中国 五日目

九月二十七日(火)


 朝の四時二十分にアラームをセットしておいたはずだが、起きたのは四十分である。

 記憶を辿ると、なんだかアラームが鳴り始めた瞬間に飛び起きてアラームを止め、また眠りに就いたような気がしなくもない。

 二十分後に起きられたのは、幸運以外の何者でもなかった。

 友人に至ってはスマートフォンの電池が切れていてアラームが鳴らなかったらしく、危うく飛行機を乗り過ごすところだった。危ない危ない。


 通算四回目のぶどうパンを食べ、準備をしてホテルに別れを告げた。いいホテルだった。

 割引込みで一泊およそ二千円、低価格でありながら素晴らしいサービス。これは、次に西安に来る機会があったら是非とも泊まりたいものだ。


 朝の五時過ぎ。てっきりタクシーを見つけるのに苦労するだろうと思っていたが、何台も道端に停まっていて驚いた。

 そのうちのひとつを捕まえて「空港まで」と言うと、運転手は快諾。空港は遠いので乗車拒否をするタクシーもいる、と「地球の歩き方」に書いてあったので、私たちは運が良かったのだろう。

 タクシーに乗り込み、発車。西安の城壁にさよならをして、空港までの道をひた走る。速い。さすがタクシー……いや待てよ、タクシーにしても速すぎるのでは?

 おそるおそるメーターを見ると、なんと時速八十キロ!

 おかしいぞ、ここは一般道のはず……しかし、このタクシーの怖さはまだまだこんなものではなかったのである。

 信号が赤になり、タクシーは前の車に追突寸前で止まった。運転手の様子に変化はないのて、どうやらこの車間距離が普通のようだ。

 これでは命がいくつあっても足りない。私はまだシートベルトを着けていなかったことを思い出し、腰のあたりをまさぐってシートベルトを着用しようとした。……あれ?

 ない。

 シートベルトがない。

 深い絶望の中で信号が青になり、タクシーは滑るように発車してカコンカコンと軽快にシフトチェンジ。ぐんぐん速度を上げていく。ああ、やめてくれ……時速七十……法定速度で走ってくれ……八十……まだ上げるのか……九十……おいおい、嘘だろ……百……百!?

 哀号!

 時速百キロ超で突っ走るタクシーに、スピードを緩める気配はない。それどころか、窓を開けてタバコまで吸い始めた!

 余裕があるところ見せなくていいから両手でハンドルを握ってくれ!

 朝といっても空はまだ暗い。暁の街を爆走するタクシーは、空から見たらさぞかし絵になることだろう。もちろん乗っている側としてはそんなことを考えている余裕はない。無事に空港に着くことを神に祈るばかりである。

 そのとき、運転手がカチャリと何かのカードをセット。あれは……日本でもお馴染み、ETCカード!

 タクシーはゲートを潜り抜け、高速道路に入った。やはりさっきのは一般道だったのだ!

 一般道で時速百キロ出すなら、高速では一体何キロになるのか。私がスクラップになったタクシーを想像して悲鳴を上げようとした瞬間、運転手はアクセルをぐいっと踏み込み、軽快な音楽を流し始めた。悲鳴も引っ込んだ。私はとりあえず、事故に備えて頭を抱えた。

 窓の外を見ると、なんと真っ白。今日の天気は濃霧だ。濃霧の中をぶんぶん飛ばすタクシーの中で、私はメーターの針がじわじわと振れていくのを見て、音楽に合わせてひたすらぶるぶる震えていた。

 高速道路上の車は、皆ハザードランプを点けている。なるほど、チカチカして見えるので濃霧の中でも車の位置がわかりやすい。これは良い工夫だと思う。

 とかそんなことを言っている場合ではなく、タクシーはウィンカーも出さずに容赦なく車線変更。変更に次ぐ変更、前の車に幅寄せしたり車線変更しようとしている車の横を走り抜けたり、高速道路のはずなのに周囲の車が遅く見える。

 車の間隙を縫って進むタクシー、そのメーターが時速百三十キロを超えた時点で私は目を閉じ、神に祈った。

 南無三!

 まるで映画の中のカーチェイス。一回はやってみたいと思っていたが、まさかシートベルトなしでやる羽目になるとは思わなかった。

 恐怖を通り越してハイになり、音楽に合わせてノリノリで体を揺らしていると、見覚えのある景色が見えた。空港だ。

 タクシーが停まり、告げられた料金は百五十四元。二千円と少しで七十キロ走ってくれるとは非常にありがたい。もちろん私は持っていないので、友人に立て替えてもらった。

 空港に到着して時計を見ると、なんと五時五十分過ぎ。ホテルを出たのが五時十分過ぎだったことを考えると、四十分で空港に着いたことになる。平均速度を算出しようとしたが、なんだかやめておいたほうが気がした。

 何はともあれ、間に合うどころかまだ搭乗が始まってもいない時間に空港まで辿り着けた。よかったよかった。

 よかったのか?


 しばらく待って、受付が始まってから列に並んでいると、腹が痛くなってきた。さては昨日の買い食いのせいか。

 トイレに行こうとしたが、あと少しで荷物受託と発券が終わる。それまで我慢……と思っていたら、なんと「荷物に問題があるのであそこで受け取ってから並び直せ」と言われた!

 これはまずい!

 セキュリティチェック場で友人がスーツケースを開けて確認してみると、どうやら受託荷物のほうにタブレットを入れていたのが引っかかったらしい。友人がタブレットを機内持ち込み手荷物のほうに入れ、スーツケースを閉める間、私はひたすら耐えていた。一歩でも動いたらコンニチワしそうだった。

 しかし、天災が人間の力ではどうにもならないように、意志の力では覆せぬ絶対的な衝動というのは存在するものだ。

 これ以上耐えられる自信がない。しかし「トイレに行きたい……」と友人に言うと、「我慢しろ」とにべもない。我慢なら飽きるほどしている!

「そもそもお前が変なものをスーツケースに入れていたのが原因であり、そうでなければ今頃私は何のしがらみもなくトイレに行けているのだ、だから行かせろ」と反論しようとしたが、下腹部に力のリソースを割きすぎて「OH……」という蚊の鳴くような声しか出ない。

 もう限界である。友人が荷物をまとめたのを見計らい、「今のうちにトイレ行ってこい、ただし急げ」という友人の言葉が私に届くよりも速く、私は脱兎のごとく歩き出して(駆け出してはいけない。何があっても尻に衝撃を与えてはいけないからだ)トイレに飛び込んだ。

 しかし、物事がうまくいかないときは、たいてい連続してうまくいかないものだ。

 ジーザス!

 個室が全部埋まってやがる!

 おまけにひとり、個室が空くのを待っている人までいるではないか。冗談じゃない、早く出ろ出てしまう前にと念じながら待っていると、ある扉の中から話し声が聞こえた。

 これはまさか……ふたりでひとつの便器を共有しているのか? いやいやそんなわけあるか。トイレで電話しているだけだった。

 待てよ、トイレで電話だと?

 ファック!

 トイレで通話するんじゃねえ!! 外でやれ! 公衆電話でウンコするか? しないだろうが! トイレはトイレのための場所だ! 電話する場所じゃねえ! さあ出ろ! 早く出ろ!! じゃないと出る!! と心の中で怒鳴り散らしつつひたすら神に祈りを捧げていたら(今日はよく神に祈る日だ)、ああ、やっとひとり出た!

 私の前で待っていた人がそこに入った。あとひとり、あとひとりだ、どの個室でもいいから出てきてくれ……おお、神よ!

 やがて、トイレットペーパーをカラカラと回す音がした。もうすぐだ。天国はすぐそこにある。耐えろ。ここで決壊したら今までの苦労が全部水の泡になるどころか生涯最大の汚点を残すことになる。二度と西安に行けなくなる。

 そして、ついにその時はやってきた。

 一番右端の扉から、がちゃりと音がする。

 その瞬間はスローモーションのように見えた。扉がゆっくりと開き、中から歩み出てくるは神の化身か仏様か。その荘厳な歩みは一歩一歩が西方浄土への道標。後光が差し、その眩しさと神々しさに私は思わず顔を伏せた。その方が歩み去ったあとには虹色の光が乱舞して一筋の道を形作る。その光の道こそ私が真に進むべき救いの道であり、己の精神を解き放つ術である。いざ行かん、極楽へ!




(ただいま画像が乱れています。もうしばらくお待ちください)




 スッキリした私は友人のもとへと駆けつけたが、「遅すぎる」だの「一番行っちゃいけないタイミングで行きやがって」だの散々言われた。

 突然の腹痛に必死で耐え忍んだ私としては不服にもほどがあるが、事実その通りなので、黙って頷くだけにとどめた。

 さらには「もっと早く言え」と言われたが、ならば貴様は「三分後に腹痛が来るから今のうちにちょっとトイレ行ってくるわ」ということが可能なのか。ノストラダムスか。

 そもそもタブレットをスーツケースに入れていたのはお前の落ち度だろう……と言おうとしたが、火に油を注ぐのはよくない。

 私がトイレに篭っていたせいで乗れなくなったりしていたら申し訳ないな……と思ったが、特に問題もなく受付を終えて搭乗口に辿り着くことができた。あの暴走タクシーが時間を稼いでくれたおかげだろう。


 飛行機に乗り、ぐっすりと寝た。起きたらまだ離陸しておらず、なんだか既視感。例によって四十分ほど遅れ、ようやく飛行機は飛び立った。腹痛も治り、快適な空の旅である。


 上海浦東国際空港に到着。ここで出国し、福岡行きに乗り換える。

 上海は日本人がたくさんいて、窓の外にはANAの飛行機も見える。ずっと中国東方航空だの中国南方航空だのに乗ってきたので、なんだか新鮮である。もう日本に着いたような気分になった。

 そして出国。


 中国、なんとも面白い国だった。

 ずっと国内にいると、どうしても情報が偏ってしまう。そこがどんな国かなんて、ニュースの断片を寄せ集めたってわかるはずがない。実際に訪れ、自分の目の耳と足で体験してみないとわからないものだろう。

 中国はそこまでひどい国ではなかった。都市部の生活水準は、先進国の中でも見劣りしない。しかし、都心部を少し離れればまるで話は違う。時代が逆行したかのような光景が広がっている。どこかちぐはぐで、だからこそ癖になるというか味わい深いというか……。

 急激な発展に中国自身がまだ追いつけていないような、そんな印象を受けた。

 国民たちはたくましく、図々しく、大雑把で、おおらかだった。どんな国にだっていいところと悪いところがあるし、それは日本人だってそうだ。善悪など、価値観や習慣の違いでいとも簡単にひっくり返る。

 全部ひっくるめて中国という国であり、簡単にいい国だとか悪い国だとか断定することはできない。今回の旅行では、それに気づくことができた。

 それだけでも、来てよかったと思う。


 飛行機の中で、持ってきた暇潰し用の本を開く。円城塔の「Self-reference ENGINE」である。半分ほど読んだところでふと本を閉じて窓の外を見れば、下には懐かしき日本の地が広がっている。あれは五島列島かな? 飛行機はだんだんと高度を下げ、そして着陸準備に入った。


 着陸するとき、友人が何やら異変に気付いたようだ。

「台湾の航空会社がこんな時間にあそこにいるのはおかしい。あそこにもいる。おかしい。きっと台湾で地震か台風か、何か大きな出来事があったに違いない」

 はいはい、と話半分に聞き流していたが、入国後に「台湾で強い台風」のニュースを見て唖然とした。

 航空ファン恐るべし。


 荷物を受け取り、友人に借りた分のお金を渡す。二百七十七元と五角、日本円ならおよそ四千百六十円!

 きっちり返し、しばしの別れを告げた。

 いい友人だが、すこし言葉遣いが乱暴なのが気にかかる。特に私への言葉遣いが。私以外にはそこまで乱暴ではない。……あれ?


 地下鉄とバスを乗り継いで家に帰った。地下鉄の運賃の高さに驚いてしまったあたり、けっこう中国に染まっている。中国なら五十円もしないような区間に二百六十円だと……!?

 車内に溢れる日本語を見て、本当に帰ってきたのだという実感が湧いた。やはり祖国は素晴らしい。


 さて、今回の旅行に掛かった費用、合計でおよそ六万円!

 福岡→青島→北京→西安→上海→福岡と乗り継ぎを重ねてやや駆け足の旅路だったが、内容的には大満足。

 これぞ貧乏旅行。潤沢な金などなくとも、海外旅行は存分に楽しめるのだ。


 というわけで、今回の中国旅行紀はこれにて終了となる。

 こんなしょうもないものをここまで読んでいただき、感謝の念に溢れんばかりである。

 いつかまた会おう。


 謝謝。

 再見。

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