中国

中国 一日目

九月二十三日(金)


 前日までサークルの合宿で大分県にいた。

 はしゃぎ過ぎてクタクタに疲れていたが、しっかり寝たのでもう大丈夫。若いので簡単に体力が回復するのだ。

 昨日の夜に帰ってきてから急いで洗濯し、荷解きと荷造りを同時に進め、泥のように眠った。起きたのは朝十時過ぎ。十一時半の電車に乗って空港まで行くので、かなり余裕がある。

 優雅に漫画を読み、シャワーを浴び、体を拭いてから時計を見ると十一時を過ぎていた。

 しまった! 朝飯食ってねえ!

 一体どうしてこんなに時間が経っているのかわからないが(注:漫画を読んだからに決まっている)、もはや優雅にブレックファストを食べる時間は残されていなかった。

 スーツケースにいろいろなものをポンポン放り込み、荷造りを終え、私はバタバタと家を出た。

 銀行でお金をおろし、スーツケースを抱えてリュックを背負った状態で全力ダッシュして、駅に着いたのは電車が出る二分前である。

 どうしてこう、余裕を持って行動するということができないのだろうか。おそらく恋人がいないからである。

(実は先日までの合宿で、友人の惚気話を朝まで聞かされたおかげで、頭がピンク色に染まっている)

 大学生の精神的余裕は自分に恋人がいるかいないかという一点において大きく左右されるのだ。

 私にはいない。今のところは、と強調しておく。


 朝食兼昼食は空港で調達するとしよう。私は電車に揺られながらスマートフォンのメモ帳を開き、「中国旅行紀」を書き始めた……。


 そう、今回の旅行先は中国である。

 中国といっても国土は広い。なんてったって世界四位である。国土面積九百五十九万七千平方キロメートル、これは日本の約二十五倍であり、私の下宿(占有面積二十四平方メートル)のおよそ四千億倍、正確には三千九百九十八億七千五百万倍にあたる。

 もうわけがわからない。

 つまり、とにかく広いのだ。したがって、観光も日本のようにはいかない。今回は五日間ということで、拠点をふたつに絞っている。

 北京と、西安である。

 二日目は北京で万里の長城などを観光し、三日目に西安に移動して四日目に西安で兵馬俑などを観光、五日目に帰ってくる。

 もちろん、あくまでも予定である。予定外のハプニングがなければこうする、というだけの話であり、ハプニングあってこその旅行とも言える。何が起きてもそれを楽しむぐらいの精神でいたいものである。


 おなじみの友人と合流し、空港で出国手続きをした。

 もう日本に思い残すことはないかと言われても思い残すことしかないので、なんとしても生きて帰ってきたいものである。

 一応事前に別れは済ませてある。サークルの面々には「もしも帰ってこなかったら、こんな部長もいたなあ、と数年に一回でいいので思い出してください」と言ってあるのだ。

 スマートフォンのメモ帳に「電子遺書」でも書いとくか、などと会話をしながら中国東方航空の飛行機に乗り込み、日本を飛び立った。


 元気を蓄えるために機内では寝ておくことにして、束の間の睡眠。物音で目を覚ましたら

、機内食が配膳されていた。

 機内食のサンドイッチはパンがやけに固かった。なんだかこう、圧縮整形したような固さである。しかしまずいわけではなく、挟んであるキュウリと何かの肉も見た目よりはおいしかった。これは一体何の肉だろうか。

 オレンジ色の大きめの直方体があり、チーズかと思って口に入れるとメロンであった。


 機内の表示は中国語、放送で流れるのも中国語。そうか、ここはもう日本ではないのだ。


 機内で蝿が飛んでいた。クワガタじゃなくてよかった……と胸を撫で下ろしつつ、この蝿が中国に到着したあとの運命に想いを馳せた。

 見知らぬ異国の地で戸惑いながらも、案外たくましく生きていくのかもしれない。そして中国の蝿と出会い、言語の壁を乗り越えて結婚し、日中ハーフの小蝿が生まれ……と謎の妄想をしているうちにまた眠ってしまった。


 数時間のフライトの後、降り立ったのは青島。青島ビールで有名な場所である。ここで北京へ乗り換えるのだ。

 さて、乗り換えはどこだ……とキョロキョロしながら歩いていると、係の人が何やら呼びかけていた。

 聞き取れない。

 しかし、友人は「あっ」と叫んでその係の人のところに寄っていった。どうやらその人が北京行き乗り換えの案内係だったようだ。

「なんでわかったん」

「北京って言ってたからね」

 なるほど、言われてみればベイジァンという発音が聞こえていたような気もする。しかし「北京」は「ベイジン」と読む、という字面しか知らなかった私は、「ベイジン」と「ベイジァン」が繋がらなかったのだ。

 改めて外国語の難しさを思い知った。言語が通じないとは、こんなにも心細いことなのか。

 そして友人の頼もしいこと!

 旅に慣れている上に中国語がすこーしだけできるので、きっと今回の旅ではいつも以上にお世話になることだろう。


 何はともあれ、無事に入国ゲートまで行くことができた。

 パスポートを差し出すと、仏頂面のままパスポートを奪いとられ、変な場所にビザのスタンプを強打された。

 なんとも豪快な国である。


 中に入って手荷物検査を受けるとき係員にリュックを手渡すと、何事か疑問形で言われた。しかし聞き取れない。頼りになるはずの友人はすでに入ってしまっている。

 困って「えー」とか「うー」とか言っていると、後ろの人が「これこれを持っているかどうか」と教えてくれた。「持ってないです」と言うと、なんとそれを係員に通訳までしてくれたのだ!

 おかげで手荷物検査を無事に通り抜けることができた。まったくありがたいことだ。あとで丁重に頭を下げ、お礼を言った。旅先で触れる人情、素晴らしきものなり!


 それから一時間近くロビーで待ち、やっと北京行きの飛行機に乗り込む。

 今回の機内食はハンバーガーだった。一口食べてみてわかったが、先程のサンドイッチと具がまったく同じである。こんなものでは私の目はごまかせない。

 隣に座った乗客が毎日新聞を広げていたので「さては日本人か」と思ったが、そのあと中国語の新聞も読んでいたので、結局どちらかわからなかった。

 私は大学でスペイン語を一年学んでも、結局ほとんど身につかなかった。外国語を読む、書く、話す、一通りできるレベルにまで達している人は本当に尊敬する。

 しかし、機内食を食べているとき隣からずっとクッチャクッチャ聞こえていたのには閉口した。俗に言うクチャラーであった。閉口しろ。

その後も音を立ててゲップをするわ、ランプが消えていないのにシートベルトを外すわ……と、ちょっと非常識な行動のオンパレード。少しだけ抱いた尊敬の念など跡形もなく消え去ってしまった。


 北京に到着してタラップを降りると、色とりどりの灯りが少しだけ霧で霞んだような綺麗な景色が広がっていた。

 すごく綺麗だが、おそらく霧ではないだろう。もっと有毒な何かである。


 連絡バスに乗ってターミナルへ。それにしても広い。ターミナルに着くまでにかなり走った。土地を潤沢に使えるというのは非常に羨ましいものだ。


 荷物検査後、地下鉄へ。地下鉄の入り口でまた荷物検査があった。検査というかベルトコンベアに乗せて機械に通すだけで、別に身体検査などはされないのだが、それにしてもずいぶん厳しい。地下鉄に乗るときでさえいちいち検査されるとは……。

 二十五元で切符を購入したら、ICカードを渡された。どうやら切符と同じように降りる駅で回収されるらしく、なるほどこれなら切符よりエコかもしれない。面白い仕組みである。


 地下鉄は途中で地上に出た。

 乗り換えのとき隣の人から話しかけられたが、英語と違ってもはやニュアンスさえ掴めない。すみませんと言ってそそくさとその場を離れたが、せめて「中国語わかりません」ぐらいは中国語で言えるようになりたいものである。しかし、「中国語わかりません」と中国語で言える時点で多少なりとも中国語をわかっていることになり、「中国語わかりません」というのが嘘になってしまう。しかしわからないのは本当だし、中国語を喋ることはできない。中国語を喋ることができないと中国語で言うのはなんだかすごく矛盾している。頭の中がぐるぐるしてきた私は、そこで考えるのをやめた。


 地下鉄を出て地上の案内板を見ていると、隣から日本語が聞こえた。向こうもこちらを認識したようで、「日本の方ですか?」と話しかけてきた。静岡から来た日本人夫婦だった。

 ひとしきり話して、「明日は万里の長城に行くんですよ」と言っていたので向こうで会えたらいいですね〜と言いつつ別れを告げた。旅先で日本の人に会うのは嬉しいものである。


 街角には独特の匂いが漂っている。アメリカに行ったときはアメリカの匂いがして(アメリカの匂いというよりはロサンゼルスの匂いと言うべきだろうか?)、香港に行ったときも香港の匂いがした。

 つまりこれが北京の匂いなのだろう。体臭とタバコとトイレを混ぜて薄めたような特徴的な匂いであるが、臭いというほどではない。しかし公衆トイレの周辺は激臭だった。


 そしてホテルへ行こうとしたが、見事に迷った。地下鉄から出たところにある案内地図は方角がとっ散らかっていたせいで読むのに苦労し、友人は「なんでこの向きにこの地図を置いた」と怒り狂っていた。私はそもそもホテルの場所すらわかっていないので、ぼーっとしていた。

 結局、散々探し回っても見つからなかったので、同業者ならわかるだろうということで大きなホテルに入った。そこの受付の方に聞いてみると、意外にもすごく親切で、予約していたホテルの場所を地図まで描いて丁寧に教えてくれた。謝謝と言いつつ精一杯頭を下げ、ホテルに向かった。


 ホテルは、確かに教えてくれた場所にあった。正確には見えたというべきか。ビルとビルの隙間に見えたので、あそこだあそこだと喜び勇んで向かったはいいものの、辿り着いたと思ったら鉄格子の中であった。

 そこにいた守衛の人にホテルと言うと裏から回れと言われたので、裏から行こうとしたが、行けども行けどもホテルに向かう道がない。

「この区画の中にあるのは間違いないんだ」「探せ探せ」とひたすら周囲を歩き回り、工事中で壁があったり工事もしていないのに壁があったりしたが(この壁一体何のためにあるんだ!?)、ついにやっとのことでホテル玄関に辿り着けた。思ったよりも裏から回った。

 中国の街は非常に入り組んでおり、おまけに通行できない場所が多い。迷路である。そもそもこのホテルも、意味がわからないほど奥にある。何を思ってこんな場所に建てたのか、あるいは何かの建物を改装したのか。後者の可能性が高そうだ。


 通された部屋は思っていたよりも綺麗である。だがしかし、風呂がガラス張りなのはどういうことだろうか。

 おそらく、そういうことである。


 とりあえず荷物を置いて、外に夕飯を食べに行く。火鍋の店を見つけ、そこに入ってみたが、なんということだろう! 店員の誰も英語ができないのだ。友人にほとんど任せていたが、友人も苦労していた。最終的に店員が全員集まってきて、スマートフォンを取り出してメニューを英語に翻訳したりしてくれて、やっとのことで注文できた。

 鍋ひとつ頼めばいいだけかと思いきや、鍋のスープを選び、具材を選び……と注文が果てしなく面倒だったのである。言葉が通じないと、ごはんも食べられない。もう少し勉強してから来るべきだった。


 さて、やっとの思いで注文できた火鍋を食べよう。三種類のスープがテーブル中央の鍋でぐつぐつと煮込まれている。ふたつは真っ赤で、ひとつは透き通った茶色である。茶色には生姜やクコの実やナツメヤシの実が入っていて、どうやら薬湯のようである。真っ赤なふたつのうち、より赤いほうにはトマトが入っている。トマトスープだ。赤黒いほうには、明らかに唐辛子らしきものが大量に浮かんでいる。なんだか危険な香りがする。

 私は赤黒スープを箸でかき混ぜ、箸の先を舐めてみた。

「うっげあおう」

 私は叫び、得体の知れないものがぷかぷか浮いている水を浴びるように貪り飲んだ。

 口の中にハリネズミでも放り込まれたかと思った。痺れるような痛みは唇から喉まで達し、まるで火で炙られているかのようだ。今までに食べたどんなに辛い物体よりも辛い。死ぬほど辛い。やっと落ち着いたので、突然悶え始めた私を変な目で見ていた友人に「食ってみろ」と身振りで示した。

 友人の反応は私とほぼ同じだったので、「な?」とだけ言っておいた。


 トマトスープと薬湯で羊肉やレタスや麺を茹でて食べたが、辛いやつ以外はそれなりにおいしかった。

 一体何をどうすればあんな殺人的な辛さが生まれるのだろうか。あの味を生み出すために一体何人が犠牲になったのだろうか。箸の先ほどの量であの辛さである。あれを大量に摂取したら、死は免れまい。


 会計は八十一元、日本円で千二百円ほど。中国にしては高めだった。どうやら、それと知らずに高級店に入ってしまったようだ。それでも日本よりは安いから驚きである。


 店を出たあとコンビニに寄った。二十元、三百円ほどでパンとジュースふたつとビールが買えた。さすがの物価である。

 しかし店員は全力で不機嫌そうであった。もしあれが不機嫌ではないとしたら、北京ではお釣りを投げてよこすのが流行っているに違いない。

 敏腕コンビニ店員としての顔も持つ友人は、ぼそっと「接客の基礎を一から叩き直してやりたいね」と呟いていた。


 ホテルに戻ると、布団に吸い込まれてしまった。ブラックホールに勝るとも劣らない引力。これには勝てない。もうシャワーも明日の朝でいいから、今は一刻も早く寝たい。

 中国、いろいろと衝撃的な国だった。しかしまだまだ旅行は始まったばかり。明日以降のために、今はしっかり寝ることが重要だ。

 おやすみ。

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