第7話 拙速と巧遅

 つぎに左側のスクリーンにあらわれたのは、俺がまだ習ったことのない問題で記号の意味すらわからない。

「はい、楽勝!」

「あっ!」

 古泉が声を上げた。検算を待たずにハルヒの右手が画面に触れたからだ。カウントダウンは七秒しか進んでいない。エントランスホールに響き渡る音でまたも正解なのはわかったが……。

「早く回答しすぎです」

「ごめん、古泉君。でも定積分なんて簡単すぎるわ」

 問題は残り三つだが、こんな調子で簡単に終わるんだろうか。


 休む間もなく、ホールに響き渡る反響音とともに、容赦なく左側に数式、右側に選択肢が五つ現れた。

 カウントダウンは六〇〇にかさ上げされている。

「難易度が上がったみたい。ちょっと時間がかかりそう。でも、この程度であたしたちを試そうなんて、なめてんのかしら。古泉君、メモ帳とペンを貸して」

 ハルヒは古泉からメモ帳を受け取るとソファに向かった。ソファの前にある小机にメモ用紙を広げ、すぐさまよどみなくペンを走らせている。

 ニセ古泉に誘導されたハルヒは、問題を解けばここを出られると単純に考えているらしい。

 古泉は珍しく真剣な面持ちで画面に見入っていた。

「ちょっとどころではありません。理数クラスの僕でも二年の後期に習う問題です」

 ハルヒに古泉は声をかけた。

「涼宮さんは数Ⅲをまだ習っていないのでは?」

「このあいだ、古泉君が急なバイトで帰ったでしょ? イライラしてたから忘れてった参考書を一通り読んだわ。ヒマだったし」

 話ながらも開いたメモ帳に前回を上回る速度でペンを走らせている。

 そういえば去年の秋、朝比奈さんと俺のデートもどきで、かなりハルヒのフラストレーションをあげたはず。それで数学のテキストを一冊、習得してしまうとは。

 古泉はスクリーンの記号列を見つめる俺にささやいた。

「これはまずいかもしれません」

「今のところ順調じゃないか」

「難易度が跳ね上がりました。先ほどの解答が早すぎたからだと思います。おそらく、解答のスピードで難易度が調整されるんでしょう」

「早く正答すると問題が難しくなる。逆に言えば、次の難題で誤答する確率が上がる。そういうことか?」

「ですから、制限時間いっぱいまで使うべきだと思います」

「できた! 検算お願い。今度はあたしがカウントダウンを見てるから」

 小走りでソファから走ってきたハルヒはメモ用紙を古泉に渡し、額の汗をぬぐった。

「なんか自分でも嘘みたいに快調に解けたわ」

 ハルヒの顔はほてっていて、バレーボールのフルセットをこなしてきたばかりのようだ。

 そういえば、なんとなく蒸し暑いような気がしてきた。

 ハルヒがスクリーンを眺めているのをおいて、俺は古泉の横に座ってメモ帳をのぞき込んだ。

 ハルヒはメモ帳の小さい紙面に数式をびっしり書き殴っていた。最初の二行目くらいからもうわからない。

「どうした古泉。おまえでもわからないのか。理数クラスだろ」

「ところどころ、凉宮さんの頭の中で計算している箇所が端折られているせいか、理解に手間取ります。ですが、順を追っていけば僕でもなんとか」

 古泉はメモ用紙の記号に一つ一つペンでチェックを入れていく。

 ハルヒから渡されたメモ用紙の数式を目で追っているが、突然、古泉の表情が変わった。チェックスピードが急に速くなる。

「かなり難渋するかと思っていましたが、解答への道筋がはっきり見えてきました」

 古泉はそのまま素早く式の展開にそってチェックを入れている。さっきと違ってまったくためらいがない。

 ハルヒが叫んだ。

「古泉君! あと二〇秒!」

「正解、です」

 すかさずハルヒはスクリーンにタッチする。

 正解の銅鑼がなった。これで閂はのこり二つだ。

 次のカウントダウンは九〇〇のままで始まったが、問題が出てこない。

「古泉君、問題が出てこないわよ」

「休憩時間、でしょうか?」

 一定の回数ごとに休憩があるらしい。とすると次回開始にはまた銅鑼が鳴るから、スクリーンを凝視している必要はないだろう。俺たちは長門が横たわるソファに向かった。


 ……暑い。

 シャンデリアのぎらついた光が目に障る。花弁に似たシャンデリアのライト一つ一つが微妙に揺れているように見える。窓も扉もしっかり閉まっていて風が入り込む隙間はない。たぶん、俺が疲れているんだろう。

 エントランスホールはもっと寒かったような気がする。いや、ホールの気温が上がったと言うより、俺たちの体温が急に上がったのだろうか。

 ハルヒは汗をシャツの袖でぬぐいながら言った。

「ほんとにこんなんで扉が開くのかしらね?」

「実は、まだ凉宮さんに話していないことがありまして、」

 なぜか古泉は一瞬俺に目をやってから話し始めた。

「ここに集まる理由ですが」

「それはさっきも聞いたわ。時間の流れが違うんでしょ? ここから厨房へ行ったり二階の寝室に向かって歩いて行くと、時間の差が広がるって。有希と古泉君が計ったんでしょ? 違うの?」

 古泉はまだハルヒに話していないはず。するとあのニセ古泉か。

「ちょっと信じられないけど、今は有希を病院に連れて行くのが最優先だし」

「もちろんです」

「ところで古泉君、あたしだけかしら? なんか思考の流れが明快というか、さっきは我ながら快調に解けたわ。キョンはどうなの?」

 大きなあくびをしながらハルヒが訊いた。

 俺に頭が良くなったような実感はない。

 だがうっすらとした飢餓感がある。汗が額からこぼれ落ちた。

 なんか息が……ひどく苦しい。


 とすん、と音がして、朝比奈さんが床に倒れた。

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