香港 三日目

三月十六日(水)


 朝の六時。まだ起きるつもりはなかったのに、隣の家族がばったばったと準備したりシャワーを浴びたりする音がダイレクトに聞こえてきて目が覚めた。この壁、拡声器が何か仕込んであるんじゃないか?


 それにしても、まったく、人間の適応力とは素晴らしいものだ。部屋に漂うトイレの臭気にも慣れ、というか鼻が麻痺して、何も感じなくなってきた。


 朝ごはんは昨日も食べた粥である。二人ともそのおいしさにどハマりし、その店のリピーターとなってしまった。安い、うまい、そして出てくるお茶も美味。素敵な店だ。さあ、今日は香港流の食べ方をしてみよう。粥と一緒に揚げパン(油器と書く)を注文する。このカリカリした塩味の揚げパンを粥に浸して食べるといいそうだ。なんだか既視感があると思ったら、炭水化物に炭水化物、すなわちこれはもう焼きそばパンの発想である。まずいわけがない。


 運ばれてきた粥は相変わらずアツアツで、まずは揚げパンのほうから食べることにする。カリッと揚がった表面と中のもちもちの対比、そして余計な味は付いていない純粋なパンなのに、少し甘い。スイカに塩をふるのと同じように、塩によって甘さが引き立つのだろう。このパンは買い食いにもちょうどよい、見かけたら買うことにしよう。


 粥に揚げパンを浸し、頬張る。うーん、えも言われぬこの満足感。炭水化物の暴力を堪能した。ごちそうさまでした。


 昨日も気になっていたが、油揚げとスポンジを足して二で割ったような感じの具が入っている。何だこれは。まずくはないが大変気になる。


 さて、一旦ホテルの部屋に戻る。これをホテルと呼ぶのはかなり抵抗があるが……まあホテルと書いてあるからホテルなのだろう。そして、友人はカメラ一式を手に、空港へ旅立っていった。今日は一日中写真撮影をするそうだ。

「おい、撮った写真が五百枚超えたぜ」

「撮りすぎじゃね? まあおれは二日間で一万字超えたけどな」

「書きすぎやろ」

 私も友人も、お互いの趣味に一応の理解はあるものの、やっぱり理解できないのである。私は友人から旅行に来てまで何をせこせこ書いてるんだ、と思われているだろうし、私は友人に対してそんなに写真ばっかり撮っても意味がないだろう、と思っている。写真なんて数回見返すだけではないか、撮って何になる(ここで写真を撮るため執筆を中断)


 さて、一人になってしまった。今日は別行動だが、さあどこに行こう。出発の前に買ったガイドブックをパラパラめくり、彌敦道(ネイザンロード)という香港の目ぬき通りを尖沙咀(チムサーチョイ)から佐敦(ジョーダン)、油麻地(ヤウマーテイ)、旺角(モンコック)、太子(プリンスエドワード)と北上していくルートで散策してみよう、と大方のルートを定める。途中に九龍公園や玉器市場や女人街もあるし、ひたすら一本道、これなら迷っても大きい通りのほうに出ればなんとかなるだろう。


 それにしてもWi-Fiは快適である。少しだけダラダラTwitterなどに興じ、日本の友人とやりとりを終えたのち、とうとうホテルの部屋を出る。外ではインターネットを使えないが、別に支障はない。困ったら駅やマックに駆け込めばFree Wi-Fiがあるのだ。便利な街である。


 そういえば、海外を一人で出歩くのは初めての経験だ。一人きりというのがこんなにも心細いものだとは……。


 高校の頃アメリカに行ったときは常に集団行動だったし、今回もずっと友人と過ごしていた。初めての一人という高揚感や不安感にワクワクドキドキハラハラしながら街を歩く。ちなみに、ホテルの部屋の鍵を持っているのは私であり、私が生還せねば友人が路頭に迷う。二人分の命が、私の肩に載っているのだ。


 さっそく迷った。バス停はどこだ。


 やっと尖沙咀行きのバス停を見つけた。香港のバスに時刻表はなく、「10〜15」などと書かれているのみである。これはバスが10分から15分おきに来るということであり、このほうがある意味では合理的かもしれない。料金も全て一律で百円から二百円、ここでの移動は大変安く済む。これに比べて福岡のバスや地下鉄の高さよ!しかしその福岡でさえも赤字であるらしい。こっちはどうやって利益を出しているのだろうか?


 バス停に佇み、周囲をきょろきょろと眺める。すれ違った人の悪臭に、ふと顔をしかめた。街ではタバコの匂いがひどい。タバコを指に挟んだ通行人や口に咥えた通行人がやけに多く、始終すっぱすっぱと煙を吐き出している。しかもここのタバコは心なしか匂いが強烈で、少し嗅ぐだけで頭痛がしてくる。ヘビースモーカーが近くにいると、吸ってもいないのにタバコの香りが漂ってくることもあるのだ。それに道端にはタバコの吸殻が至る所に落ちていて、はっきり言って大変不愉快である。タバコは嫌いだ。


 バスに乗り、車窓から見下ろす街は、古い建物と新しい建物が混在し、活気に満ちている。その中でかなり気になるのが、工事中の建物の足場がなぜか竹で造られていることだ。しかも地面に固定されているわけでもなく、DANGERと書いてあるテープがぐるぐる巻いてあるだけなのである。誰かが躓きでもしたら、たちまちどんがらがっしゃんとくずれてしまいそうで……怖いのでその下は避けて通った。


 バスを降り、九龍公園へ向かう。しかしまた迷った。こういうときは地下鉄の駅に入り、案内板を見るのだ。站と書いてあったら、それが駅という意味である。私も少しずつ読めるようになってきた。小心地滑と書いてあれば、足元が滑りやすいので気をつけろという意味だ。その後、気をつけていたはずなのにズルリと滑った。読めても読めなくても滑るものは滑る。恥ずかしい恥ずかしい。


 案内板のおかげで九龍公園に辿り着くことができ、中に入った。大都会の中に突然現れた熱帯雨林。最初の印象は、それであった。生い茂る樹木の枝からは気根が垂れ下がり、鳥が鳴き交わし、しかし木々の隙間からは高層ビルが見えるという、なんとも不思議な景観である。植物園に近いかもしれない。そして、広い。散策だけで午前が潰れた。


 散々歩き回っているうちに、ぽひゅう、ぽひゅうという鳴き声に導かれるようにして辿り着いた場所には、インコ、ペリカン、キジバト、その他様々な鳥たちがいて、どうやら植物園ではなく動植物園であるらしかった。インコの中ににもオカメインコやらセキセイインコがいて、彩り豊かで目にも賑やか。


 マックで紫薯ナントカ、要するに紫芋のソフトクリームを買い、食べながら歩く。百円マックはここでは5.5HK$マックである。


 向こうの池にドフラミンゴがいると聞いてびっくりした。日本でもドレスローザでもなくこんなところにいるとは。肩をいからせたドフラミンゴが「フフフフ!」と笑っているところを想像するとおかしかったが、よく読むとドフラミンゴではなくフラミンゴである。道理でおかしいと思った。


 ピンク色をしたフラミンゴが大量にいて、本当に片足で立っているので感動した。優れた平衡感覚だなあ!三半規管が発達しているに違いない。


 水場が近いせいか、バカ虫の大群が目の前に突然現れ、びっくりして思わず隣にいたおじちゃんと笑いあった。その流れで何事か話しかけられたが、広東語は聞き取れなかったので会釈して逃げ出した。申し訳ない。


 この外見のおかげで、街を歩いているとどうも現地人だと思われるようだ。客引きに絡まれることが少なくなるので助かるが、ということは、一発で日本人だと見抜いたハッパおじさん(一日目参照)はかなりのプロだった…!?


 二時間ほど歩き回り、公園を出て、彌敦道を北上していく。その途中、佐敦というところには男人街(大量の飯屋や土産物屋が集まった場所)があるらしい。腹も減ったことだし、飯屋を探すべく大通りを離れて狭い道へと踏み込んだ。


 目が痛い。空気が汚いのか、はたまた別の何かか、とりあえず外をずっと歩いていると目がしょぼしょぼしてくる。なんとなく沁みる感じがするので、空気が悪いのだろう。車は街中をぶいぶい飛ばし、排気ガスを天高く吹き上げている。ふと見ればタバコの火を消さずに灰皿に捨ててあるので、灰皿からはもくもくと煙が立ち上っている。街が煙るわけである。


 結論から言うと、完全に迷った。いい飯屋が見つからず、上海街やら何やらをうろうろし、佐敦の向こうにある玉器市場を探して歩き回ったあげく元の場所に戻ってきてしまったり(結局、玉器市場は見つからなかった)、やっと見つけた飯屋はすでに人が多すぎて入れなかったりして、結局また一時間ほどひたすら闇雲に歩き回った。おかげで足は棒のようになり、そして自分がどこにいるかもわからなくなってしまった。


 一刻も早く落ち着きたいと思って目に付いた飯屋に入り、ごはんの上に牛肉とキャベツと目玉焼きが載ったメニューを注文し、夢中で食べた。おいしかった。テーブルの上には前の客の食べカスが残っていたが、もう気にならなかった。


 綺麗なところで食べたければ少し高い店に行けばいいのだが、もう不潔さも気にならなくなってきたのだ。それに、せっかく来たのだから現地の人が食べているものと同じものを食べたいではないか。


 ごはんを食べ終わり、またうろうろしていると標識に旺角と書いてあった。どうやら、迷ったあげくホテルのあたりまで戻ってきてしまったようだ。仕方なくホテルに戻ろうとしたが、ここでまた迷った。


 ホテルがこの近辺にあるのはわかっているのだが、なぜか辿り着けないのだ。方向音痴もここまでくると病気である。女人街には辿り着けたが、一旦ホテルに戻って身軽になってから行こうと思ったので離脱し、また彷徨う。


 うろうろとしていると、香ばしい匂いが漂ってきた。匂いの正体は露店に売っている卵カステラのようなものであったので、ひとつ買って食べながら歩いた。梱包材のプチプチのような形をしていて、ちぎりながら食べるのである。中はホットケーキやパンケーキのようなもちもちの生地で、外側は焦げ茶色にカリッと焼かれていて大変美味であった。うまいものを食べると、迷っても心に余裕が持てる。これは大事である。


 迷子になったというのは自分の現在地がわからなくなったことを指すが、私は香港に来てから自分の現在地がわかっていた試しがなく、乗り物に乗っても今どこにいてどこに向かっているのか何もわからない。言い方を変えれば、三日間常に迷子であった。


 二時過ぎ、なんとかホテルを探し出して部屋に戻った。疲れた足をベッドに投げ出し、横になる。そして、なんたることか、そのまま寝てしまった。


 起きたのは五時半。三時間は寝ていたことになる。アホちゃうか。しかし寝たおかげですっきりしたので、友人と合流してから今度こそ女人街でお土産を買おう、と部屋を出る。


 女人街は両側に観光客用の露店が延々と立ち並ぶ通りで、その名の通り女性用のお土産が多いが、別に男性でも買えるものはたくさんある。


 女人街を通り抜け、一旦晩ごはんを食べる。韮菜水餃と酸辣湯麺と酸梅湯、メニューの内容は漢字でおおよそわかる。ちなみに酸梅湯はあんずジュースである。ここの韮菜水餃が最高に美味しく、食べているときの会話が

「これうまい」

「うめえ」

「うめえなこれ」

「うめえ」

という語彙力のないものとなってしまった。香港で食べた中でいちばんおいしかったかもしれぬ。これは今度香港に来たときも食べたいものだ。


 酸辣湯麺はスーラータンメンと読む。その名の通り、酸っぱくて辛かった。こちらに関しては辛くて熱くて食べているうちに汗が滴り落ちるほどであり、しかしそこで冷たくて甘いジュースを飲むことで熱い→冷たいと辛い→甘いという黄金サイクルを交互に繰り返すことになり、なるほどこれは無限に食べ続けることができるかに思われた。


 食べ終わって店を出て、女人街を散策。できるだけくだらないお土産を買うべく目を皿のようにして歩き回り、数十回の躊躇と凄絶な値引き交渉の末に超派手な柄のパンツを二着買った。これを日本の友人に渡したときの反応が楽しみである。おそらく履いてはくれないだろうが……。


 そして革でできたメモ帳と翡翠らしきもの(絶対に翡翠ではない)でできた飾りも買った。値引き交渉がだんだんと上達していくのがわかったが、残念ながら明日はもう帰国である。これを発揮する機会は、今後しばらくは訪れないだろう。コツは強気で行くことだ。


 名残惜しいが女人街を出て、パン屋へ。餅屋と書いてあったらパン屋である。そこで、ガイドブックの情報に従ってチキンパイとエッグタルトとマンゴープリンを買った。この三つは香港でもポピュラーなおやつであり、大変美味しいらしい。


 ホテルの部屋に持って帰り、部屋で食べる。チキンパイは中に煮込んだ鶏肉のシチューが入っていて、生地はパイよりタルトに近く、さくっとして絶品であった。エッグタルトはタルトと言いつつもパイ生地で、甘さ控えめカスタードクリームと相性がよく、これも絶品。おそらくパイとタルトの名前が逆である。見間違えたか……? そしてマンゴープリンに至ってはもはや説明も不要、ただただ黙って手を動かした。

「これうめえ」

「これもうめえ」

「うまそう」

「うめえわ」

 日本語が不自由になりつつあるが、特に中国語ができるようになっているわけではない。これではただ退化しているだけではないか。ひどい。


 部屋で荷物の整理を行う。明日の朝にはここを出て、日本に帰るのだ。買った陶磁器をトランクに投げ込んだが、日本に着く頃には割れていそうで怖い。空港でfragileの札を貼ってもらったところで、別段扱いが丁寧になるとは思えないのである(香港に着いたとき、荷物の積み下ろしをしているおじさんを見かけたが、どう見ても放り投げていたのだ)。念には念を入れて、衣服でぐるぐる巻きにしておこう。


 今日は結局玉器市場に行けなかったが、自分へのお土産もたくさん買えたし、おいしいものもたくさん食べた。満喫、と言って差し支えないだろう。


 それでは、明日の朝も早いことだし、シャワーを浴びて寝るとしよう。


 今日も素敵な一日だった。おやすみ。

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