私が密かに大好きな、彼の、笑顔で。

 向けられた先にいる私はといえば、また、この上なく幸せそうで、説得力があり過ぎて。

 見ているうちに、どうしようもなくくすぐったいような気持ちにとらわれてしまって、ただおろおろと視線をさまよわせていると、清佳ちゃんがふいに身を乗り出してきて、

 「よーし、だったら初島、一肌脱いじゃいますよー!まずは、呼び方バリエーションのリストアップからですよねー!」

 「あ、それならトップに『もっちゃん』入れといてー」

 「こら、いきなりネタに走らない!……でも、呼ばせて反応見てみたい気もするなあ」

 「だからどうしてそんなにもっちゃん押しなのー!それに、内野さんまで流されないでくださいー!」

 膝に置いていた鞄から取り出した手帳に、早速とばかりに書き込み始めるのに、優理が即座に候補を挙げると、笑いながら内野さんがとんでもないことを言い出して。

 最終的に、定番のものからもはや原形を留めていないものまで、なんと三十強の候補が出揃ってしまった。……それはいいとして、優理、『むっつり』は、さすがに酷いと思う。



 結局、そのことでお昼休みいっぱいを費やさせてしまったので、皆にお礼を言って。

 三人に、明日にもチャレンジしてみる、と約束したものの、身代わりの画像相手でさえ、こんな有様で、なんともふがいないばかりで。

 清佳ちゃんがくれた、几帳面な文字で書かれたリストからのピックアップは、とっくに済んでいる。もっとも、九割方はネタと、とても呼べはしないような恥ずかしい系のものだったから、後に残ったのはごくごくスタンダードな呼び方なのだけれど、

 「……『ヒロ』?」

 ほんの試しに口にしただけでも、強烈な照れに襲われてしまって、気力が続かないのだ。

 電話のことを話す時には平気だったのに、と、机に額を押し付けていると、握り締めたままだった携帯が、手の中で光を放った。



 From:森谷博史

 Sub:明日だけれど


 倉田さん情報だと、少し残業みたいだから、

 ちょっといいものを作っておくよ。

 せっかく、キャセロール鍋を買ったんだし、

 有効活用しないとね。楽しみにしておいて。

 もちろん、うちで一緒に食べて貰うから。


 今日は、何か疲れてたみたいだから、早めに

 休むんだよ。

 それじゃ、また明日。



 「……見抜かれちゃってる」

 いつも通りにしていたつもりでも、きっとぎこちなさが出ていたんだろうことが、文面から窺えて、私は情けなさに小さく息をついた。

 でも、これはいい機会を与えてもらった、かもしれない。

 お店に食べに行く、とかなら、店員さんが来たりして気が散ってしまうかもしれないし、カウンター席でもなければ、必ず向かい合わせになってしまうから、切り出すのも難しい。その点、お家で二人きりなら、さらりと切り出せるタイミングはいくらでもあるだろう。

 ……実行に移せるかどうかは、保証の限りではないけれど。

 確信は持てないながらも、色々と思い切るために、森谷さんにメールを返してしまうと、待ち受けに戻った画面をじっと見据えながら、私は心を決めるように、ひとつ頷いた。



 そして、翌日、午後七時半を、少しだけ過ぎた時刻。

 「森谷さん、あの、ちょっとだけ中を見てもいいですか?」

 コンロの上に置かれている、淡いグリーンの見るからに可愛らしい鍋を前にして、私は漂ってくるいい匂いにそわそわとしながら、そう尋ねていた。

 「もう少し我慢して、あと余熱で十分くらいだから。初めて使うものだし、基本通りにやらないとね」

 たしなめるようにそう言って、シンプルなネイビーのエプロンを、頭からかぶるようにして身に付けながら、森谷さんは口元をほころばせた。

 「後は、もうだいたいセッティングしてあるから、のんびりしてていいよ。完成したら蓋を取るのは任せるから」

 そう言いながら、はい、と渡されたのは鍋つかみだった。この鍋はどっしりとした鋳物だから、どうしても必須になってくる。ミトン型のそれを手にしながら、嬉々として傍のテーブルに目をやると、言葉通りにほぼ準備は終わっていた。

 やや長方形の、ナチュラルな色合いのその中央には、キルトの鍋敷きが置かれていて、ランチョンマットにスプーンとフォーク、それから、丸みを帯びた白の深皿に、同じ色の小皿がセットしてある。食器は彼が元から持っていたものだけれど、布系の小物は二人で選んだから、こうして並んでいるのを見ているだけで、なんだか楽しい。加えて、うちと違って、森谷さんのお家はキッチンが広いので、ちゃんと椅子も二脚、揃えたばかりで。

 だから、こうして眺めているだけでも、残業の疲れが吹き飛びそうなくらい、幸せで。

 「そうだ、今日はツナと卵サラダだけど、ドレッシングどうする?」

 「あ、ええと、フレンチドレッシングがいいです」

 飛んできた声に慌ててそう応じながら、私はミトンをテーブルに置いてしまうと、彼の傍へと駆け寄った。嬉しさについ浮かれてしまったけれど、お手伝いは当然のことだし、何よりも、今日はこれから、重要なミッションを達成しなければならないのだ。

 吊り戸棚を開けて、既に専用になりつつある小さなボウルを取り出す間に、森谷さんがビネガーやオリーブオイルを用意しているのを、横目でこっそりと窺う。

 表紙に「レシピ 基本」と綺麗な字で書かれている、手のひらサイズのメモ帳を開いて、使う分量に目を通しているその様子は、至って穏やかだ。

 ……これなら、仕掛けても大丈夫かな。

 と、そればかりを考えていたのがいけなかったのか、メモ帳をぱたん、と閉じた彼が、こちらにけげんそうな表情を向けてくると、すっと手を差し出してきた。

 「なんでそんなに大事そうに抱えてるの?気にしなくていいよ、僕が作るから」

 「……お願いします」

 しっかりと胸元で握り締めていたボウルを、言われるままに手渡しながら、しまった、せっかくのチャンスだったのに、と、私はちょっと沈んでしまった。

 すぐさま計量スプーンを手に、慣れた手つきで次々と材料を計っている彼の横に立って、泡立て器を準備していると、にわかに不安が沸き上がってくる。

 もしも、選んだ呼び方が、森谷さん的にだめだったら、どうしよう。

 一応、第五候補までは用意した上で、日が変わるくらいまでは携帯を片手に頑張ったのだけれど、どれも口に出すたびに頬が熱くなることだけは、最後まで変わらなくて。

 とにかく、言わなければ始まらないし、さりげなくさりげなく、と呪文のように唱えながら、彼の一挙一動をひたすらに注視していると、今度は、するりと右の腕が伸びてきた。

 え、と思う間もなく、私の肩を包むように回されたそれに、軽く抱き寄せられて。

 「……こうやって、君に何か意識してもらえてるらしいのは、嬉しいんだけど」

 一瞬、頬を合わせるようにして囁かれた言葉に、余計に身を固くさせられてしまって、うろたえながらも彼を見上げる。

 視線を絡めてくると、森谷さんは、かすかに目を細めて、笑って。

 「ここにいる時くらいは、もっと気を緩めてくれるといいよ、里帆」


 呼ばれ慣れているはずのそれが、耳朶を染め上げるかのように甘く、響いて。

 ただ、この人の声に紡がれるというだけのことなのに、何もかもが違って。


 想いを返したくて、もどかしいほどに動かない唇を、どうにか開こうとしているうちに、身を離した森谷さんが、私の手から泡立て器を取り上げてしまって、

 「もう、すぐに出来るから。冷蔵庫からサラダだけ出しておいてくれるかな」

 柔らかい口調でそう言うと、ボウルの方へと向き直って、リズミカルな音を立て始めた。

 声を出さずに頷きを返すと、私は一歩だけ、後ずさりをして。


 「はい、博史さん」


 はっきりと、それだけを彼の背中にぶつけてしまうと、すかさずくるりと踵を返した。

 我ながら怪しい足取りで、何事もなかったかのように冷蔵庫へと向かう。と、二拍ほど置いて、背後からがしゃん、と、何かを取り落としたような金属音が飛んできて、

 「……今、なんて、里帆」

 これまでに耳にしたことがないような、軋みを帯びた声が続いて、私は身を強張らせた。

 怒らせたのかな、と焦って振り返ると、意外にもどこか呆然とした面持ちで、彼は立ち尽くしていて。

 調理台の上に転がった泡立て器と、派手にひっくり返ったボウルを目にして、すっかり慌てふためいてしまって、急ぎ傍へと駆け戻ると、

 「ごめんなさい!あの、もし今のが嫌だったら、他にも練習してた呼び方があるので!」

 いささかならず混乱したことを言いながら、片付けようと布巾スタンドに手を伸ばす。

 と、止めるように手首を掴まれたかと思うと、そのまま強く引っ張られて。

 びくりとして顔を向けるなり、空いた腕が腰に回されて、次の瞬間には、身体ごと熱に包み込まれて、しばし。

 「練習してたって……何を、可愛いこと言ってるんだよ」

 「え、だって、なんというかこれには心構えが必要っていうか、シミュレーションが」

 吐息交じりに耳を叩く声に、纏まりのない言葉しか出て来ずにいると、きつく抱き締められたまま、大きな手に髪を何度も撫でられて。

 深々としたため息がまた響いて、どうしたらいいのかな、と困り果てていると、


 「……もう一度、呼んで。頼むよ」


 初めて聞く、懇願するような声音に、心が震える。

 自分が呼ばれた時以上に、落ち着かなく騒ぐ鼓動を抑えるように、深く息を吸い込んで。


 「……博史さん」


 どうか、いつまでも互いに、特別であれるように。

 決して、このひとにしか向けることのない想いを込めて、私は望まれるままに、大切なその名前を、静かに唇に乗せた。



 それから、鍋の能力を存分に発揮した、美味しい煮込み料理を二人でいただいて。

 シンクの前に並んで、次々と手際よく洗い上げられていく食器を、幸せな気分で綺麗に拭き上げていると、

 「ああ、そうだ、里帆。他の呼び方も、全部聞かせて」

 前触れもなく告げられた、驚くほどにきっぱりとした要望に、一瞬、思考が止まって。

 内容が理解出来た途端に、あのリストの存在を思い出して、私はさっと顔を上げた。

 「ぜ、全部、ですか!?無理です、というか絶対に止めておいた方がいいです!」

 「どうして?練習してたくらいなんだったら、口にするのも簡単なはずだろう?」

 そう指摘されて、あ、と思わず声を上げたのに、瞬時に何かを察したらしい彼の瞳が、探るように細められたかと思うと、持っていた深皿を取り上げられて、


 「君がそんなことを言う以上、何もない、ってことはなさそうだな。ほら、もう諦めて」


 それ以上、ひとことも弁解する余地も与えられずに、ソファへと連れて行かれて。

 今日が金曜日で本当に良かった、と思わされるほどの時間を掛けて、相当に仮借なく、覚えている限りの全てを聞き出されてしまった。

 ……せめてもの救いは、あのリストを家に置いてきた、ということだろう、多分。

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