引越 二日目


 朝、六時半のアラームで目を覚ます。

 しっかり眠ったおかげか、煎餅布団から身体を起こせばやる気が身体の底から湧いてくるようだった。今日は予定どおりなら日没まで走ることになる。しっかりと休憩をとりつつ、楽しんでいきたい。


 コンビニで買っておいたパンと一本満足バーを水で流し込み、荷物をまとめてリュックを背負い、チェックアウト。

 フロントに降りて鍵を返した。フロントのおじさんはバイクと聞けば興味津々で、「私も昔は乗ってたんですよ」「京都まで? へえ〜」「今はこんな軽装で行けるんですねえ」などと頷きながら駐車場まで来てくれた。軽装すぎて寒さで後悔したことは言わずにおいた。

 そして私はバイクに跨ってから何かが足りないことに気づき、頭を触った。手触りのよいさらさらとした髪が指に触れた。いやヘルメット!!!!!!

 見送ってくれたばかりのフロントに戻り、頭に疑問符を浮かべているさっきのおじさんに事情を説明して部屋に取りに戻った。ヘルメットは座布団の上に堂々と鎮座していた。どうしてこれを忘れるんだろうか。

 もう一度確認し、今度こそ忘れ物なし。ヨシ!

(ここで「忘れ物をしないようにしよう」という決意をする)


 ナビアプリを起動し、颯爽と走り出した。

 朝の冷たい空気が肌に食い込む。やっぱりこんな軽装じゃ行けないよ! 寒いよ!!


 萩は海沿いの観光都市であり、ここから鳥取のあたりまではほぼ海沿いを走ることになる。天気は申し分のない晴れ。日本海沿いのドライビング・ロードは案外すぐに見えてきた。紺碧というにはいささか緑成分が足りないものの、左手側に広がっている海は実に爽快な色合いをしている。気持ちいいな〜〜!

 このためにこのルートを選んだのだ。頭の中で宮城道雄の「春の海」がべんべんと鳴り響いていた。あの曲のイメージは瀬戸内海らしいから、ちょっとだけ違うけれど。


 途中で小さな神社を見つけた。

 せっかくだからバイクを駐める。鳥居の前で一礼。鳥居の真ん中は神様の通り道だから、くぐるときは端のほうを。手を清めて、賽銭箱の前に立つ。お礼参りがしにくい場所にあるため、お願い事はしない。ただ「お邪魔します」とだけ念じて一礼。

 これが大まかな自分の(我が家の)お参りルールである。

 友人と初詣に行ったときは、皆少しずつ違った。やっぱりローカル・ルールがあるのだろうか。まあ結局のところ、大事なのは敬う気持ちが込もっているかどうか。そういうことじゃない? そういうことだと思います。

 マナーもそうだと思う。相手のことを思いやる気持ちが大切。そのはずなんだけど……これから社会人になって遭遇するであろう謎マナーたちに思いを馳せると胃が痛くなってくる。富豪村を百回読み返せと言いたい。


 いつのまにか山口県を抜け、島根県に入っていた。

 順調なペースだ。この調子で進めば昼過ぎには松江に着くし、夕方には鳥取に着くだろう。頑張れば夜に京都に着くことも可能だ。一晩で東京、いや、ロサンゼルスまでだって行けるかもしれない。でも夜に山道を走りたくはないので鳥取のあたりで一泊するのが正解かもしれない。どのあたりに宿を取ろうかな。

 などと、国語の授業に「取らぬ狸の皮算用」の例として出てきそうな妄想をした。


 途中でコンビニに寄ってホットな飲み物を買ったりしつつ走り続けていたが、正午に近づくと気温が上がり、走っていて気持ちのよい風が吹き始めた。道は海沿いから外れ、だんだんと建物が増え、賑わいを見せ始める。イオンとか。イオンってばマジでどこにでもあるな。


 せっかくだし昼食はご当地っぽいもの……としばらく周囲を見渡しながら走っていたがちっとも見つからず、空腹が風雲急を告げ始め、結局チェーン店「神立食堂」を見つけたのでそこに決めた。お腹が空いたので仕方がない。

 このチェーン店は少し独特で、別の店だと店名の「神立」の部分にそれぞれの地名を冠することになる。例えば「四条大路食堂」とか。正式名称は「まいどおおきに食堂」らしい。全国展開だから私の地元にもある。

 棚に並んだおかずを自分で取ってレジで支払う学食形式で、大変安くてうまい。お気に入りは茄子の煮浸しと白身フライである。

 

 昼食をとり、ぷっくりしたお腹をさすりながらバイクに跨ると、黒い座面は日光をしっかり吸い込んで大変よく発熱していた。天然のヒーターだ。走っていると少し肌寒いので、これはむしろありがたい。


 出雲あたりに差し掛かり、そういえば今日も夕方になると寒くなるだろうな……と思い始めたところで、視界に入ったのはセカンドストリート。いわゆる古着屋である。

 私は閃いた。そうだ、古着屋で上着を買えばよいのだ。安くていいからあったかいやつを。もっと早くこうしていればよかったな。よし……とハンドルを傾けて駐車場に入るとき、「ゾリリ」と嫌な感触がした。


 余談だが、私の特技はタイヤを破壊することだ。

 これまで乗っていた自転車はあり得べからざる頻度でタイヤがパンクし、時にはスポーク――タイヤのハブ(中心)から四方に伸びてタイヤを支えている細い針金――が自然に脱落していくこともあった。漕いでいたら「チャリン」という音がして、見れば道に銀色に輝く針金が落ちているのである。意味がわからない。まったくもって原因不明。しかし、事実として私が乗る自転車のタイヤは高頻度で壊れる。

 自転車のみならず、原付でもそうだった。数年、それも短距離の通学ぐらいにしか使わなかったのに二度ほどパンクしている。

 このジンクス(?)が今乗っている250ccの中型二輪にも当てはまるか否か。これまではパンクしていなかったからか、私はすっかり油断していた。この体質のことも半ば忘れかけていたのだ。

 しかし、あの感触は忘れようもない。

 パンクしたタイヤに気づかず曲がろうとすると、滑る。道路とタイヤが滑るのではなく、タイヤそのものが変形するような形で滑るのだ。それはハンドルを握る両手に奇妙な感触を残す。数度しか味わったことはないが、忘れるほうが難しい。なにしろ過去には迫り来るバスの前でこれをやって転倒しかけたのだから。


 つまるところ、この余談はまったくもって余談などではない。

 私は確信を持ってバイクから降り、タイヤを覗き込み、溜息を吐いた。

 ここで来たか…………。


 前輪が見事にひしゃげている。


 まずGoogle mapで近所にバイク屋がないかどうか探した。二軒見つかったのでそれぞれ電話をかけてみる。両方出ない。なんやねん。

 次に、近所のガソリンスタンドまで歩いていった。「パンク修理できますか?」と訊くと奥のほうであれこれ相談していたが、やがて「できません……」と大変申し訳なさそうに謝られてしまった。

 それから、保険屋に電話をかけた。こういうときのためのバイク保険だ。呼び出し音のあとに「○○の方は1を、××の方は2を押してください」のような音声が流れる。よくあるタイプだ。操作していくと、やがて「お繋ぎします」のあとにコール音が鳴り響く。コール音が響く。コール。響く。コール……出ろや!!!!

 電話をかけ始めてから十五分。

「ただいま回線が混雑しています」を何回聞いたか数えるのを諦めて、私は電話を切った。

 万が一のときのために加入してんのに、万が一のとき繋がらなかったら意味がないんですよ。聞いてますか■■■■■■保険(さすがにアレなので伏字にしました)!


 近くのバイク屋が電話に出ないのは修理中とか取り込み中とかだろうか。もしかしたら店先には誰かいるかもしれない……と淡い期待を込めて歩いていった。誰もいなかった。


 心配しているであろう親に電話して状況を伝えたりいろいろしつつ、ちょっと離れたバイク屋に電話した。こっちは電話に出てくれて、持ってくれば修理してあげるとのこと。どうやって持っていこうかな……と悩んだが、保険屋のレッカーが使えない以上、手はひとつしかない。

 幸い、釘などを踏んだわけではなさそうだ。ガソリンスタンドで空気だけ入れてもらい、原付よりも遅いぐらいの速度で道の脇をのろのろと走ってバイク屋へと向かった。


 到着したバイク屋は別の単車の修理中だったため、店内でのんびり待つこと三時間……午前の疲れをほぐすため体操などをしつつ、ついでに宿の予約を済ませた。鳥取市外の温泉地に湖畔のホテルを見つけたのだ。大浴場付きなのに一泊三千円以下。念のためGoogleの予測変換も調べてみたが、

 ○○ホテル

 ○○ホテル 幽霊

 ○○ホテル 事故物件

 ○○ホテル 出る

みたいな感じではない。バンザイ。君に決めた。


 とか何とかやっているうちにようやく修理が終わった。どうやらタイヤチューブの経年劣化だったようだ。まあ中古で買ったからしょうがないよなあ、と思ったのも束の間、続いてバイク屋さんの口から滔々とこのバイクの劣化ポイントが流れ出し始めた。ベアリング。ブレーキの片当たり。チェーン。タペット。その他その他。

 総評:いろいろヤバい。

 出発の前にメンテナンスしてもらった気がするんだけどな。気のせいか?


 なんにせよ、京都まで保つかどうかは(たぶん大丈夫だとは思うけど)なんとも言えないとのこと。急にスリリングになってきたな。

 私は言われた額の料金を払い、バイクに跨った。安い。ちょっとおまけしてくれたのかもしれない。油を差してチェーンも調整してもらったためか、心なしかエンジンも気持ち良さげな音を立てている。

 時計を見れば、いつの間にか午後四時。四時間ちょっと走れば鳥取の宿に着くから八時到着予定か、まあ悪くない悪くない。傾きかけた日に目を細めつつ、走り始めた。



 ハプニングは終わらない。



 さて、パンク修理を終えた私は気を取り直して元のルートに戻り、鳥取へとバイクを走らせていた。

 予約した宿まではのんびり走っても五時間かからずに着く。ナビのお墨付きである。表示されている距離に比してなんだか所要時間が短い気もするが、いや、気のせいだろう。気のせいだと信じたい。


 そういえばパンク騒ぎのせいか上着を買い忘れていたため、夕方、だんだんと寒くなってきた。このまま夜になるととてもまずい。凍死する。

 宍道湖のあたりに差し掛かったときショッピングモールを見つけたので、駐車場にバイクを駐めて立ち寄った。わしゃわしゃした材料のウインドブレーカーが見つかったので購入し、すぐ着るからとタグを切ってもらった。

 駐車場でリュックを下ろし、羽織って首までしっかりチャックを上げる。いい感じにフィットしている。そのまま発車してしばらく走ってみたが、上半身に感じていた風はほぼ完全にシャットアウトされていた。膝や指などは冷たいままだが、かなり快適になった。もっと早く買っておけばよかったな。


 夕日の差す宍道湖沿いを走り抜けていく。宍道湖については、一度だけ家族旅行で訪れたことがあるからこれが二度目だ。あのとき食べたしじみ汁は、紛うことなき泥の味がした。味のインパクトが強すぎてそれしか印象に残っていない。


 しばらく走っていると、ナビが不穏な道を指し示した。

 山陰道? これ、高速道路では?

 見れば”無料区間”と書いている。なるほど、ナビの設定で有料道路を省いているから……無料道路なら遠慮なく使うのか……無料区間……なるほど……。

 バイクで高速を走りたくないからわざわざ下道で行こうとしていたのに、無料区間だからといって高速を使われては意味がない。アクセルを全開にして、時速80km制限の看板、時速100km以上でぶんぶん走る車たち、茜色の空、それらすべてを視界に収めて私は思いっきり叫んだ。

「嫌だ〜〜〜〜〜〜〜〜!」

 全力で叫んだ。絶叫は風とエンジンの音にかき消され、後方へと流れていった。


 何分走っただろうか。周囲の車に合わせて走っていると、エンジンから不穏な振動が伝わってくる。そもそも街乗り用のバイクだ。時速60kmのあたりが一番気持ちよさそうな音で回る。それを超えると、「無理してまっす」みたいな音が出る。

 風もすごい。姿勢によっては風圧で首が持っていかれそうになる。

 有料区間が近づいてきて、ナビが「700m先、左方向です」と高速から降りるほうの道を示したとき、心底ほっとした。別にナビに従わず勝手に降りて下道を行けばよかったのだが、それに気づいたのは京都に着いて旅行紀を書いているとき(つまり今)である。疲れてると判断力って鈍るんだなあ……。


 高速を降りるあたりでいつの間にか白バイが斜め後ろにやってきていた。幅広の車体を軽々と操っており、実にかっこいい。

 それにしても、警察が近づいてくるとドキドキするな。何も悪いことしてないのに。


 さて。

 高速を降り、ようやく一般道に戻れた……と赤信号で停車して肩をぐりんぐりん回した私は、なんだか奇妙な違和感を覚えた。

 肩が……軽い?

 まるで何も背負っていないかのように。

 背負っていたリュックの重さを一切感じない。

 まるでそこに何もないかのように。

 いつの間にかリュックが天使の羽ランドセルにすり替わっていたかのように。


 混乱した頭でしばし考え、私の口からは「は?」という間の抜けた声が飛び出した。

 左手で背中をまさぐる。

 ない。

 福岡を出発したときから背負っていたはずのリュックサックが、影も形もない。


 いやいやいや。

 リュックサックがないなんてことはないだろう。だってリュックサックは背中に背負うものであり、背中に存在すべきものだ。背中にリュックサックがないなら、いったいどこにリュックサックがあるというのだろう? 背中にないリュックサックはもはやリュックサックと呼ぶべきではない。やれやれ。僕は溜息を吐いた。


 とりあえず近くのコンビニの駐車場に駐め、状況を整理した。

 ひとつ。リュックサックがない。

 ふたつ。ないと困る。

 以上。


 ダメだ。頭が働かない。あのリュックサックには四月から入社する予定の会社に提出する誓約書など諸々の重要書類、銀行印、銀行通帳、実印、お土産の博多通りもん……財布とスマホを除くありとあらゆる貴重品が入っている。なくなると、あれだ。なんていうか、とても悲しくなる。


 どこからリュックが消えたのか確かめるために、朝からひとつずつ行動を思い返してみた。さすがに宿を出るときは忘れていない。昼食をとるとき背中から下ろしたのも覚えている。バイク屋の店内で抱えて座っていたから、そこまでは持ってきている。その後、上着を買うときも背負っていた。なぜなら買った上着を着るときに一度リュックを下ろしたからだ。


 …………。


 理解した。

 私の頭の中には既に事実と寸分違わぬ推論が描けている。IQ五千兆ぐらいあるからな。

 つまりはこうだ。


 上着を買う

→駐車場に戻る

→リュックを足元に下ろす

→上着を羽織る

→チャックを閉める

→バイクに跨る

→エンジンをかける

→発車する

→リュックが駐車場に取り残される


 ほぼ間違いないだろう。私はさっき買い物をした店に電話をかけた。

「はい。○○、××店でございます」

「あのぉ……先ほどそちらの店で買い物をさせていただいた者なんですがぁ……実は駐車場にリュックサックを忘れてしまったみたいでぇ……ちょっとリュックがあるかどうか確認していただくことってできますかぁ……?」

 私が店員ならこの時点で受話器の口の部分を押さえて(面倒な電話が来たな)と舌打ちをしていることだろう。しかしこの店員さん、親切なことに口頭で大まかな駐車位置を伝えると、駐車場まで確認しに行ってくれたのだ。

「しばらくお待ちくださいね」

「ありがとうございます」


〜ドキドキ待ち時間〜


「ないですね」

 そっか〜〜ないか〜〜そこにないならないよなあ〜〜と天を仰いだ。

「あのぉ……落し物として届いたりとかは……」

「確認します。しばらくお待ちくださいね」

「ありがとうございます」


〜ドキドキ待ち時間〜


「届いてないですね」

「そうですかぁ」

 私は丁重にお礼を述べ、自分でも探してみる旨を告げてから電話を切った。

 まだだ。まだ慌てるような時間じゃない。

 広いショッピングモールだから他の店に落し物として届いている可能性もあるし、店員さんが見落としている可能性もある。諦めるより前にとりあえず戻ってみるのが先決だろう。

 私はナビアプリでさっき行った店を探した。

 ここからたったの30km。サンジュッキロ。サン・ジュッキロ大聖堂。


 いや遠いわ! どうして背中にリュックサックの重さがないまま平気で30km走ってしまうのか。もっと早くに気付いて然るべきではないのか。


 頭の中で初代プリキュアが「一難去ってまた一難」と歌い始めた。

 ぶっちゃけありえない。本当にありえない。


 というわけで、私は30kmの道のりをリュックが本当にそこにあるかどうかという不安と戦いながら走って戻ることにした。

 走りながら考えていたのはただひとつ、「焦るな」ということ。いや、めちゃめちゃ焦っていたのだけども、スピードは出さなかった。ここで余裕を失って事故ったりしたら今度こそ取り返しがつかなくなるからだ。荷物については最悪、まあ、紛失してもなんとかなる。内定取消しぐらいで済むだろう。

 だけど、万が一事故って身体の一部が紛失しようものなら、どう考えてもなんとかならないからね。


 来た道を戻ることの何が嫌かって、ようやく高速を降りたばかりなのにまた高速に乗るのか……という、もう、ただひたすらにそれだった。高速、乗りたくない。だけど乗らないと、渋滞している下道なんか通ろうものならもっととんでもない時間がかかるだろう。


 再び、「嫌だな〜〜〜〜〜〜!」と叫びながら高速を走る。

 丁寧に丁寧に来た道を戻る。

 高速を降りても先は長い。本当に遠い。さらに日が沈んで寒さが増していく。買ったばかりの上着のおかげで昨日よりは暖かいが、巨大な湖のほとりを走っているせいか、風が異様に強い。守られていない下半身および手首から先が徐々に凍え始めた。

 そしてさすがは国道、交通量の多さと片側一車線、当然の帰結として道が渋滞しておりちっとも先に進まない。

 このときの心理状態といったら!

「リュック見つからなかったらどうしよう」が頭の中をぐるぐる駆け巡り、「どうして気づかなかった」「どうしてこんな無謀な計画を立てた」「お前というやつは」という罵倒が響き渡る。久々に経験する、とんでもない失敗だ。

 まあいい。社会人になってからの予行演習だと思おう。

 (と、旅行紀を書いている今なら余裕ぶって書ける。当時はもう本当にそれどころではなかった)


 そしてショッピングモールにようやく帰り着き、いざリュックを探しにさっき駐めていた場所へ。見渡す。しゃがんで車の下を覗く。あちこち歩き回る。

 ないな。これはない。うん。ない。

 そこになければないですね、と脳内のダイソー店員が頭を下げる。

 そんなことがあってたまるか。私は駐めていた場所から一番近い店を探した。丸亀製麺だな。丸亀製麺に落し物として届いているかもしれない。

 暖簾をくぐり、店員さんに「あのぅ」と声をかけた。

「リュックサックの落し物は届いていないでしょうか……?」

 店員さんの目が何かを思い出したように泳ぐ。

「少々お待ちください」

 奥へ引っ込んでいった店員さんの声が漏れ聞こえてくる。

「そう……リュック…………さっきの……お客さん…………」

 これはアタリなのでは? いや、まだだ。期待すればするほど叶わなかったときの絶望が大きいことを、私は経験からよく知っている。期待するな。しかして希望は捨てるべからず。


「これですか?」

「それです!!!!!!!!」


 見つかりました。

 旅行紀、完。


 店員さんが持ってきてくれたのはところどころがほつれ、くたびれたボロボロのリュック。それは長きにわたる大学生活で苦楽を共にし、福岡からここまで背負ってきた愛しのリュックちゃんに間違いなかった。

「アア……ヨカッタ……」とリュックを抱きしめる私を見て、初老の店員さんは孫を見るような笑顔で頷いてから厨房へと戻っていった。


 あまりにも嬉しかったので「ついでに食べていきます」と宣言し、牛すき釜玉うどんを注文した。

 食べてから確認したが、中に入っていたものはすべて無事だった。


 ようやく人心地ついた私は家族に連絡したりTwitterで呟いたりしてからリュックを背負い、立ち上がった。これから再びあの高速道路を走り、余分に走った60kmの遅れを取り戻し、鳥取へとたどり着かねばならぬのだ。既に日は没し、セリヌンティウスも磔にされた頃である。


 店を出て、さっきウインドブレーカーを買った店を訪れる。店員らしき人を探せば、おばちゃんが一人レジの奥に佇んでいた。

「先程リュックをなくしたと連絡した者ですが……」と名乗ると、おばちゃんは「ああ〜〜!」と頷いてくれた。どうやら電話に出て応対してくれた人で間違いなさそうだ。

 リュックが見つかったことを伝え、謝罪しつつ丁重にお礼を述べると、おばちゃんは驚きつつも「見つかってよかったですねえ」と嬉しそうに頷いてくれた。


 店を出て駐車場でバイクに跨る。背中のリュックを確認する。ちゃんとある。よし! 出発!


 短時間のうちに宍道湖のほとりを行って、戻って、また行く。なんだこれ。景色もそこはかとなく見慣れてきた。しかし夕方、日没、日没後とどれも異なる空の色をしており、湖面も当然それによって様々な色合いを見せてくれる。悪いことばかりではないのかもしれない。


 高速に乗り、叫び、高速を降り、ようやくリュックがないことに気付いた交差点まで戻ってきた。時刻は七時前……鳥取到着は九時か十時になるだろうか。ホテルのチェックイン時間を念のため十時にしておいてよかった。

 予定通りに進まないことを計算に入れた上で予定を立てる。大事だね。


 そしてしばらく下道を走る。

 見かけたコンビニで軽食と、それからホテルの周辺にコンビニがないことも考慮して晩ごはんになりそうなものも買っておく。それにしても道が混んでいる。鳥取ナンバーの車も徐々に増えてきているから、ちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれているのかもしれない。

 とはいえ一日目に萩に向かっているときは周囲に車が一台も見当たらず、本当に正しい方角に進んでいるのか不安で仕方なかったわけだから……こっちでいいのか、と安心できるのはありがたい。みんなと一緒がいいんですよ。日本人だから。


 そのまましばらく走ってから気づいた。やはり、この速度でこのペースだと到底ナビが示す時間には間に合わない。

 まさか……という私の懸念は、やがて見事に的中することになる。

 無料区間との再会である。

 私はもう叫ぶ気力もなく、黙って高速を走り出した。

 鳥取まで向かう山陰道の残りはすべて高速道路である。道理で距離に比べて到着時間が早いと思った。


 あと50km……47km……45km……とちまちま減っていく数字だけを生き甲斐に、夜の高速をひた走る。周囲には荷物をたっぷり積んでそうなトラックが増えてきて、なるべくトラックから離れようとしてもあっちにトラックこっちにトラック、なるほどこれが前門のトラック後門のトラックか。

 最近はトラックに撥ねられると異世界転生できるらしいが、それは往々にして自分が歩行者だった場合である(注:自分調べ)。バイクに乗ったままトラックに衝突したらどうなるんだろう。バイクごと転生するのだろうか。あるいは「転生したらバイクでした 〜最強美少女たちが俺に乗りたがって困る〜」とかになるのかもしれない。なってたまるか。


 夜に薄着で時速80kmを出すとどうなるか、聡明なる読者諸賢は既にご存知であろう。

 寒い。

 膝より下の感覚がない。ヒートテックとの二枚重ねは防寒にはなっても防風にはならない。

 指の感覚もない。革手袋を突き抜けて風が体温を奪う。グリップヒーターからの熱より、風によって奪われる熱のほうが多い。

 トンネルに差し掛かったときだけ生きた心地がする。どうしてだろうか、トンネル内は外よりも明らかに気温が高いのだ。生温い空気が大きなファンでかき混ぜられており、トンネル内を走っているときだけ全身がぽかぽかの毛布に包まれているような心地である。

 トンネルが見えてきたら入り口の看板で距離を確認する。数百mだとすぐに暖かな時間は終わってしまう。2kmなんて書いてあった日には大喜びである。


 そんなこんなで鳥取まで20km、パーキングエリアで休憩をとる。

 自販機でアチアチのコーンスープ缶を買って、太腿のあいだに挟んだ。あとふたつ買って脇の下にも挟んでおくべきかもしれない。熱中症のとき冷やす場所、すなわち大きな血管が通っている場所。そこを温めれば体温も効率的に上がるに違いない。

 体を動かす。念のためリュックは下ろさず(同じ轍は踏まない)ストレッチをしてラジオ体操をして、強張った全身をほぐす。ずっと同じ姿勢でいることに加え、何かひとつミスしたら死ぬという緊張感が常に体をガチガチにしている。慣れてきてこの緊張感を失った頃が一番事故に遭いやすいとは言うけれど。


 再び走り出す。パーキングエリアから本線に戻る道への表示がわかりにくく、なぜかもう一度パーキングエリアの入口に戻ってきたりした。そんなことあるか?


 鳥取までの距離が少しずつ減っていくと同時に、青い看板に「京都」の文字が現れ始めた。この先をずっと行けば、京都。京都! 歴史ある古都。重要文化財。ぶぶ漬け。私が四月から住み始め、働き始める場所だ。

 福岡を出て苦節二日、ついに目的地が看板に表示されるようになったと考えると感慨深いものがある。


 鳥取まで数キロの時点でナビから高速を降りるよう指示される。どうやらホテルは鳥取市内ではなくその少し手前にあるらしい。

 長らく走ってきた山陰道に別れを告げ、下道へ。速度感覚が麻痺しているので、ものすごくのんびり走っているつもりでもメーターを見たら時速60km出てたりする。

 五分も走れば目的地が見えてきた。湖畔の大きなホテル。修学旅行とかで使いそうな感じがする。どうしてあんなに安かったんだろうか。十中八九例のウイルスのせいだとは思うけれど。


 駐車場にバイクを駐め、フロントへ。名前やら住所やらを記入し、検温すると何度やっても34度台が出る。「おかしいですねえ」と首を捻るフロントの人に、「ずっとバイクで走ってきたんで……」と釈明した。


 部屋に入るや否や荷物を放り出し、大浴場へ。

 貸切だ!!

 他に客もいないため、大きな風呂を一人で使いたい放題である。浴槽で泳いでもいい。泳ぐか。掛け湯をして、体を洗って(誰もいなくてもマナーは守ろう)飛び込んだ。泳いだ。いいですか、守るべきマナーもありますが、時と場合によっては守らなくてもよいマナーが存在するのです。

 体がほぐれていく。心臓が脈打つたび、血液に乗って、冷え切った体にぎゅんぎゅん熱が伝わっていくのがわかる。

 ああ、溶けそう。


 しっかり堪能してから部屋に戻って、コンビニで買っておいたパンを食べた。

 食べたら眠くなった。


 寝る前に明日のルートを見返す。230kmぐらい。いろいろハプニングこそあったものの、福岡から京都まで700kmを三日で走るわけだから、ペースとしてはそこまで悪くないだろう。

 明日は何のトラブルも起こらずにあっさり辿り着けるといいな……。




 というわけで二日目終了。

 ここまでで一万一千字。長いな。過去の旅行紀を見返してみるとだいたい一日あたり三千字から六千字である。一日分の日記で一万字を超えたのも初めてだったから、文句なしの最長である。

 前後編に分けるべきだったかもな……と、ちょっとだけ思った。長すぎて読みにくかったらごめんなさい。

 それではまた明日。

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