第24話 脱出

 距離にして、あの廊下でキッチンまで走ったよりさらに奥、また右に折れる曲がり角がある。

 角を曲がったとたん、ハルヒにぶつかった。

「解けたわ!」

 いきなり俺の真正面に飛び込んできて叫んだ。

 しわくちゃの紙を握りしめている。解答用紙らしい。よくわからない記号が一杯書いてある。

「話はあとで聞くから、時間が……」

 言い終えるより早く、ハルヒは元来た道を疾走している。

 おまえ一人で扉を開けるなよ。みんな頑張ったんだから。

 うしろには憔悴しきった古泉がいて、朝比奈さんを背負っている。二人とも顔色が悪い。

「古泉」

「何でしょう」

「おまえ、本物だよな」

「自分にこんな数学能力があるとは未だに信じられませんが、自分が偽者と言う感覚はありません」

「朝比奈さん?」

「あ、彼女は問題を解いた瞬間に気を失ってしまって……」

 もう古泉は疲れ切っていたから、代わりに俺が朝比奈さんを玄関まで運ぶことにした。

「キョン君!」

 俺が朝比奈さんを抱えると同時に朝比奈さんはぱっちり目を覚ました。

 みるみるうちに頬を赤らめる。

「い、いいです、自分で歩けますっ」

 くそ、もうちょっと眠ってくれててもいいのに。古泉だけ得しやがって。

 俺は仕方なく朝比奈さんをそっと壁により掛からせてあげた。まだ彼女の足もとはおぼつかない。

 古泉はかまわず先に進んで、やがてふっとその姿が消えた。廊下の中間地点を過ぎたのだ。

 朝比奈さんの足が止まった。

「あたし、ここから出たくない気がする……」

「なぜです」

 と言いかけて俺は理解した。

 朝比奈さんは未来人としての知識や能力をほとんど封印した状態で、これまで俺たちのそばにいたのだ。それは俺たちが両手両足にギブスをしているも同然……それ以上の激しい苦痛を伴うとしたら?

 朝比奈さんは、俺の手をきつく握りしめている。

「キョン君」

 朝比奈さんは、俺の肩に頭を寄せてつぶやいた。

 いつだったか大人の朝比奈さんが夜の公園でそうしたように。でも今回は明瞭に聞き取れた。

「いつまで続くの?」

 朝比奈さんにわからないなら俺にわかるはずもない。

 ちょっぴり涙をこぼして、ごめんなさいと朝比奈さんは言った。


 俺は朝比奈さんに肩を貸してできるだけ急いで歩く。まさかハルヒが俺たちをおいて出て行くとは思えないが。

 ハルヒは夢だと思っているらしい。でも、ここで朝比奈さんから得た数学の知識が、歴史を変える何かをハルヒに作らせるんじゃないのかと言う気もするし、洋館の主はなぜ、統合情報思念体ですら躊躇したハルヒへの干渉を一歩踏み込んで行ったのかも謎だ。

 これは、大きなもしかして、の話だが。

 あの朝倉が暴走したのが実はやつらのしわざで、もうずっと以前から長門の親玉と連中との熾烈な戦いが始まっていたのだろうか?

 なにもかもわからない。一介の高校生にわかるはずもない。

 朝比奈さんの発言も気になる。

 禁則が外れた朝比奈さんは、長門を除けば俺たちの中で唯一の時間理論のエキスパートだったはず。しかし結果的に俺と古泉に加えられた懲罰は彼女の誤答が原因なのだ。

 これは朝比奈さんの時間理論の欠陥を示しているのか。

 いま、朝比奈さんに聞いてみても答えてくれないような気がする。うつむいたまま何もしゃべってくれないからだ。

 そして禁則が再び、彼女の頭脳に枷をはめてしまえば、いつもの愛らしい萌え要素満開のちょっぴり子供っぽい朝比奈さんになってしまうのだろうか。

 でも、もしそれが“本来の朝比奈さん”が望まない、壮絶に苦しい状態なのだとしたら? 

 これは絶対に忘れてはいけない。


 玄関ホールのスクリーン前ではハルヒが長門に質問を投げまくっている。

「ほんとに大丈夫? なんともない? 痛くないの? 寒くない?」

 長門は問題ないと小さくつぶやいていたが、ハルヒは落ち着かない。

「全員脱出するぞ」

「キョン、それは団長のあたしが言わないと駄目じゃない」

 画面にタッチする前に全員でスキーウェアとブーツをはいた。

 たとえ正解だろうと不正解だろうと、俺たちはここを出て行くつもりだったからだ。


 ハルヒがスクリーンに手を伸ばした。


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