第8話 走れ

「朝比奈さん!」

「みくるちゃん!」

 駆け寄ろうとしたが足に力が入らない。ハルヒが俺を追い越して朝比奈さんを抱え上げる。

 朝比奈さんは浅い呼吸を繰り返している。ほおはすっかり上気して、風呂上がりのようだ。白いロングTシャツを透かして胸の……いかん、何を見てんだよ俺は。

「ご、ごめん……なさい、急にめまいが……」

 かろうじて、朝比奈さんは言った。

 古泉とハルヒで長門の横のソファに朝比奈さんを横たえる。

「いったい、これどうなってんのよ」

 俺に言われてもな。しかし、長門に続いて朝比奈さんまで攻撃しているのか。

「もしかすると」

 古泉もハンカチを出して汗をぬぐっている。息も荒い。

「彼らの目的が人間の能力の観察だとしたら、その極限まで試されるでしょう。そのため我々の脳に手を加えても不思議はない」

「脳は酸素と糖分の大部分を消費しています。効率化されたため、要求量が多くなっているのでは。つまり、低血糖になりかけです。何か食べないと危険です」

「効率化ってなんだ」

「先ほどの問題を解いている最中、突然頭の中が明快になりました。習ってもいない問題を理解できた」

「あたしもだわ。イライラがないっていうか、いつもよりはっきりした感じがしたけど」

「よくわからんが、こっちも倒れそうだぜ」

 勝手に人の頭に手を入れておいて、そこまで考えが回らないとは。ここの連中はあまり人間を知らないらしい。

 ハルヒが、床にまとめてあるスキーウェアをごそごそ探っている。

 取り出したのは板チョコが一枚。素早く包装をはがして、チョコを細かく割っている。

「みくるちゃん」

 答えはない。ハルヒは小さく口を開けた朝比奈さんの口にチョコの小片をいれてやった。

「古泉君? ほら、キョンも」

 残りを三つに割って、自分は最後の小さいかけらをとって一口で食べた。こんなかでいちばん頭をつかってたのはこいつなのに。

 ハルヒは長門の氷まくらをそっと持ち上げた。

「キョン、もうすっかり水になってるわ。交換しないと」

「もう一つ問題があります。メモ用紙を使い切ってしまいました。これから難易度が増大すれば暗算というわけにもいかないでしょう」

「そうね。あたしでも今くらいのだと暗算は無理」

 チョコは俺の口の中で一瞬で溶けたが、息苦しさは次第に増して、もう肩で息をしているような感じがする。

「あと二問あります。どれくらい時間がかかるわかりませんが、おそらくカロリーはこれだけでは足りないでしょう」

「キョン、キッチンから何か食べるものを持ってきて、血糖値をガン上げるようなもん。オレンジジュースとかがいいわ。それと……それと、なんだっけ? ……早くいきなさいよ!」


 倒れそうなのは俺だって同じだろうが!

 俺はキッチンまでの廊下をまたもや全力疾走した。文字通り、最下級団員としてパシリそのまんまだ。

 みんなでお茶を飲んだ食堂の入り口を通り過ぎて、廊下の奥、キッチンのスライドドアを開けた。

 中に入った瞬間、足から力が抜けた。だめだ。目がかすむ。

 一分以内に到着した自信はあるが、からだの脂肪やタンパク質がガリガリと燃えているようなイヤな感じの冷や汗でセーターが気持ち悪い。まず何か食わないと俺もやばい。

 俺は四つん這いのまま、冷蔵庫にしがみついた。氷まくらを取り出したときよりずっと重く感じる冷蔵庫のドアをなんとか開けた。

 前に来たときはキャベツ玉の上にアイスパックが乗っかっていた。今度はどうだ?

 ドア側のホルダーにオレンジジュースの五百ミリリットル紙パックが四つあった。とりあえずこれでカロリー補給だ。食料を抱えたまま、俺が廊下で意識不明じゃ全員死亡だからな。

「う、うまい」

 オレンジジュースってこんなにうまかったか?

 冷蔵庫内には銀器の大皿にスモークサーモンのサンドウィッチがひと山、ご丁寧にラップで一つ一つ丁寧にパッキングされて冷気を浴びている。

 ハルヒと朝比奈さんが作ったやつではなさそうだ。二人が作ってたのはミックスホットサンドだったし。

 冷たいサンドウィッチの大皿を調理台に置くと、背後で冷蔵庫のドアがドスンと閉じた。

 サンドウィッチに食いつきながらあらためて周囲を見渡すと、広いシンクの横にステンレス製の水切りかごがある。あれに荷物を入れて運ぶのがいいだろう。

 厨房は高火力の業務用コンロが四台並んでいて、その奥には大型食器洗い機が一台。壁のフックには磨き上げられた赤銅色の鍋やフライパンがぶら下げてある。

 俺が開けたのとは別に巨大なスリードア冷蔵庫が奥にもう二台ある。一流ホテルの調理場、といっても通じるだろう。

 ここを設計したやつらはどこか時代設定を間違えているんじゃないか。

 あまりに演出が過剰、という気がする。長門有希の作り主と同等の存在なら、数百年オーダーなど誤差、なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る