引越 三日目


 三日目。

 昨日までと決定的に違う点がある。それは、もはや後がないということだ。

 一日目と二日目については、正直まあ予定通りに進まなくても次の日以降に取り返せるっしょ〜〜という謎の自信によってのんびり運転できた。しかし三日目、今日はもうハプニングなど許されない。なぜなら入居先に「本日の午後に到着します」と伝えてあるからだ。なんとしても今日中に(そして、できれば夜になる前に)辿り着かねばならない。



 朝起きて身支度を整えていると、部屋に備え付けられた大きな窓からは朝日に照らされてキラキラと輝く湖面が見えた。そういえば湖畔のホテルだったな……昨日は夜に着いたから景色も何もなかったけれど、こうして見ると実に素晴らしい。オーシャンビューじゃなくて……なんて言うの? レイクビュー?


 部屋の中を確認し、忘れずにリュックを背負い、颯爽とチェックアウトした。

 ここから鳥取市内を抜けて、あとは京都まで山道を走ることになる。とはいえ都市と都市を結ぶ道路がそこまで未舗装だとも考えにくい。昨日は「この先京都」みたいな看板も目にしたし、きっと走りやすく整備された道に違いない。

 朝の肌寒さにも慣れてきた。凍えながら走るのだって、三日目ともなれば耐性がついてくるものだ。ナビに示された到着時間は十二時過ぎ。快調快調。


 鳥取市内を走り抜けていると、目の前に「←鳥取砂丘」の看板が現れた。

 ちょっと寄り道して……一時間ぐらい……一目見るだけなら……という誘惑に打ち勝って、ナビに示された道を進む。本当は昨日の夕方には鳥取に着いて、そこで宿に荷物を置いて少しばかりの観光を楽しむはずだったのだ。砂丘だってたくさん見られただろうし、スナバ……じゃなかったスタバにだって行けたかもしれない。

 だけど今日は、寄り道してたら間に合わなくなっちゃった……が許されない。さよなら鳥取砂丘。


 バイパスに入ると、スリップ注意の看板が。昨日は海沿いを走っているときにこの看板を見た気がする。なるほど、砂丘から砂が飛んでくるからか。つまり、頑張ればここからでも砂丘がちらりと見えたりするのでは? と見渡してみたが、残念ながら砂丘らしき影は見えなかった。


 バイパスは海から離れ、山のほうへと伸びている。

 見る見るうちに周囲の景色が街中から田園、そして山地へと移り変わってゆく。たまにバイクの集団とすれ違う。ちょうどいいツーリング・スポットなのだろう。


 時刻は朝の八時。太陽の光はほのかに暖かさを伝えてくるけれど、山間ということもあってかそもそもの気温が10度を下回っており、いやあ寒いのなんの。

 たまらずコンビニに寄り、温かな飲み物やらお菓子やらを買う。ついでに、あまり期待せずに日用品の棚を見ていると……。

 見つけてしまった。

 カイロだ。コンビニに寄るたび探しては肩を落としていた貼るタイプのカイロが二つ、棚にぽつんと並んでいる。

 どれだけ探したことか! 三月下旬という時期からして、もうカイロなどとっくに店頭から撤去されていてもおかしくない。実際、これまで一度も見かけなかったのだ。すっかり諦めていた。

 それが! もともと気温が低いからだろうか、あるいはこの道を通るライダーに需要があるのだろうか……なんにせよ僥倖である。

 私はほっとレモンや焼きドーナツを放り込んだカゴにカイロを二個追加して、レジへ向かった。

 会計時に店員さんが「まだまだ寒いですからね」と微笑んでくれた。ええ、本当に……と答えて店を出ると、さっそく封を開ける。

 後ろの紙をぺりぺりと剥がし、私はカイロを膝に貼り付けた。

 両膝に一枚ずつである。不恰好というか不自然というか……しかしきっと遠目からみればサポーターやプロテクターのように見えなくもない。はず。


 ここまでの道中で、すでに私は看破していた。このバイクに乗っていてもっとも冷えるのは、膝だと。

 要は風をまともに受ける部位が冷える。そんなのは当たり前である。しかしヘルメットは風を通さないし、手にはいちおう革手袋をしているし、上半身はウインドブレーカーで防風している。問題は下半身である。そして、跨っている姿勢からして、真正面から風を受け続けるのは膝なのである。

 ここにカイロを貼りつけることにより、防風と防寒を同時にこなせる。

 偉大なるかな文明の利器!

 私は意気揚々と走り出した。


 カイロのおかげか、はたまた照り始めた陽のおかげか、いつしか寒さは肌寒さへとランクダウンしていた。

 綺麗に舗装された山道にはまばらに車通りがあり、それなりに使われている道なのだろうと思わせてくれる。ところどころに登坂車線もあるから、後ろに車が来れば道を譲ればいい。そんなにスピードを出す必要もない。

 景色を眺めながら――こんなに穏やかに走るのは二日目の朝以来だろうか――数時間、実にツーリングらしいツーリングをした。


 道端には時折、小さな駐車場のようなスペースが現れる。長距離ドライバー用の休憩スポットである。

 ありがたく使わせていただき、一休みしつつ買ったドーナツを食べた。「訳あり無選別ミックス焼きドーナツ」である。プレーンとココアの二種類の味が入っている。福岡では一度も見たことのなかったパッケージに興味を惹かれて購入したが、どうやら選んで正解だった。口の中の水分をすべて持って行こうとするタイプのドーナツだが、油っこくなくておいしい。

 しかし量が多い。驚きの360g、一口サイズのドーナツが二十個かそれ以上はぎっしり詰め込まれているだろうか。途中まで食べて断念し、残りは再びバッグにしまった。


 道中で「山田風太郎記念館」の文字を見かけ、再び寄り道の誘惑に襲われる。

 山田風太郎は一冊読んだことある程度だし……と自分に言い聞かせて通り過ぎる。記念館などという魅力的な場所への寄り道が、たった一時間やそこらで収まるわけがないのだから。

 しかし、このような旅行先での思わぬ出会いというのは大変いいものだ。以前金沢へ行ったときは室生犀星記念館を見つけてしっかり長居してしまったし、山口に行ったときは「中原中也生誕の地」の石碑を見つけた。

 それ単体を目的として旅行するには少し弱くとも、旅行先で見つけたらついつい寄りたくなる……そんな場所があると、人生は少しだけ豊かになる。気がする。


 誘惑に打ち勝って走り続けた私の目の前に、まるでご褒美のような看板が姿を表す。

 この先、京都府福知山市。

 京都府。ああ、京都府! ついに目的地の端っこに足を踏み入れたのだ。ナビによれば、目的地まであと二時間近く。700kmの道のりは、いつしか終わりが目前に迫っていた。


 福知山から亀岡へ。ついに京都市の隣の市に足を踏み入れたわけだ。この辺りまで来れば山道はいつしか田舎道へと変わり、春の陽気もあっていかにも牧歌的な雰囲気である。

 走行ルートの七谷川沿いでは桜が我が世とばかりに咲き誇っており、実にたくさんの人で賑わっていた。どうやら桜祭りが開催されているらしい。山の緑と空の青、薄ぼんやりしたピンクに散る葉桜の黄緑、わざとらしいほどに春の配色である。少しだけ桜並木を見ていっても罰は当たらないのではないか……と思ったが、結局素通りしてしまった。理由はシンプル、駐車場が激混みで駐めるところがなかったからだ。


 そしていよいよ京都市へ。

 超のつく方向音痴なので、自分がどこにいるのかあまりわかっていない。亀岡市って京都の斜め上だったっけ? という、この一言が既に方向音痴だ。なんだ斜め上って。

 自分が向いている方角を北にしないと地図が読めない。しかし、上が北でないと位置関係が把握できない。いったい何を言っているのだろう、と思われますか? 思った人は全力で感謝してください。自分が方向音痴に生まれなかった事実に。


 こんな有様でよく遠出する気になったな……と自分でも思うが、こうして辿り着けたんだからやっぱりナビはすごい。GPSはすごい。スマートフォンはすごい。つまるところ文明はすごい。


 遠く春霞の向こうに京都タワーが見える。つまり京都駅はあのあたり……そして今日入居する予定の家は地図で見ると京都駅の斜め下だから……と考えたあたりで頭がパンクした。方角の捉え方に問題がありすぎる。

 諦めて無心でナビに従うことにした。盲目でナビを信じていたらここまで来られたのだ。あとは最後まで信じ抜くだけだ。

 途中でナビの気が変わっていたら、私はいとも簡単にきさらぎ駅とかそこらへんまで連れて行かれていただろう。良心的なナビで助かった。


 ここからは呑気なものだ。

 街中を走っていると、両膝にカイロを貼り付けた自分の格好が徐々に恥ずかしくなってきた。とはいえもう目的地まで残り十五分。着いてから剥がせばいい。

 著名な観光地はだいたい京都駅より北に位置しており、今走っているのは京都駅より南側。何度か訪れたはずの京都だが、周辺の景色にはまったく見覚えがない。地名もわかりにくいし。

 自分が今何条のあたりを走っているのかもわからないまま、目的地だけが近づいてくる。

 そして。



 十三時。私はバイクから降りた。

 長かった。

 福岡を出て小倉、下関、萩、出雲、松江、鳥取……パンクして……忘れ物して……合計の走行時間は当初の予定をけっこう超過し、おそらく十七時間を超えただろう(なんせ途中で余分に行ったり戻ったりしたからね!!)。

 でも、これでいい。振り返ってみれば誰も撥ねず、何にも衝突せず……無事に五体満足で到着できた。じゅうぶんだ。

 旅行の目的は達成した。

「目的地周辺です。音声案内を終了します」

 ナビの声が途絶えた。

 目の前にある建物は、私が今日から住むことになっている物件に違いなかった。




 こうして私の引越しは完了した。

 部屋には送っておいた段ボールが積み重なっていた。荷解きをしないといけない……そう思いつつも、抗えずにベッドに横になった。


 ベッドに横になって、これまでの旅行を思い返してみた。

 香港。例の友人と二人で初めて訪れた海外。暴動やら何やらいろいろあって、今ではもう、迂闊に足を踏み入れていいものかどうかわからない。あそこで食べたお粥はおいしかったな、あの店が今でも営業していたらいいな、と無責任に思う。

 沖縄。なんでもない週末、授業終わりに駆け出して電車に飛び乗り、弾丸で飛んでいった。ネットカフェに泊まり、煙草のにおいが服から取れなくなった。今ではもう、あんな無茶はできない。今回が最後の無茶だ。

 中国。北京と西安。今の首都と昔の首都。パワフルでエネルギッシュな国だった。西安で食べた羊の串焼きはおいしかったな。一番印象に残っているのは空港でトイレを我慢したことだけども。

 韓国。人生の中でもっとも辛かった食べ物は、間違いなくあの冷麺だ。別の友人も加えた四人での旅行だった。みんな別々の場所に就職していった。もう会うこともないのかもしれない。

 イタリア。これまでで一番長い旅行だった。英語さえ覚束ないけど、案外なんとかなった。ついでにフランスにも寄った。乗り換えの待ち時間を利用して観光なんて、あの友人がいなければ思いつきもしなかっただろう。

 佐賀。真夏のツーリングキャンプ。きつかった。直射日光と路面からの照り返し。暑い時期にバイクで走るのは命がけだ。

 そして今回、福岡から京都までバイクで走った。暑い時期はもちろんのこと、寒い時期にバイクで走るのもよくない。凍え死ぬかと思った(これは自分の準備が悪かった)。まったく不便な乗り物だと思う。きつい、きたない、きけん、よくある3Kだ。だったら車に乗ればいい、本当にその通り。なのにどうしてバイクに乗ってしまうんだろう。それがわかるまで、もう少し乗っていようと思う。



 一日目で「最後の旅」と言っていたように、これで旅行紀は一旦終わりにしようと思う。

 社会人になってこんなにホイホイ旅行できるとは思えないし、あの友人も遠くに就職してしまったし。また旅行して、旅行紀が書けそうだったら、そのときは新しく「旅行紀:社会人編」とかを始めようかと思っている。社会人編はどうも語呂が悪いので社畜編とかにするかもしれない。縁起でもないことを……。


 最初は、ただのメモだった。

 香港に行くと決まったとき、ふと「もったいないな」と思ったのだ。どれだけ写真を撮って見返したって、きっと写真と写真の間の些細な出来事たちから忘れ去ってしまう。だから全部書こうと思った。全部。旅行中にあった出来事。知ったこと。考えたこと。とにかく全部書き留めてしまおう、と。

 結果として、メモ帳の中に旅行紀の原型みたいなのが誕生した。しかし、そうなると文芸部員の血が疼く。これ、少し手直しして体裁を整えればいい感じのエッセイになるのでは……。

 そうして旅行紀はインターネットに放流された。


 元が自分用のメモ書きだ。誰に読まれなくてもいいや、ぐらいの気持ちでいた。それがいつの間にかたくさんの感想やら応援コメントやらをいただいてしまって、嬉しいやら申し訳ないやらだった。

 改めてお礼を申し上げたい。

 ありがとうございました。







 けっこう多くの人が人生を旅に例えている。

 自分はまだ、こんなものだと例えられるほど長く生きてはいないけれど……確かに人生は旅に似ていると思う。

 思わぬ出会いがあればハプニングもある。自分の力ではどうしようもないことだって起こる。目的地まで楽に辿り着けることもあるし、途中で止まったり引き返したりもするだろう。最初に決めたルートなんて役に立たないかもしれない。

 結局のところ、道中を楽しめるやつが一番強いのだ。どれだけ失敗しても、途中ちょっとだけ落ち込んでも。楽しかった、と最後に笑えたらそれでいい。

 旅も人生も、そうでありたい。



 ここまで読んでくださった皆様の人生に、楽しいことがたくさんありますように。そしてこの旅行紀が皆様の「楽しいこと」のほんの一部になれていたのなら、こんなに嬉しいことはない。


 それでは、良い旅を!

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旅行紀:学生編 紫水街(旧:水尾) @elbaite

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