中国 四日目

九月二十六日(月)


 八時半に起き、ぶどうパンをもちゃもちゃ食べてから出発の準備をした。西安駅から兵馬俑行きのバスに乗る。

 西安駅まで移動する途中、パトカーが信号無視するところを目撃した。ここまで来ると逆に楽しくなってくる。


 兵馬俑まで一時間ほどかかるが、運賃は九元ということだった。やはり中国の運賃は非常に安い。

 バスの車内でお金を払う。十元札を渡すと二元のお釣りが来た。中国にいるうちに少しずつ適当さが移ってきたようで、九元じゃなくて八元だったんだな〜とか思いつつのんびり旅行紀を書いていると、さっきお金を払ったはずなのにまた何か言われた。

 どういうことだ。

 首を捻って「English」と言うと、呆れたように笑われた。例によって英語ができないらしい。後ろの席の友人に助けを求め、なんとか「兵馬俑に行くなら九元だからもう一元払え」と言われていることがわかった。それなら最初から一元だけお釣りを寄越せ! と思ったが、そういうわけにもいかないのだろう。やれやれ。

 バスの中で車掌の声が響き渡るたびにびくっとして、何を言っているか周囲の反応から聞き取ろうとするが、やはりわからない。中国にいて中国語が聞き取れないというのは、想像以上にきついことだった。

 そしてここの人たちは、想像以上に英語を知らない。香港と同じように考えていたのが甘かったようだ……。


 バスは相変わらずクラクションの音と共に進んでいく。そういえば中国に来てから、バイクに乗っている人がヘルメットを着用しているのを見たことがない。しかも平気で二人乗りをする。おまけに、よく見たら後ろに乗っているのは人ではなく藁袋だったりもする。なんて乱暴な。

 運転席が左で車線も逆である。免許を取って自分も車を運転するようになってから海外に来ると、今まで気づかなかったところに目が行くから面白い。

 ここで免許を取る人たちはどうやって練習しているのだろう。常に道路を見ながら歩行者やバイクを避けつつ走らないといけないので、ずっと気を張っていないととんでもない事故を起こしそうだ。中国では絶対に運転したくない。


 やっと着いた秦の始皇帝陵。兵馬俑を見るにはチケットが必要である。その金額、ひとりにつき百五十元! ビャンビャンメンが何杯食えると思ってるんだ!!

 驚きの価格設定だが、日本円にすれば二千二百五十円。入場料としては、高いには高いが、さもありなん、といった金額である。しかしここは日本ではない。私は気づいてしまった、兵馬俑に入る金で焼き鳥が百五十本食べられるということに……!

 さすがは5A級観光地。中国が定める最高ランクの観光地であり、昨日の西安城壁でさえ4級であることを考えると、案外妥当なのかもしれない。しかし高いものは高い。

 現在の私の所持金は百元未満……まったくもって足りないので、五十元だけ出して友人から百元借りた。日本に着いたら一元十五円換算で日本円にして返そうと思う。


 兵馬俑は一号坑から三号坑まであった。一号坑が一番大きく、大量の兵士の人形が所狭しと並んでいる。兵士だけでなく馬や武具、石畳まである!

 あんな古代からそれだけの技術が確立されていたとは、驚くべきことである。

 二号坑はまだ発掘されていない。これは、技術の発達を待っているそうだ。どういうことかというと、実は兵馬俑の兵士や馬たちには彩色がなされている。綺麗な絵の具で色が付けてあるのだ。しかし掘り起こしてしまうと、外気に触れることで色が消えてしまうのだという。だから、その色を消さずに残しておけるような、そんな技術が確立してから、それからやっと発掘を始めるらしい。なんとも気の長い話である。

 もちろん二号坑にあるのは、発掘のされていない地面だけではない。ガラスケースに入った兵士が何体か展示してある。ひとつひとつ眺めて回ったが、確かにひとりひとり顔が違った。

 私は歴史にあまり興味がないので、兵馬俑を見ても感動こそすれ興奮はせず、

「すごい、本当にひとりひとり顔が違う……待てよ、どうして顔が違うんだ?

もしかして、あれは全て、元人間だったり」

「それに気づいてしまったか……」

「誰だ!?」

「私は兵馬俑の番人だ。残念だが、お前には兵馬俑の一部になってもらう」

「うわあああああ体が石にいいいい」

とかいう想像をしてひとりで笑っていた。始皇帝の罰が当たりそうだ。

 中は暗くてほこりっぽくて、外に出たら日光で目がくらむ。

 三号坑まで見終わったので、店に入って肉挟膜(漢字はうろ覚えである)を頼んだ。写真を見ると、とても美味しそうな肉まんだ。

 わくわくしながら待ち、やっと運ばれてきたのは、ぺったんこの肉まんだった! なんだこれは!

 写真詐欺ここに極まれり。写真によれば、ふわふわの生地に溢れんばかりの肉が詰め込まれているはずだ。しかし現実はどうだ!

 生地は一週間以上日持ちしそうなほどに固く焼き締められている。噛んでいると顎がゴキッと変な音を立てるほどだ。そして極め付けは、写真の十分の一ぐらいしか肉が入っていない!

 使う肉ダネの量をできるだけ減らそうと苦心した様子がありありと窺える。生地と生地の間にうすーーく延ばされた、申し訳程度の肉……メニューの写真と違いすぎて唖然とした。これではあまりにも盛りすぎだろう。

 プリクラじゃあるまいし!


 帰りにふらふら歩いていると、裏路地へ迷い込んでしまった。急に二十年前にタイムスリップしたような光景が広がっている。

 店先でラジオを聞きながらじっとこちらを見ている老人に怯えつつまっすぐ進んでいくと、行き止まりだった。すぐに引き返して元々いた場所に戻ったが、あそこに漂っていた不気味さは一体何だったのだろう。

 とりあえず、ここにいてはいけないと直感が告げていた。時として、自分の直感に従うことは何より大事である。


 帰り道は世界的な観光地なだけあって、大量のおばちゃんが出現しては柘榴を売りつけようとしてきた。特産品なのだろうか?

 帰りのバスに乗り、ふと周囲を見渡してみると、何人かの乗客がリンゴを丸かじりしていた。売っていた柘榴、一個ぐらい買っておいてよかったかもしれない。


 ホテルに戻ってきた。ちなみに、今の手持ちは三十三元。

 他の国ならばピンチにもほどがあるのだが、ここ中国に関してはそれほどピンチなわけでもない。もちろん晩ごはんを節約すればの話だが……。

 とはいえ日本円に直してみて思わずぞっとした。五百円以下! やはり一万では足りなかったか。二万ほど換金しておけばよかった。


 雨が降ってきた。観光が一通り終わってから降ってくれたので助かった。あとは夜にイスラム街を見に行って、明日の朝は飛行機に乗って帰るのみ。いつのまにかこんなに時間が過ぎ去っていた。


 ホテルでしばらく休んでから、イスラム街に来た。幸い、雨は止んでいる。

 イスラム街はとある大通りで、イスラム教徒たちが両側に店を開いている。きっとハラール肉なのだろう。

 イスラム街は夜が稼ぎどきらしく、通りは尚一層の喧騒に包まれていた。売り子が張り上げる声、人混みを掻き分けるバイクのクラクション。話し声、肉を焼く音、飴を叩いて延ばす音。麺を叩けつけてこねる音。

 人ごみをかき分け、露店を見物しながら進んでいくと、だいたい店のパターンがわかってきた。

 柘榴汁、揚げた蟹、串焼きの羊肉、謎のお菓子を売っているところが圧倒的に多いのだ。

 日本でいうと、祭りにはかき氷とりんご飴の屋台が大量にあるような感じだ。どこを見ても羊肉や蟹が並んでいる。たまに飴の店がある。

 柘榴をその場で絞って果汁を売っているのにはすごく興味を惹かれたが、案外高かったので断腸の思いで諦めた。

 ふわふわと漂ってくる肉を焼く香りにつられて寄っていくと、なんと羊を店先で解体し、肉を太い木の枝に刺してその場で炭火で焼いている。我慢できず、十元払ってひとつ買った。

 まだ若い店員が、目の前で羊肉を焼いてくれる。炭火の上で串を転がし、網に叩きつけ、タレを塗りつけては裏返し、よく火が通ったところで香辛料を満遍なく振りかけると、火の上に落ちた香辛料が火花になってなんとも言えない良い匂いを辺りに漂わせる。

 焼きたてを渡してくれたので、香ばしい匂いに辛抱たまらず、思いっきり齧り付く。途端、ピリッと鼻に抜ける香辛料の香り。香り高くてやや辛い、まさに香辛料。そして、しっかり火が通った羊の肉は歯ごたえ抜群!

 何より串から直で噛みちぎるこの野生の開放感!

 口に入った脂身からは甘い脂がとろりと溶け出す。味付けの問題ではなく、確かに脂が甘いのだ。これは初めての経験である。羊、すごい。肉、うまい。

 本当においしいものを食べたとき、語彙力は果てしなく低下する。今回の低下度は人生でも有数である。

 もう一本買いたかったが、買うと残りの所持金が四元になってしまう。泣く泣く諦め、店の前を離れた。

 正確な名前は覚えていないが、桂の文字が入ったお菓子も買った。

 これがまた面白くて、黄色い生地に茶色の薄皮が乗り、見た目は完全にカステラである。しかし三角柱形に切られて串に刺さっている。形は祭りで売っているパイナップルである。おそらくカステラだが、一体どうしてカステラを串に刺して食べるのか想像もつかない。

 一本三元だったのでひとつ買って、カステラを想像しながら食べてみた。

 これは予想外! もちっとした食感。カステラではなく餅であった。黄色いのはサフランか?

 そして、あまり甘くない。香辛料が効いた不思議な味だ。桂の文字が入っていることから察するに、おそらくシナモンがたくさん使われている。

 なんとも奇妙なお菓子だった。全然嫌いではないが、リピーターにはならない。


 晩ごはんが羊肉と餅だけでは心もとない。いろいろ探したが、結局通り沿いの店に入ってまたビャンビャンメンを頼んだ。

 二回目のビャンビャンメンだが、おそらく店によって味は違うはず。福岡には博多とんこつラーメンの店が乱立しているが、やはり店によって明らかに味も具材も違うのだから。

 さてさて、この店のビャンビャンメンは……?

 運ばれてきたのを見れば、案の定真っ赤っかである。具材は昨日よりシンプルで、肉とネギと唐辛子のみ。昨日より辛そうだ。さあ、いただこう。

 一口すすって、思わず「うまっ!」と声に出してしまった。見た目ほど辛くない。振りかけてある唐辛子は何かと一緒に煮込まれ、ペースト状になっている。そのおかげで麺によく絡みつき、肉と一緒に頬張るともう口の中がカーニバルである。

 肉の臭みを消し、なおかつ辛味と旨味を同時に醸し出してくれる。いい仕事してるぜ!


 どこかの店から「千と千尋の神隠し」のメロディが流れていた。こんなにこのメロディが似合う通りもなかなかないだろう。台湾の某所がモデルらしいが、そこよりも千と千尋らしい景色が続いていた。

 まったく、ここは素晴らしい。最後の最後でいいところに来れた。お金があればもっと買い食いもできたし、手芸品なども買えたのだが……やはり換金する金額が少なすぎたようだ。次は多めに持っていこうと思う。


 後ろ髪を引かれる思いでイスラム街を抜け出し、コンビニでまたぶどうパンを買った。

 結局、中国で食べた朝食は全てぶどうパンである。そのうち身体のどこかからぶどうの蔓が生えてきてもおかしくない。そういえば、キノコならどこにとは言わないが既に一本生えている。スーパーで買った干しナツメも食べまくっているので、ナツメヤシが生えてくる可能性だってある。

 そうなったら歩く植物園として見物料で食い扶持を稼いで生きていくしかない。それとも光合成が可能になり、食べなくても生きていけるのだろうか。

……くだらないこと言ってないでさっさと寝よう。明日は四時半に起きて空港まで行かないといけない。朝の飛行機を逃したら大変なことになる。


 明日は移動のみ、つまりこれで実質的に旅行は終わりだ。もちろん家に帰るまでが旅行であるので、明日もしっかり楽しみたいと思う。

 素敵な一日だった。おやすみ。

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