佐賀 二日目

 凪【なぎ】

風がやんで、波がなくなり、海面が静まること。

朝凪や夕凪。

「べた―」⇄「時化」

(コトバンクより)


 海沿いだというのに空気はしんと静まり返り、テントの外からは波の音、葉擦れの音、虫の声なんかがかすかに響いてくる。

 眠れない。

 暑すぎる。

 ただでさえ風のない日に、ほぼ風を通さないテント。つまりサウナ。これはもうサウナ(芬: Sauna)。フィンランド式蒸し風呂。

 さらにはお世辞にも通気性がよいとは言えない長袖長ズボン。なんとか目を閉じ、寝ようとすること一時間半……自分の肌をつるりと撫で、いつのまにか危険な量の汗を放出していることに気づき、テントから這い出た。


 2Lペットボトルで買った水とお茶をがぶ飲みして、塩タブレットを舐める。辛うじて頭は働いている。座ってぼうっとしていると、少しだけ潮風が吹いているのを感じた。あまりの暑さに感覚が鋭敏になっている。

 隣のテントを見れば、とっくにフライシートを取っ払い、メッシュシートのみの状態になっている。遠くの水場に灯っている明かりに照らされ、テントの中で半裸の男が芋虫のようにうごうごと蠢いているシルエットが見えた。あんな風通しのいい姿になってなお寝られないのだから、私の服装で寝られるはずもなかったか。

 耳音に蚊の羽音がして、私は少し考えた末にリュックからタオルを取り出した。長袖長ズボンであることが幸いした。顔をすっぽりタオルで包んでしまえば、肌の露出箇所はほとんどなくなる。さあ蚊たちよどっからでもかかってこい、と言ったそばからまた耳元でプウンが鳴り響き、私はぎゃっと叫んだ。心臓に悪い。

(追記:家に帰ってからしばらくして、足首や手の指が猛烈に痒くなった。ズボンの裾と靴下の隙間、手の指、その他ほんのわずかに露出していたであろう箇所を集中的に責められたのだ。次は全身タイツで行くしかない)


 夜空を眺めていると明かりが少なく空気がきれいなおかげで星がよく見える。天の川だ。あれは天の川じゃないか? 天の川って実在したんだ……。

 あれがデネブアルタイルベーガと小声で歌いながら星を探したが、ここまで多いとどれがどれだかわからない。なんとも贅沢な悩みである。とはいえ一際明るい星というのは限られてくるはずだが……残念ながら星座早見盤などというおしゃれグッズを持ってきているはずもない。ので、ググった。なるほど、あれが夏の大三角であれがカシオペア座、あれが北極星か。完全に理解した。文明万歳。4Gの入るキャンプ場でよかった。

 スマホのカメラを空に向けて写真を撮ってみると、漆黒の画面の中にぼんやりと複数の光点が見える。まさか一眼レフならともかくiPhoneのカメラで星を撮れるとは。この場合、星の明るさを称えるべきなのか技術の進歩を称えるべきなのかわからないな。


 潮風でやや涼しくなってきて、今なら寝られる! とテントに戻った。そして二十分後、私は顔をしかめながら再びテントから這い出していた。

 やっぱり無理だ。テントの構造上どうしたって風が入らない。それに気付いた私はうちわを振り回してテント内の空気を外に追い出し、代わりに冷たく新鮮な空気を取り込もうと努力していたのだが、明らかにそれに伴う発汗のほうが激しくなってきて、折しも時刻は深夜一時を回り、狭く薄暗いテントの中、必死の形相で外に向かってうちわを振り続ける男、何も知らぬ人が通りかかれば新種の妖怪だと思われること間違いなしである。


 外の風は涼しい。もちろん気温としてはそこまで涼しいわけではない。わけではないが、私が暑さで死にかけているため相対的に涼しいのだ。再び顔をタオルで覆い、潮風を浴びながらぼうっとしていると、隣のテントから黒い影がもそもそと這い出してきた。

「きゃっ」

 新種の妖怪かと思い、私は悲鳴を上げた。

「水を……くれ……」

 置いてあった水を渡すと、友人は喉を鳴らして飲み、九死に一生を得たという顔をした。

「暑いな。わかってたけど」

「やっぱりキャンプは夏にするもんじゃないね」

「なんでキャンプといえば夏みたいなイメージあるんだろ」

「さあ」

 二人とも頭がぼうっとしており何も考えたくなかったので、会話はそこで打ち切られた。


 それから、おのおのテントに戻って何度目かの睡眠を試みた。

 私は作戦を変えた。

 テントの入り口は二重構造になっており、一枚は防水シート、もう一枚はメッシュシートである。それぞれ別個に開閉ができる。メッシュシートのみの状態にして、できるだけ入り口付近に体を寄せて丸まって眠る。そうすれば、多少は外の(比較的)冷たい空気に触れられるはず。外で寝るのは蚊による失血死のリスクがあるので最終手段だ。

 この方法が正しかったのかどうかはわからない。単に疲労による入眠力が暑さに打ち勝っただけなのかもしれない。何にせよ寝苦しさに喘いでいるうち、私はすとんと眠りに落ちていた。


 *


 目覚ましが鳴る数分前、私は泥の中から起き上がるかのような起床を果たした。

 ちょうど夜明け前、薄明の時間帯。体はだるく脱水気味で、でもなんとか三時間は寝られたようだ。起きてぼんやり涼んでいると、友人もテントからのっそり這い出してきた。


 夜が明けた。

 日没は海側なのでよく見えたが、日の出の方角には木々が生い茂っている。ご来光を拝む、というわけにはいかなかったが、それでも心地よいものである。


 湯を沸かし、カップスープを飲んだ。昨日買ったお高くて太いソーセージをサバイバルナイフで切り落とし、昨日買ったパンの上に乗せて食べた。めちゃめちゃキャンプっぽいことをしている。

 チーズと干しブドウが練りこんであるパンに肉? と懐疑的な表情をしている友人に向けてさもうまそうに食ってみせると、一切れよこせと言い出した。チョロい奴め。肉とチーズと干しブドウとパンとかいうファンタジックな食事が最高以外の何だというのか。


 満腹になって涼しいうちにもう一度岩場に降りた。昨日遊んだ潮溜まりは海に没し、影も形もない。満潮だ。昨日はちょうど干潮だったのか。浅瀬でイワガニを捕まえたりエビを捕まえようとしたりフナムシの大群に悲鳴を上げたりしていると、やがて最初だけ控えめに、そしてすぐに我が物顔で日が照ってきた。


 ここから気温は上がる一方である。こんなところに長居は無用。私たちはさっさと海から上がり、テントを畳み始めた。

 荷物をまとめ始める頃には太陽が山向こうから完全に顔を出し、昨日散々浴びせたはずの強烈な熱線を懲りずに今日も浴びせてきていた。これからこの日差しの中をバイクに乗って帰るのだ。すでに死にそう。


 テントや寝袋(とうとう使わなかった。というか使っていたら死んでいたであろう)をバイクに積み込み、出発した。いいキャンプ場だった。次は春か秋に来るよ。


 バイクで風を切って走ると、すごく気持ちがいい。さすがに午前中は風が快適だ。日光は強いが、風による涼しさが上回っている。

 波戸岬の近くの名所「名護屋城」に寄って帰ろうと思ったが、あまりに疲れていたのでそそくさと通りすぎた。余裕があれば行っていた。やはり夏にツーリングキャンプなどやるべきではない。


 あと、これは行くときも思ったことだが、ところどころで交差点の名前が「伊達政宗陣跡」などになっていて面白かった。名護屋城とは文禄の役と慶長の役――いや文永の役と弘安の役だったか?――記憶が曖昧だが、要は豊臣秀吉の朝鮮出兵において築かれた城である。

 地図を見れば、見覚えのある大名たちの名前で「○○陣跡」のような地名がそこかしこにあった。佐賀、何もない県かと思っていたが吉野ケ里遺跡といい名護屋城といい、なかなか歴史を感じさせてくれるではないか。なんでそんなに上から目線なんですか?? 佐賀県民の皆様に失礼だと思わないんですか??


 建物の陰に入ると多少は涼しいが、特筆すべきは緑の陰であろう。山間の道を走って日陰に差し掛かると、びっくりするほど涼しいのである。蒸散が効いているのだろうか。一昔前に「緑のカーテン」とかが流行していたが、なるほど確かに効果は高い。とか思っていると再び陽光の下に出た。おげえ。


 途中でコンビニに寄って飲み物を買い、ついでにイートインでアイスを食べた。

 店内の冷房でじゅうぶんに体を冷やしたはずが、外に出て二十秒で暑くなった。外気、暖房として有能すぎる。夏の空気と冬の空気を撹拌できれば年中過ごしやすい気候になるのに。


 二時間ほど走っていると日光はますます強まり、市街地のせいか信号も増えて停車することが多くなり、つまりは暑さに耐えきれなくなってきた。車も増えてきて、走り出しても風を感じるレベルまで加速できない。じわじわと深部体温が上がっている気がする。

 とはいえもう家までは残り数十分である。ちょうどいいのでここで涼みがてら昼ごはんを食べてから解散しようということになり、途中のラーメン屋に寄った。


 ここは0風堂や0蘭(申し訳程度の伏字)などの軟弱な万人向け博多ラーメンを啜った程度で博多ラーメンについて完全に理解した気になっている勘違い他県民どもを(だからどうしてそんなに上から目線なんですか????)一瞬で恐怖と豚小屋のどん底に突き落とすこと間違いなし、まるで豚が生きていたときのような強烈な獣臭、こってり泡立つ豚骨スープが売りのラーメン屋である。

 なんて偉そうなことを書いておきながら、たぶん今これを頼んだら吐くな……と思ったのでこってりではなくあっさりを注文してしまった。においもあっさり。こんな……こんなマイルドな豚骨スープに舌鼓を打つなんて。くやしい。屈辱である。でもおいしい。


 食べ終わってバイクに乗り込み、しばらく走ったところで私は自分の家の方向へと曲がる。手を振って別れ、それぞれの帰路についた。

 家に着いて、シャワーを浴びて、寝た。

 文明が吐き出す涼しい風の中でぐっすりと寝た。


 さて。



 総評:夏にツーリングキャンプをやるな!!!!!!



 一昔前ならいざ知らず、最近の夏の気温と湿度は人間を殺しにかかっている。アネクメーネである。なんかそういう環境に適応しがちな微生物とかならともかく、人間が住める環境ではない。砂漠とか北極のほうがまだ住みやすいかもしれん。

 そんな時期にツーリングだのキャンプだのやろうものなら死人が出てもおかしくない。もちろん真夏にわざわざアウトドアやるぐらいの人は、ある程度水分と塩分に気をつけて自己管理できるだろうと思う。とはいえ、やっぱりやらないほうが無難である。

 海が気持ちよかった。満天の星空が見えた。確かに楽しかった。でも、それだけだ。命と引き換えにするほどじゃない。


 やっぱりベストシーズンは春と秋だと思う。昼は適温で夜は寒いぐらいがいい。虫もいないし。

 なにより焚き火の暖かさが嬉しい。今回ほんとこれ以上エントロピー増大させて(ここエントロピーの使い方合ってる??)どうすんねんって思って、キャンプなのにファイヤーしなかったので。やっぱりキャンプはファイヤーしてなんぼですよ。そう思わない?


 そして今後の旅行について。

 いやあ……卒業旅行とか、できそうにない気がしますね。情勢の問題で。

 コロナ前とコロナ後で生活は不可逆に変わってしまって、おそらくもう元通りにはならないだろうなと思っている。旅行するときもどこか罪悪感のようなものが漂うようになってしまった。今回は二人、ヘルメット被ってツーリング、寝るテントは別、とそこまでリスキーではないはずだが、じゃあ何人までならいいのか? と聞かれても困るのが現実だ。自粛と断行の線引きが各自に委ねられているから余計に難しい。

 カラオケや飲み会なんかもそうだ。私はどっちも好きだけど、最近どっちも行きづらい。というか行けていない。大人数は避けろとか控えろとか言われてるけど、じゃあ大人数とは? という指標をどこも出さないし。無言で圧力をかけるようなやり方は好きではないけど、感染に関しては万が一があったとき迷惑かけるのが自分だけではないというのもまた事実。

 自分にできる対策や配慮は怠らないようにしつつも、納得できるやり方を探していけたらと思う。カラオケも一人なら行っていいんじゃないかな。行ってきます。旅行紀書き終わったし。

(追記:行ってきました。楽しかった)


 今後どうなるかはまだわからないけど、またツーリングキャンプは行くんじゃないかな。社会人になってしまうと(あと半年しかない!!)あんまり行く時間もなくなると思うから、学生でいられるうちに少なくともあと一回は行っておきたい。その先はちょっとわからないけど……でも、更新が数年に一回とかになったとしても、細々と続けられたらいいなと思う。


 それじゃ、また次の旅行紀でお会い……できることを祈りましょう。

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