第13話 罠

 朝比奈さんの頭上に鋭くとがったつららのような結晶体が浮いていた。というか、これは落下中じゃないのか。

 朝比奈さんがまさに頭上の異変に気づいた瞬間、凍り付いたかのようだ。

 絶望の表情で朝比奈さんは口を開けている。おそらく叫んでいるに違いない。

「なんてことしやがる!」

「え?」

 ハルヒも紙面から顔を上げ、宙に浮かぶ結晶を見上げた。

 この早さだと時間が尽きる前に、朝比奈さんに直撃してしまう。ハルヒもそれと察したようだが、きつく口を結ぶと黙ってペンを動かし始めた。

 作業の手を休めれば負けになる。しかし俺は何も出来ない。

 しばらくしてハルヒは言った。

「最終論理ブロックを精査して、古泉君」

 受け取った古泉は熱狂的集中でシャーペンを紙に走らせている。

 普段クールなこいつからは想像も出来ない集中力だ。まるでだれかに操られているんじゃないかと思ったほどだ。

 チェックを古泉にまかせている間、ハルヒは朝比奈さんの映像に近づいていった。

「もう少しの辛抱よ。みくるちゃん」

 残り三分。

 しゃがみ込んだ朝比奈さんの映像のすぐ上に結晶体があって、頭を抱えている手の甲に切っ先が沈んでいく。ルビーのような小さな赤い点がうまれ、次第に大きくなって、やがて流れになった。

 次第に深くめり込んでいく結晶体……。朝比奈さんの目の縁に涙のつぶががゆっくり盛り上がっていく。

 ハルヒはスクリーンの前に移動していつでもタッチできるよう待機している。

「まだか古泉!」

 古泉のペンが止まり、深いため息と共に言った。

「間違いないようです」

「つまり、独立した集合はあり得ないのね?」

「ええ、すべてのマンデルブロ集合は連結です」

 ハルヒは慎重に二つある選択肢の右側にタッチした。

 息がつまるような間をおいて、歓声を上げるかのような銅鑼の音が響き渡った。残る問題は……一つだ。


 朝比奈さんがくたりと床に横たわっていた。

「朝比奈さん! がっ!」

 俺をはねのけたハルヒは朝比奈さんを抱きおこした。朝比奈さんの腕に血が滴っている。

 ハルヒは朝比奈さんの手をとってすばやくハンカチで縛った。たちまちハンカチが赤く染まっていく。朝比奈さんはぐっとこらえているが、涙は隠せない。こんな痛みを経験したことがないんだろう。

「みくるちゃん、ひょっとして答えを知っていたの?」

「ええ。昔何かで読んだんです。最初のうちはみんなの姿が見えて、声も聞こえていたけど、でもだんだん暗くなって、涼宮さんがはげましてくれたのが最後……」

 やつらは俺たちの弱みを知っている。なぜかそんな気がした。

 スクリーンはリセットされた。今度は三千六百秒からカウントダウンするが問題は出ない。長い休憩時間、なのか。

 朝比奈さんを座らせたあと、ハルヒは長門の横にひざまずいた。長門の乱れた髪を直してやっている。

「有希、かならず助けるから頑張んのよ」

 ふりかえってハルヒは言った。

「だんだん問題の難易度が高くなってきたわ。こっちの消耗もハンパない。キョン、食料調達よ。念のため今回はもっと多めに運んでちょうだい」

「わかった」

「それから念のため紙とテープ、定規も必要だわ。一枚の紙に納まりきらないから」

 ハルヒは俺が奥に行けば何でも手に入ると信じて疑わないようだった。

 夢だと信じ切っているのかもしれない。

「僕もキッチンに行きます」

「おまえのほうが疲れてんじゃないのか」

「いえ、大丈夫です。僕も入手したいものがあります。休憩時間も余裕がありますから」

 古泉はゆっくり立ち上がった。

「向こうの時間で十分以内なら、次の開始時間には間に合うはず」

 俺と古泉は三人をあとに残し、厨房へ急いだ。



 今日で三回目の全力疾走だ。

 古泉はずっと床にすわっていたせいか、遅れ気味についてくる。

 閉めたはずのキッチンのスライドドアから光が漏れていた。中はさっきと変わらない。一枚板を削りだした調理台の上に、銀器の大皿が一枚載っていて、広いシンクの横にはステンレス製の水切りかごがまた出現していた。

 古泉が追いついて、キッチンに入ってきた。

 こいつはここに来るのが初めてだから、室内を見回している。

 俺は入り口側の巨大冷蔵庫のドアを開けた。中には薄い包装紙に包まれたハンバーガーが大皿にひと山、リンゴジュースのパックが二つ。それとミネラルウォーターのペットボトルが入っている。

「おそらく次は長期戦になる、という涼宮さんの読みは当たったようですね」

「たぶんな」

 とりあえず古泉と一緒に食料品を全部、シンクの水切りカゴに入れた。

「おまえも何か欲しいものがあったんだろ」

「ええ。どうやったら出てくるんですか」

「目をつぶって、念じて、開けゴマ! ってやつだ」

「胡麻?」

「悪い。冗談だよ。おまえはちょっと杓子定規すぎるぜ」

 古泉は俺を信じたのかどうかわからないが冷蔵庫にもたれて目をつぶった。

 しかし冷蔵庫の扉を開いたがなにもない。いや、白い冷気に半分隠れて、黒い手帳のようなものがおいてある。

 古泉が取り出すと小さな関数電卓だった。

「なんだ、電卓か。もっと問題を解くのに役立ちそうなもんはないのか」

「僕も限界に近いので、ノートパソコンと、数理解析ソフトウェアを念じましたがダメでした。どうやら、この電卓以上の補助は認められないようですね」

「おっと、まだある」

 俺は冷蔵庫に額をつけて目を閉じた。

 冷蔵庫の重い扉を開くと、上質紙の束が一つ、定規とかハルヒご所望の資材が入っていた。

「これだけあればいいだろ。今度から紙は裏表使えばいいし」

「床に座って作業するのも限界ですし、テーブルのようなものがあれば良いのですが」

「そりゃ無理だろ」

 古泉とふたりで冷蔵庫から文房具と紙束をカゴに入れた。

 俺はもう一度、調理台の荷物を見渡した。とりあえずこれでいい。ちょっと長居をしすぎたかもしれない。

「どうした古泉」

 動きを止めた古泉に、俺はぎくりとした。もしやこいつも映像化したんじゃないかと思ったからだ。しかしそうではなかった。

「閉鎖空間が発生したようです」

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