第20話 仲良きことは

 この声は?

 ああ、わかってる。俺の主観的時系列ではたった数日前に聞いたばかりだ。

 このくそったれな洋館を脱出したら、すぐにでも行かなければならない時と場所にもいるはずの、背中からナイフで俺の内臓を引っかき回した女。

 手がゆっくり離れたので俺も同じくらい静かに声の主に顔を向ける。

「さっきの問題。残念だけど間違ったみたいね」

 と朝倉涼子は言った。

 北高のセーラー服を着ているところまで知覚したが、次の瞬間、羞恥心ゼロのハイキックが俺の鳩尾を直撃した。白いふくらはぎが視界から消えるのと同時に、俺はドアに叩きつけられる。立ち上がる間もなく、跳躍付きのヒザ蹴りが俺を見舞う。

 ドスン、と重い響きを背後に残して俺は辛くもよけた。勢いのついた朝倉はそのまま背後のドアに大きなへこみを付けて動きを止めた。

 あれを頭で受けたら、間違いなくここから脱出できそうだ。行き先はあの世だが。

「だいじょうぶ。殺さないから」

「ちょっとまて! おまえは本当に朝倉なのか」

「私は私よ」

 ぴょこん、と両足をそろえて俺の前に立った。長い髪が揺れる。ごく自然な愛らしい笑顔だが、信じる気はこれっぽちもない。

 もちろんこいつは本物の朝倉なんかじゃない。去年の五月に完全消滅したはずだ。決着をつけなきゃならないほうの朝倉は別の時空にいる。

 俺のこいつに対するわだかまった記憶と、おそらくは意識不明の長門から引き出した情報で再構築されたニセ端末に違いない。

 俺たち全員の偽者を寝室に侵入させた連中だ。それくらいは簡単なんだろう。

 だから、こいつは俺の知っている以上のことを知らないし、話せないはず。

「朝倉、」

「だめよ。まだお仕置きは終わっていないから」

 軽々と俺を持ち上げたかと思うと、俺の真正面の壁が急接近して激突した。一瞬の意識の途絶のあとは、ベッドでバウンドして、床に落ちる。起き上がれない。

 俺の目の前で、朝倉はきちんと両膝をついてふわりと座った。

「殺したりはしないわ」

「それを聞いて安心したよ。でだな……」

「うるさいわよ」

 とくに語気を荒げるわけでもなく笑みを俺に返した。

 体力的にこいつに勝つ自信はない。だが、この朝倉が俺の記憶から再構成されたとしたらまだ望みはある。

 あの頃を想像しろ。

 誠実で、まじめでクラス委員長。統率力があって、しかも可愛かった。

 ちょっと俺たちから距離を置いていたけれど、話すときはこっちの言うことにきちんと応対していた。

 そう、こいつは俺の心から取り出しただけだ。俺が創ったのと同じだ。

 だったら思い出せ。トチ狂う前のクラス委員長を。

 胃をえぐるような痛みと背中の打撲傷がじわじわヒットポイントを奪っている。

 殺しはしないと言ったが、それも怪しくなってきた。

 ベッドに震えながら片手をついて、なんとか起き上がる。

「朝倉、聞いてくれないか」

「だまってて」

 うなりを上げた拳が、鼻にきれいにヒットして俺は鼻から血を散布しつつスプリンクラーみたいに回転していた。

 必死で身体を立て直すが部屋の隅に追い込まれてもうあとがない。

「……おまえ、覚えてないか」

 覚えているはずだ。俺の記憶から創り出されたんだから。

「あのとき、おまえ言ったよな? ハルヒがクラスで孤立するのは良くないって。みんなが何か伝えることがあったら俺を通じてハルヒに伝えるって、な?」

 鼻血が唇をしたたって、床に垂れている。朝倉は薄く笑みを浮かべたままだ。

 そしてじりじりと俺との距離を詰めている。

「そうだったの?」

「俺はその通りにしてきた。ほかの連中のことをハルヒに伝え、ハルヒの言葉を伝えたり、実行したりしてきた。おまえの言うとおりにな」

 俺がこいつを恐れるのはあの事件で危うく殺されかけたからだ。

 そしてとどめの一撃が記憶の奥底を恐怖で染め上げている。しかしいつまでもと言うわけにはいかない。俺はこの先ずっとそんな亡霊に支配されてたまるか。


 俺の中でこいつをもう一度、作り替えるんだ!


 朝倉の動きが止まった。

「おまえはハルヒを除けばクラスで一番の美人だった」

 なにいってんだ俺。アタマつかえ頭を。

「それだけじゃない、成績も優秀で、女子にも男子にも人気があって、委員長に推薦された」

「そう、だった……?」

 朝倉の動きが止まった。

 こいつは俺が思っている朝倉通りに行動するはずだ。

 多少の動機付けはこいつを作ったやつらが埋め込んだらしいが、オリジナルとの共通点は外見だけじゃないらしい。

「こんなことをするおまえじゃないんだ。本当は。そんなヤツじゃないんだよ」

「私、あなたに罰を与えないといけないって気がするの。なぜかしら」

「それは俺の話を聞いてからでもいいだろう」

 殴られるのを覚悟で朝倉に接近する。なんとか決着を付けないと。時間も気になる。

「正直に言うとだ、俺も少しは気に入っていたんだ。誰だってそうだろう。そうじゃなきゃ転校したときにあれほど大騒ぎにならなかったろう。みんなから好かれていたんだよ。お前は。谷口みたいにファンもたくさんいた」

「そう、……なの?」

「おまえは混乱していたんだ。上からの指令かなんか知らないが、任務の達成を焦る気持ちと、優しい人格があらそってトチ狂ったのさ。きっとおまえでも少しは苦しんだんじゃないかと思ってる。今は同じようになったやつをもう一人知ってるから」

 こっちのほうは世界をまるまる創り出してしまったが。

「私……。わからない。あなたの言ってること」

 朝倉の上衣がふわっと動いたかと思うと、俺は人生初の往復びんたを経験した。

 しかもマシンガンのようなビートでツーセットだ。

 これって一発目より最後の一打のほうがインパクトあるんだな、とか言っている場合じゃない。

 ぶっ倒れている俺の足をまたいで、振り向きざま、俺の大腿部を軽く蹴った。

「これでお仕置きはおしまい。じゃあね」

 あのときと変わらない笑顔。そのままスカートをひるがえして、ふっと廊下にでていった。

 もしかすると、俺は朝倉を復活させてしまったのか。まだもう一人のこってるんだが。ここから脱出しないとそれも出来ないか……。

 そこで意識は途切れた。



 目を開けると古泉の顔が覗き込んでいた。

「大丈夫ですか」

「見りゃわかるだろ。古泉はなんともないのか」

「廊下の奥に制服姿で走っていく女性が見えましたが、あれは?」

「詳しくはあとで話す。とにかく戻ろう。もう時間は残ってない」

 俺は古泉の肩を借りてよろめきつつエントランスホールに降りた。もうとっくに次の問題は始まっていた。しかし、朝比奈さんとハルヒはスクリーンの前で呆然としてしている。

 スクリーンの右側に難易度が増しているとは思えないシンプルな数式と、右側に選択肢が六つ。カウントダウンは残り一時間を割っている。

「なにやってんだ? もうはじまってんじゃないか」

「わからないわ」

「えっ」

「答えがわからない。みくるちゃんにもあたしにも」

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