香港 四日目

三月十七日(木)


 目覚めと共に寂しさが押し寄せてきた。


 狭く、足を伸ばしきることもできないベッドとも今日でお別れである。もっとも、ベッドが狭いのではなく私の足が長すぎるのかもしれないが。


 荷物をまとめ、部屋中を見直して忘れ物がないか確認したあと、チェックアウト。最後に部屋の中の写真を撮った。三日間、お世話になりました、パチリ。


 ホテルを出て露店で朝食を買おうとするも、串に刺さった何かを食べているおばちゃんが一人いるほかは店員どころか客の姿も見当たらず、迷った末に結局セブンイレブンでサンドイッチとお菓子を買ったのだった。


 お金を払って店を出ようとすると、店員さんに呼び止められた。何事かと思って振り返れば、なんということだ、お金だけ払って商品を置き忘れていたのである。香港において店の人は常に無愛想というか無表情あるいは何かを睨みつけるような顔をしていることが多いが、そんな中で店員が笑った顔を見たのは、これが最初で最後であった。


 友人にもばっちり見られていて、「お前何しとんねん」という極めて的確なコメントをいただいた。返す言葉もない。


 一日目にセブンイレブンで買った歯にくっつくソフトキャンデーは、お土産にしようと思ってもう一つ購入した。ちなみに昨日の夜、これを食べているとがりりという音がして、見れば歯の詰め物が取れていた。ハイチュウなどとは比べものにならぬこの威力……歯医者でも導入を検討してみてはどうだろうか。詰め物が一瞬で取れて便利に違いないぞ。


 旺角(モンコック)の喧騒ともお別れである。この賑やかでタバコ臭い街にも、三日泊まれば愛着が湧く。またいつか来よう、と心に決め、空港行きの快速バスに乗り込んだ。


 さすがは快速、ぶんぶん飛ばす。普通のバスでもぶんぶん飛ばすが、こちらはもっと豪快である。二階建てという重心の不安定なバスでよくここまでの速度が出せるものだとしきりに感心しつつ、サンドイッチを食べた。何気なく消費期限を見ると2016.3.16と書いてあり、おい、セブンイレブン、どうなってるんだ。これ昨日だぞ。


 こちらのサンドイッチは、パンにゴマが練り込んであるのとパンの耳を落としていないのを除けば、日本とほとんど変わらない。具はハム、トマト、キャベツ、きゅうり。おいしい。おいしいが、私は日本のサンドイッチのほうが好きだ。


 空港に着き、お土産を物色した。やっぱり旅行のお土産といえば箱に入ったお菓子でしょう! 香港ドルがかなり余っていたので、ここで数千円使い、謎のドライフルーツやパインケーキを買い込んだ。誰にあげようかな。

(追記:ドライフルーツは恐ろしくまずかった。好奇心は胃を滅ぼす)


 さあ、たくさん遊んでたくさん買ってたくさん食べた。旅も終わりに近づいている。お土産をトランクに詰め、荷物を預ける。受付の美人なお姉さんの制服と黒ストッキングについて友人と熱い議論を交わしつつ、とうとう出国ゲートをくぐった。

(注:友人の名誉のために申し添えておくと、議論の最中に友人が発した言葉は「うるせえ」と「黙れ」と「変態か」の三種類のみである)


 さらば香港。


 だだっ広い空港の中を搭乗口へ向かっていく。搭乗口近くは、たくさんの飛行機が遮蔽物なしで見える、なかなかいいスポットである。友人は大興奮、カメラを手にあっちこっち走り回ってパシャパシャと写真を撮りまくっている。変態か。写真部員とはいえ、どれだけ撮れば気が済むのか。こいつと違って私は文芸部員なので、感動は写真ではなく文として残すのである(ここで写真を撮るため執筆を中断)


 取り残された私はスターバックスに入り、ホットチョコレートを頼んでほっとした。hojicha latteとの二択でかなり迷ったが、まあ、ここまで来てほうじ茶を飲まなくともよいだろう。


 これ以上買い物をすることもないだろうし、残ったお札や小銭は記念に持って帰ろう。


 もちろん飛行機は遅れ(これがデフォルトのようだ)、ホットチョコレートがコールドチョコレートになった頃、やっと搭乗が始まった。密かな期待を抱いていたものの、隣に座ったのは残念ながらおばちゃんであった。絶世の美女とまでは言わないが、きれいな女性が隣に座ってくれる、なんてことが一回ぐらいあってもバチは当たらないだろうに。日頃の行いが悪いのだろうか?(そんなはずはない、と信じたい)


 機内食を貰う際、乗務員さんに「ちーろうふぁんはいしーみぇん?」と言われた。ここで、三日間で蓄えた知識を総動員する。「ちー」は鶏、「ふぁん」は飯であるから、つまり鳥飯だろう。「みぇん」は麺、そしてこの状況ならば「はいしー」はorの意であろう。「鳥飯か麺かどっちがいいか?」と聞いているのである。これを悟った私は猛烈に感動した。初めて中国語が聞き取れたのだ。万歳。その後「In English, please.」と英語で言いなおしてもらったが、想像通り「Chicken rice or noodle?」であった。嬉しい。


 鳥飯は相変わらずのおいしさである。チキンライスと言われたが、想像していたものとは全然違った。鶏肉と共に入っていたのは、ひじき! 白飯に鶏肉とひじきの煮込みが載っていて、これはもう和食そのものではないか。食後のハーゲンダッツまで食べ終えると、この上ない満足感であった。おいしいものを食べるということは何よりも幸せなことであるなあ!


 上海に到着したが、トランジットでものすごく待たされた。ここの手荷物検査はものすごく厳しく、行きがけに友人のジーンズ(日本なら引っかからない程度の金属しか使っていない)が引っかかり、金属探知棒で全身調べられたほどである。よって列も遅々として進まず、暇を持て余した私は友人に話しかけた。

「おれも金属の玉をふたつぶら下げてるけど、もしかしてこれ引っかかるんだろうか」

「うるせえ」

「引っかかったらどうしよう、まさか取り外すわけにも」

「黙れ」

 最近、私の扱いがぞんざいになっている気がしてならない。いつか厳重に抗議せねばなるまい。引っかかるほど立派なものは持っていないにしても、これはあんまりではないか!


 前を見れば、通る人全員に金属探知機がピピピピピピピピと反応し、係員が引っかかった人を呼び止めては金属探知棒を縦横無尽に振るっている。もう少し探知機の精度を下げてもよいだろうに。そしていよいよ友人の番が来たが、案の定引っかかっていた。次は私の番である。私は笑って、こう宣言した。

「華麗に素通りしてやるから見とけよ」

「はいはい」

 そして私は探知機をくぐった。


 音は鳴らなかった。

 探知棒を持った係員は、逆に驚いていた。私は、どうだ、とばかりに友人にドヤ顔をしてみせた。


 しかし友人はこっちを見ていなかった。がっかりしながら友人に自己申告したが、けんもほろろの反応である。許せじ。

「おい、素通りできたぞ」

「じゃあ、あれは取り柄とか長所とかそういうものに反応する探知機だったんだな」

「そういうのやめて」

「機械にさえ反応してもらえないなんて」

「泣きそう」

「いわんや人間をや」

「反語使うなや」

 まったくもって無礼極まりない。


 上海での待ち時間は長いので、お金を少し人民元に替えた。千円で三十三元とは、詳しいレートは知らないが、かなりのボッタクリではないのだろうか。


 ここ上海の浦東(プートン)国際空港では、そこらじゅうから日本語が聞こえてくる。日本行きの飛行機が出るからなのか、もう母国に帰ってきたようでなんだか安心できる。それにしても、旅先で日本人に出会うと話しかけたくなるのは私だけだろうか?


 搭乗時間になったが、当然ながら飛行機は遅れている。数十分待ち、やっとのことで飛行機に乗り込めた。いよいよ日本へ帰るのだ。機内で三浦しをんの「きみはポラリス」を読み耽り、とうとう読み終わってしまった。素敵な短編集だった。いつかはあんなものが書けるようになれるのだろうか。


 それからは、ずっと寝ていた。一回起きて機内食の鰻丼らしきものを堪能し、それからまた寝た。思いっきり楽しんだから、やっぱり疲れているのだろう。心地よい疲れだった。


 少し揺れて、もう一度目を覚ました。下にうっすら明かりが見えた。生まれ育って慣れ親しんだ、福岡の街の明かりだった。翼よ、あれが福岡の灯だ。


 飛行機を降りると、日本語の看板が見えた。簡字体でも繁字体でもなく、日本の漢字で書かれていて、それはたった三日か四日しか経っていないのに、なんだか無性に懐かしく感じられた。


 福岡空港で入国のスタンプを押してもらい、トランクを受け取って(なかなか流れてこなかったので、さてはロストバゲージかと二人で大いに焦った)、税関へ。税関で紙に記入しているとき、中国人の女性に話しかけられ、試行錯誤しつつ紙の記入を手伝った。


 その女性、どうやら文が読めない、あるいは字が書けないようなのである。日本へ出稼ぎに来たのだろうか。日本に生まれた我々はきっと、当たり前のように読み書きができていることに感謝しなければならないのだろう。このことに改めて気づかせてくれたあの女性が、日本で活躍されていることを祈る。


 国内線ターミナルに移動し、友人と別れた。大学で同じクラスになった友人で、今回の旅行ではいろいろと世話になった。いいやつである。これからも仲良くしていきたい、なんて言葉に出すのは恥ずかしいので、とりあえずぶんぶんと手を振った。


 もちろん、これで旅が終わったわけではない。家に帰るまでが海外旅行です。家に帰って「ただいま」を言うまでは気を抜いてはいけないのだ。


 そして、ああ、とうとう家まで辿り着いた。四日ぶりの我が家で、ソファに腰を下ろしてほっと一息。やはり故郷が一番である。妹から「家が狭くなった」とのお言葉を賜った。帰ってきてすみません。


 あと一言で、私の香港旅行は終わりを告げる。

 では、ご一緒に……「ただいま!」




 さて、ここまでお読みいただいた皆様には、感謝の念で溢れんばかりである。今後また、私の書き散らす駄文が目に入る場合もあるだろう。そのときはどうか笑って読んでいただければ、筆者冥利に尽きるというものだ。


 では「香港旅行紀」これにて完結!

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