沖縄 二日目
七月二日(土)
さて、前日は夜中に客の話し声で何度か目覚めたものの、比較的ぐっすりと眠れた。香港で泊まったホテルと同じくらいの値段だが、そこよりもはるかに綺麗である。
七時のアラームで起床し、店を出て朝ごはんを食べに行く。
二十四時間営業の麺屋に入り、沖縄そばを頼んだ。念願のソーキそばである。ソーキとはチャーシューのようなもので、よく煮込まれてぷるぷるの豚足のような食感にもっちりとした歯ごたえが大変美味であった。これは酒のつまみにもピッタリに違いない。
予約していたレンタカーを借りんとするも、営業開始前だというのに店の前には多国籍な人だかりができていた。この時期のレンタカーは、主に外国人観光客で大変混み合うのである。
しばらく待って、予約していた旨を告げると鍵を渡された。日産のnoteである。初めて運転する道に初めて運転する車種、元来臆病な私はビクビクしながらハンドルを握ってふらりふらりと路上に出た。
幾度かウィンカーを出し忘れたり中央線を踏み越えたりした他はさしたるミスもなく、数十分走り続けて高速の入り口に来た。いよいよだ。ここから先は、一瞬の気の緩みが死に繋がるデス・ロードである。マッドマックスである。
ゲートを潜って滑り込み、えいやっとアクセルを踏み込んだ。
高速を走っているとき、本来ならば一瞬たりともよそ見をしてはいけないものである。当たり前だ、時速八十キロでよそ見したら大事になる。わやになる。
しかしここは沖縄、全体的に建物が低くて遠くまで見渡せる。空はどこまでも青々として、もくもくとした白い雲との対比の鮮烈さはさすが南国である。さらに海も見える。青い。青緑色に澄み切っている。
美しい大自然の誘惑に負け、私は上を向いたり横を向いたりしながら走り続けた。私がよそ見をしている間、車は激しく蛇行を続け、友人は「危ない危ない」「前を見ろ」と何度も叫んでいた。
(注釈:やや脚色多めでお届けしております)
「景色は後でいくらでも見られるから今は前を見ろって、ほら、うわあ危ねえ」
「今この場所でしか見られない、そんな景色だってあるのさ」
「黙れ」
途中で疲れてきたので伊芸(いげい)パーキングエリアに停まる。偶然にもそこからの眺望が大変素晴らしく、私と友人はブルーシールアイスの紅芋味を購入してしばらく景色を眺めた。
紺碧の海と深緑の山との目に痛いほどの対比をたっぷりと味わったが、日頃はスマホの画面ばかり見ているせいで、逆に目が疲れてきた気がする。
それにしても暑い。蝉が鳴き喚き、気温は三十度を超え、夏本番の風情が漂っているが、実はまだ七月になったばかり。これからさらに暑くなるとは、沖縄、まったく末恐ろしい場所である。
再び車に乗り込み、瀬底大橋を渡って穴場「瀬底ビーチ」へ。
山口県の角島大橋とよく似た橋である。どちらもエメラルドグリーンの海の上に山なりに建設されていて、橋の先はビーチのある小さな島となっている。橋を渡って島に上陸し、ビーチに向かって細い山道を走る。駐車場に着き、どこにも擦らずに車を停めることに成功した。
目前に広がる瀬底ビーチの綺麗さは、言葉では喩えようもなかった。
白色、水色、紺色、緑色。突き抜けるような青い空と地平線に立ち昇る巨大な白い雲、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの海、目に沁みる深緑の島々。いや、絶景かな!
水着に着替え、荷物を放置して海にざぶざぶと踏み入った。ややぬるめの海水はきらきらと透き通っている。自転車で転んで怪我している左手は漬けないよう気を付けながら、ゴーグルをかけて水中に潜った。
世界が変わった。
蛍光色の魚が目の前を横切ってゆく。小さい真っ青、ピンクの斑点、すらりと長い尾びれと背びれ、平べったい銀色……ペットショップの水槽の中でしか見たことのないような魚たちが、今、目の前を埋め尽くしていた。
そこにガラスの四角い枠はなく、魚たちは自由に、珊瑚礁の周りをすいすいと楽しそうに泳いでいた。なんだかこっちまで楽しくなってきて、私は怪我など構うものかとばかりに左手をじゃぼんと浸けた。
「んぎゃぐげぇっっ」
当然のごとく傷に沁みた。なるほど「傷口に塩」と言われるだけのことはある。痛い。
ここの魚たちには警戒心というものがほとんど存在しないらしく、手を差し出してじっとしていると数匹が近寄ってきた。そして噛み付いてきた。痛い。
私は激昂して「どちらが食物連鎖の頂点にいるか教えてやろう」と高らかに叫び、以降は魚どもを捕まえることに専念したが、数十分経っても一匹も捕まえられなかった。
ぬるりひらりと指の間をすり抜けてしまうのだ。腐っても野生の魚、さすがである。次は銛を持参せねばなるまい。
小魚如きから餌だと思われたのは割とショックだったが、まあ貴重な体験である。釣り上げて刺身にしてやろうかとも思ったが、熱帯魚の刺身(極彩色)を想像すると食欲が失せた。とはいえカワハギの一種も見かけたし、食べられないこともなさそうだが……?
誰か、機会があれば挑戦してみてほしい。
泳ぐというよりぷかぷか浮かんで、魚を捕まえようとしたりただ眺めたり、波打ち際に寝転んで真っ青な空を眺めたり。
ひたすら遠浅の海なので高いところから飛び込んだりできなかったのは残念だが、沖縄の中でも抜群の透明度と景観を誇る瀬底ビーチを存分に満喫できた。
海岸に落ちているのは砂ではなく、というか、よく見ると波打ち際は全て珊瑚の欠片であった。打ち合わせるとキンキンと澄んだ音が響く。これが死骸の塊だとは思えないなあ……と思いつつ、形の良い珊瑚を探して歩き回った。
海から出て、海の家でタコライスを食べた。海の家で食べるごはんというのは大変おいしいが、それは雰囲気によるところが非常に大きいと思う。涼しい日陰で、開放的な眩しい砂浜を眺めながら食べる。こんなもの、おいしいに決まっている。おいしくないわけがない。
食べ終わってからシャワーを浴び、さっぱりしてから瀬底ビーチを出て今帰仁城(なきじんぐすく)跡に向かった。
そこは不思議な景観の城跡で、山の上のほうに昔の石垣があり、中腹の草原には石垣の土台のみが点々と並んでいる。その光景はPS2のゲーム「ICO」や「ワンダと巨像」に通じるものがあった。草原と石垣の組み合わせ、おまけに遺跡。茂る植物は南国風。なんだか郷愁を掻き立てる。ノスタルジイである。
城門の壁には四角い穴が空いていた。調べてみると、「矢狭間(やざま)」という名前だそうだ。戦のとき、そこから矢を放って敵の侵入を防いでいたらしい。
覗き込んでみると、そのスペースで猫が居眠りしていた。写真を撮っていると目を覚ましたが、特に嫌がる訳でもなく撮られるがままになっていた。南国は猫もおおらかである。
てっぺんまで登ると眺望が開けた。山城なので遠くに海は見えるし、反対側は緑の山が広がっていて、上は空、下は石垣、三百六十度に素敵な風景が広がってなんとも贅沢な山登りである。
散々写真を撮ったあと山を降り、少しお土産を買ってから車に戻った。そして時計を見て、ぎょっとした。もう十六時半である。レンタカーの返却期限は十九時、それまでに那覇まで戻らねばならぬ。
また二時間以上かけて高速で戻るのだが、散々泳いで山に登ったり降りたりした私は非常に疲れていた。それはもう、座り込んだら眠ってしまいそうなほどには。
運転席にどっかりと座りこむと、非常に心地よい。冷房とふかふかのシートが私を優しく包み込んで、私の耳に「おやすみなさい」と囁きかけているかのようだ。これはまずいぞ。
なんとかエンジンをかけ、車は滑るように発車する。異変は、数十分走ったところで起こった。車内にかけていた音楽と自分の意識がシンクロし、自分の頭の中の想像の風景が目の前に重なったのだ。
自分がどこにいて何をしているのか、全てが膜で覆われたような景色の彼方に吹き飛んでゆく。
簡潔に言えば、私は居眠りしかけたのだ。
車は左にガクンとずれ、縁石に生えている草が車体と擦れてぞりりと音を立てた。もう少しで歩道に乗り上げるところだった。
それが睡魔との戦いの始まりのゴングであった……。
ちなみに友人は免許を持っていない。私が「眠い」とこぼすと、大変焦っていた。当たり前だ。
今はまだ一般道だが、もし高速道路で居眠り運転なんてされた日には、助手席のあいつに生命はない。つまり私があいつの命を握っているのである。けけけけけ。
とはいえそろそろ笑い事ではなくなってきたので、スーパーに車を停めてじゃがりこを購入した。口に何かものを入れておけば、寝る確率は格段に下がる。
そもそも自動車学校の教本には、こういう場合は絶対に少し休憩をとってから行くべきだと書いてある。そんなことは言われずともわかっている。しかし、レンタカーの返却ができないと大変困ったことになってしまうのだ。
こうなったら強行軍である。私は覚悟を決め、高速に乗った。
高速道路の景色というのは、言わずもがな、極めて単調である。一定間隔で街路樹や街灯が立ち並び、同じ速度でずっと走り続けなければならぬ。
この「一定間隔」と「単調」は催眠療法においても重要なファクターとなる。振り子を目の前にぶら下げて「あなたはだんだん眠くなーる」とやっているところを想像してもらえるとわかりやすいだろう。催眠、暗示にかかりやすい精神状態になるのだ。
つまりどういうことかというと、高速は眠くなるのである。
居眠りに必要な要素は、全て揃っている。だからこそ夜行トラックなどの居眠り事故がしばしば起こっているではないか。居眠り事故がたまたま重大になったときだけニュースになるが、実際の事故はおそらくもっと多い。未遂に終わったものを含めると、もっともっと多いはずだ。私の予想では、諸君が想像するよりもはるかに大勢の人間が、居眠り運転で冷や汗をかいた経験があるに違いない。
私は目を見開いて高速を走り続けた。横で友人が檄を飛ばしてくれるが、それでも眠いのに変わりはなかった。
「おい、寝るなよ! 絶対に寝るなよ!」
「ダチョウ倶楽部?」
「違うわ! フリじゃねえぞ!」
時折じゃがりこを食べたが、食べている間は片手運転になって蛇行するので余計に危険だった。
友人もおれの眠気を醒まそうとして大音量でラジオをかけたり冷房をガンガンかけたりした。それでも眠くなると、やけくそになって「浪漫飛行」を大声で歌ったりもした。
この「浪漫飛行」という曲をご存知だろうか。実は平成二年にJALの沖縄旅行のテレビ CMソングに起用されており、なんとも沖縄に相応しい曲である。「君と出会ってから いくつもの夜を語り明かした……」というサビは、聞いたことがある方も多いのではないだろうか。実は、私の持ち歌である。
やっと高速を降りたとき、私は安堵のあまり対向車にぶつかりそうになった。
ちなみに、途中で「音楽とシンクロして頭の中の景色が目の前に重なった」のは二回。つまり、私は時速八十キロで少なくとも二回、居眠りしかけたことになる。
奇跡的に生きている。そう、奇跡的に。
今回は運良く事故にならなかっただけである、決して同じことは繰り返すまいと肝に命じた。しかし、気が抜けたのか、命じたそばから寝そうになった。
やっとのことで牧志に帰り着いたが、今度は道のど真ん中でエンジンを切ってしまって立ち往生した。慣れない車の扱いは難しい。
なんとか復活し、給油してからレンタカーを返した。旅の恥はかき捨てというが……やれやれ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
さて、お腹も空いたので晩ごはんを食べるところを国際通りで探したが、なかなかいい店がなかった。あっても目玉が飛び出るようなお値段だったりした。
ぐるぐると歩いても、なかなかいい店はない。だがチェーン店で済ませてしまうのももったいない。歩き回ることで無性に腹だけが減っていく。やがてふたりとも腹が減って腹が減って仕方がなくなったので、もうどこでもいい、目に付いたところに……と近くの居酒屋に入った。
それぞれ好きなものを注文すると、私のセットに付いてきたオリオンビールが先に運ばれてきた。腹を下している友人は酒を控えて水にしておき、無事を祝して乾杯。
一歩間違えたら二人とも死んでいた悪夢のようなドライブを、文字通り乗り切ったお祝いである。
沖縄と言えばオリオンビール。初めて飲んだが、苦味が少なくて飲みやすかった。ぐぐっと流し込むと、鮮烈な炭酸に体が喜んでいるのを実感する。「この一杯のために生きてる」という感じである。
ここで「オジー自慢のオリオンビール」と言ってピンと来る人はいるのだろうか……?
これはBEGINというアーティストの楽曲である。「島人ぬ宝」なら知っている方も多いはず。ほとんどの人は、残念なことにそれ以外の曲を知らない。
次に運ばれてきたのは本場のゴーヤチャンプルー。
木綿豆腐、ゴーヤ、人参、モヤシ、豚肉ミンチというシンプルな構成であり、たっぷりの油で豪快に炒められたその見た目は中華料理に近い。ミンチの旨味が木綿豆腐に乗り移り、ゴーヤの苦味と共に、噛んだ瞬間口の中で溢れ出す。ゴーヤもただ苦いわけではなく、なんというか料理の味を「引き立てる」苦味である。モヤシのシャキシャキ感とあいまって、口の中は何が何だかわからないほどの旨さの奔流。
ふたりとも口に入れた瞬間にしばし固まり、「これが本場か」と感嘆の吐息を漏らした。あっという間に食べ終わってしまった。
次に来た海ブドウはプチプチヌルヌルとした食感が魅力のおつまみだが、食べてみると何も付けずともほんのり塩味でおいしい。ポン酢を付けるとさらにおいしい。
これはビールよりも日本酒、それも熱燗との相性が抜群であるに違いない。
次のメバチマグロ刺は衝撃だった。照りのある赤身は、見た目だけで白飯が数杯食えそうだ。さてさてどんなものかと思いつつ口に入れると、予想外の柔らかさ。舌の上でとろりととろけて噛むまでもなく喉奥に滑り落ちていく。あとに残るのは、じんわりトロトロとした甘みと旨みである。
脂の乗ったマグロとはかくも絶品なのか、と魚の底力を感じる一品であった。
さて、最後に運ばれてきたのは「ラフテー」である。聞いたことのない料理だが、どうやら豚の角煮のようなものであるらしい。茶色く透き通った煮汁にほうれん草や人参、そしてラフテーが入っている。見た目は煮物である。
食べてびっくり、これがまた絶品で、脂身はぷるぷると口の中で溶けていき、肉の部分は絶妙な歯ごたえの中にたっぷりと煮汁を含んで、素朴で優しい味わい。
はっきり言って、全然足りなかった。もっと食べたかったなあ。
食べ終わってしばらく友人と話し、会計を済ませて店を出た。人心地ついたので、いよいよお土産を買いに行くのである。
ボトルシップや琉球吹きガラスの器を始めとして、ちんすこうやさんぴん茶、黒糖も欠かせない。欲しくなったものはほぼ全部買ったので、お札がひらひらと夜空に羽ばたいて消えていった。
我がモットー『旅行先で使うお金はケチるな』に従ったのだ。帰ったらしばらく節制生活を続けねばなるまい。
友人は金が尽きたらしく、二千円ほど貸してやった。何に使うのかと思ったら、ブレスレットではないか。まさか自分で付けるわけでもあるまい。怪しい、怪しいぞ。
「プレゼントか?」
「そう。誰にあげるでしょうか」
「んーじゃあ妹とか?」
「残念」
「まさか……彼女っ!」
「せいかーい」
「て、てめえ……てめえっ!」
私は憤激に拳を震わせた。怒り心頭に発し、怒髪天を衝いた。こんなことなら先ほどの高速道路で始末しておくべきだったか、と後悔の念に苛まれたが、もう後の祭りである。
お土産の袋を両手にぶら下げ、そうして再びネットカフェに戻った。
一泊で千八百円、個室はギリギリ体を伸ばして寝られる程度の広さで、フリードリンク付きである。女性にはお薦めできないが、貧乏旅行を志す男性諸君は是非とも一回試してみてほしい。服や持ち物にタバコの臭いが染み付くが、まずまず快適である。
棚に並んでいる漫画を物色し、「僕だけがいない街」「逢沢りく」「ハンターハンター」「ドリフターズ」などを読んでから寝た。
どれもこれも面白かったが、特に「僕だけがいない街」と「ドリフターズ」が素晴らしく面白かったので、いつか全巻揃えたいものである。
寝ようとしてごろりと横になると、背中に激痛が走った。日焼け止めを塗ることを放棄した代償が襲ってきたのである。痛い、かゆい、と悶えつつも、いつの間にか眠り込んでいた。
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