第12話 虚数空間の間隙
そんな俺たちの決意をあざ笑うように銅鑼がまた鳴り響いた。前より残響が耳に残る。
画面の閂はあいかわらず二本ある。前の回答は棄却されたらしい。残り時間は三千秒。五十分だ。これが充分な時間かどうかわからない。
問題がゆっくりと左側に浮かび上がっていく。
「やるしかない。だけど」
と言ってハルヒは朝比奈さんに向き直った。
「みくるちゃん、さっきどうして答えが違ってるとわかったの?」
「えっと、……あたしもちょっとだけ理解力が増したんだと思います。それでさっき涼宮さんたちが投げ出した紙を見ていると解答が浮かんだんです」
朝比奈さんはうつむいたまま、消え入るような声で言った。
ほんとうだろうか。
「禁則解除」なのか。するとこれが朝比奈さんの本当の能力?
だが、ハルヒには今の言い訳を信じてもらうしかない。
俺には何の変化もない。
こいつらだけがテストされているとは思えないんだが。
記憶にない言葉は思考の中に現れない。当然だ。語彙が少なければ、頭の良さも効果的に表にでない。いくら思考速度が増してもだ。
本を読むか、語彙が豊富な人間と会話して増やすしかない。
数学はこれとはちがう。組み立て方さえ理解できれば、基礎的概念から違う概念へと、自分で積み上げていけるんじゃないのか。ガラにもなく、そんな考えがふっと浮かんだ。
朝比奈さんの説得力のあまりない言葉にもハルヒは納得したらしい。
「じゃ三人でやりましょう。今は問題を解くのが先決」
「俺はどうすりゃ」
「あんたは食料と水がなくならないように、時々キッチンに走ってくれればいいわ。それと用紙もね」
「そりゃそうだが、頭をいじられているのはおまえらだけじゃないだろう。俺だってなんか手伝えるかも」
「涼宮さん、ここは総力戦で行きましょう」
「わかったわ。でもキョン、食料係は変わらないからね」
扉スクリーンの左上に横倒しにした黒い雪だるまのような映像が現れた。黒い雪だるまの周囲をおびただしい小さな触手が細かく伸びている。
その下には俺でもわかる簡単な二次方程式と、右スクリーンは果たして人類の解する言語かどうか定かじゃないが、論理記号? のような羅列が整然とならんで、ゆっくり上にスクロールしている。そして、最後に選択肢が二つあらわれた。
「この画像は……マンデルブロ集合、ですね」
「式も間違いないわ」
「答えが二つなら正解は半々だな」
ハルヒはじろっときっつい視線を飛ばした。
「あんたは、みんなの命で丁半バクチでもするつもり?」
ハルヒはしばらく右側の文字列を眺めていたが、
「問題の真意はたぶん、すべてのマンデルブロ集合が連結であるか否か。だと思う」
「全部つながっているようにしか見えないが」
「それを証明しろってこと。そして正しい答えを押さなきゃならない」
残り四十二分。
「それならあたし……」
と朝比奈さんが言いかけて、動きが止まった。持っていたシャーペンが手から落ちた。だが俺にはシャーペンが手を突き抜けたように見えた。
「みくるちゃん?」
ハルヒが朝比奈さんの肩を揺すろうとした手がすっぽ抜けた。
すっとハルヒの体はかすかに輪郭がぼやけた朝比奈さんの姿を通り抜けてしまった。あとには質感たっぷりの3D朝比奈映像があるだけだ。
いや。ものすごくゆっくり動いている。朝比奈さんの周りだけ極端に時間が遅く流れているんだろうか。苦しそうに何かを言いたそうにしている。
「いったいなんなの?」
「おそらく、朝比奈さんは知識としてこの答えを知っているのでは。だから回答は許されない。自分で論理的に導いたものではないからでしょう」
「ってことは、やっぱり自分たちで解かないといけないのか」
「ええ、彼らが出題した瞬間に、回答者が知識から答えようとしているのか、問題を解いて答えようとしているのかが判別されているのでは?」
「じゃ、朝比奈さんは?」
「この問題が無事に解ければ解放されるかも。ですが誤答すれば」
もういい。きっと懲罰として結晶体が降ってきたりするんだろう。
罰は別の人間に降りかかる。間違った回答者はそれを見て苦しむわけだ。俺たちを観察している連中がマジキチだってのはわかった。
「問題を解くしかないわね」
俺たちはスクリーンの前に立った。
「ここは背理法で攻めるわ」
「なんだそりゃ」
「連結であるという証明より、連結されていないと言う前提で証明を進めてそれに矛盾が生じれば、連結であると言うことですよ。僕も背理法で進めたほうがいいと思います」
「まず連結されていないとすれば、この方程式の発散が任意の虚数空間座標で必ず発生するんじゃない?」
「確かにそうですが、まずは領域を限定的に……」
即座にさっぱりわからない。
二人の会話は俺の知的領域をあっさりこえて続いているが俺には呪文にしか聞こえない。ハルヒと古泉はしゃがみ込んで、紙に書き殴り始めた。
俺は長門のいるソファに向かった。
出血はとまったようだ。床の血だまりも消えている。ソファと小さな机が完璧に復元されていても俺は驚かなかった。
あれだけの衝撃と爆発があったのに窓ガラスはひび割れ一つ無く、外は雪風が渦を巻いては、固い雪片をばちばちとガラスに吹きつけている。
長門の額に手をやると冷たかった。
長門は俺たちにすべてをゆだねて眠っているかのようだった。床に丸まっていた毛布を広げてかけてやる。
毛布からはみ出した長門の手をちょっとの間、握ってやった。
なんだかこうしてやってもいいような気がしたからだ。傷口だってまだ完全修復されてはいない。
「必ずここから出ような。長門」
立ち上がった俺は、カウントダウンを監視するためにスクリーンに移動した。持ってきた食料はほとんどない。またキッチン・ダッシュか?
俺が廊下に向かいかけると――苦痛に顔をゆがめた朝比奈さんが天井を見上げていた。
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