イタリア 六日目

3月22日(木)

ヴェネツィア→ローマ


 目が覚めた。とりあえずカーテンを開けて外を眺めてみる。

 おお、すごい。朝日に照らされたヴェネツィアは素晴らしく綺麗である。運河がキラキラしている。キラキラ系女子だ。


 もう一度書いておくが、このホテル、一泊五千円である。

 内装も風景も高級感で溢れ返っているというのに、その上朝食ビュッフェ付きということだ。いまだかつてこんな豪華なホテルに泊まったことはない。なにしろ四つ星である。四つ星! はーっ!

 普段泊まっているホテルで星の数なんて気にしたことがなかったからどのくらいすごいのかわからないが、きっとけっこうすごいのだろう。朝食会場に向かうのも少し不安である。テーブルの横にギャルソンが立ってたらどうしよう。フィンガーボウルの水を飲まないようにしないと、いやそれフランス……と頭をぐるぐるさせつつ一階へ。


 朝食会場には「退職して時間と金を持て余した老夫婦」みたいなのがたくさんいて、それはもう上品にナイフとフォークを使って優雅に朝食をとっていた。ビュッフェというとバイキングよりも上品な感じがする。

 どうすればいいのだろう。何から食べなければならない、的なマナーがあったりするのだろうか。我々は血眼で周囲の客を観察し、なるべく周囲と同じような行動をとることにした。


 おそるおそる皿を手に取る。あまり大量に載せると周囲から卑しく思われそうなので、高級フレンチレストランの皿のようにちんまりと盛り付けてみた。しかしこれだと何度も席を立たねばならない。逆に卑しく思われてしまいそうだ。

 おまけにフロアをうろうろとしているウェイターさんが、隙あらば空いた皿を下げにかかってくる(おまけに、下げたあと新しい皿とナイフとフォークを持ってきてくれる)。もう申し訳なさの塊である。


 しかしうまい。ピザとパスタしか食べていなかった反動で昨日はマクドナルドを食したが、マクドナルドは料理というより軍隊用レーションに近い(?)。しかし、この朝食は紛うことなき料理である。ピザでもパスタでもない、きちんと栄養があり、様々な味を楽しめるのだ。なんという幸せ。

 おなじみのハムやベーコンやらを楽しみ、野菜を摂り、パンやクッキーをいただき、さあデザートだ。切り分けられたフルーツタルトがワンホールどっかり置かれており、タルト大好き人間の異名を持つ私としては見逃すわけにはいかない。

 一切れとって席に戻り、口に入れてみる。とろけんばかりの甘味が暴れまわり、舌触りなめらかなクリームと蜜の染み込んだタルトはホロホロと口内で崩れて余韻だけを残しつつ去っていく。これが天国でなくて何だというのか。感動だ。幸福とは口の中にあるものと見つけたり!

 結局二切れ食べた。満足。


 部屋に戻って朝食の余韻にしばらく浸り、荷造りを始めた。いやあ、いい部屋だった。もう二度と泊まることはないであろう。万が一来るとしたら、次は定年して時間とお金の余った老夫婦の夫のほうになってからだ。婦のほうになることは……きっとないだろう。余程のことがない限り。

 チェックアウトして房飾り付きの鍵を返却する。重い扉を押し開けて、街に踏み出した。

 さようなら、フォスカリ パレス。さようなら、四つ星ホテル。さようなら。


 太陽の光できらきら輝く運河を水上バスで進んでいく。両側に広がる建物と建物の間には細い水路があったりして、水中から標識が突き出している。何か書いてある。あれは制限速度だろうか?

 大きな水路との分かれ道には、信号まで備え付けてあった。


 ローマ広場駅で乗り換えて、ベネチアングラスの本場ムラーノ島へ。お土産によさそうなものが見つかるといいが。

 ムラーノ島に着いて、降りたあと街をぐるぐる散策してみた。フィレンツェやヴェネツィアでは、ローマで感じたような治安の悪さはすっかり影を潜めている。いいことだ。いや、このあとローマに戻るからよくはないんだけど……。

 道の両側に立ち並ぶ店は、ほとんどがガラス細工の店である。本場ってそういうこと? いくらなんでも競合他社が多すぎるのではないだろうか。

 そして、私の心許ない財布で買えるのはせいぜい謎のペンダントとかネックレスぐらいしかない。しかも、どれもこれも日本でも売ってそうなデザインだ。下手したらダイソーでも買えそう。ダイソーで買えそー。はい。


 今日はよく晴れていて、ぽかぽかとした素敵な日だ。公園には小さな蛇口があって、水が出しっぱなしになっていた。どうやら鳩用である。まるまる太った鳩が水浴びをしながらふてぶてしくこちらを見上げてきた。

 ヴェネツィアは特にそうだが、街中の鳥が非常に図々しい。これは観光地にありがちなのだが、「どうせお前ら餌くれるんやろ」とばかりに近寄ってきて、何もしなかったら「なんや冷やかしかい、ケッ」と去っていく。イタリアに来てからというもの、鳩、雀、そして鴎、どいつもこいつも我が物顔で街をうろついている。でもかわいいから許す。


 時間までぐるぐるしたが、特に買えるお土産もなかった。しかし路地裏でジェラートの店を見つけたので買っちゃうことにした。ムラーノ島はジェラートが安い。いや、安いわけではないが観光地らしからぬ適正価格である。サーティーワンぐらいの価格で食べられる。

 味は「アマレット」にした。杏仁豆腐みたいでうまい。


 飛行機の時間に間に合うように余裕を持って行動したい。予約した便は夕方だが、もう空港に向かうことにした。空港までのバスはローマ広場から出ているので、ムラーノ島とはもうさよならである。

 帰りの水上バスでは船内の座席に座れた。船といってもそこそこ大きいので、喫水線もそれなり。窓の外すぐ下が水面である。日光を反射してきらきら光っていて、遠くに本島の街並みがぼんやりと見える。おまけに暖かな昼下がり、ぽっかぽかで心地よさMAX。なんだか眠くなってしまい、とうとう席でうたた寝してしまった。

 ここは日本ではない。人の多い交通機関で居眠りしていたら、何を盗られても文句は言えない。しかし気持ちよすぎた。春の日差しには勝てない。


 幸い、財布も命も盗られることなくローマ広場に到着した。

 近くにトイレの標識を発見した。昨日の教訓「トイレは行けるときに行っておくこと」から、入るには1.5ユーロ払う必要があったが躊躇なく入っておいた。イタリアの公衆トイレは有料が多い。日本のように、水と安全は無料ではないのだ。


 バスに乗りこんでヴェネツィアに別れを告げた。前評判通りに、いや、それ以上に素敵な街だった。

「観光客を虜にする」「まだ来たことのない人にはいつか来てみたいと思わせ、来たことのある人にはまた来たいと思わせる」と書かれたガイドブックに嘘はなかった。またイタリアに来る機会があったとしても、きっとヴェネツィアは目的地に入るだろう。


 バスに揺られること一時間。ヴェネツィア マルコ・ポーロ空港に到着した。自動チェックイン機でチケットを印刷し、アリタリア航空のゲートに向かう。

 不親切というか、どのゲートがどこにあるのか非常にわかりにくい。あーでもないこーでもないと空港内をうろうろしているうちに、飛行機がよく見えるスポットを見つけた友人が興奮し始めた。

 まだ搭乗まで一時間以上余裕があったので友人は飛行機の撮影を始め、私は旅行紀を書き始めた。何が起こるかわからない旅行中では早め早めの行動が必須である。特に、安い飛行機ばかり予約している私たちは遅れても待ってくれないし振替もしてくれない。絶対に遅れるわけにはいかないのだ。


 と思ったら飛行機のほうが遅れていた。

 のんびりスマホをいじりつつ待ち続け、夕日が沈み始める頃にようやく搭乗が始まった。ゲートを抜け、バスに乗って飛行機のところまで行く。

 そういえば、空港の建物があちこち煉瓦造りになっているのは初めて見た。おそらく煉瓦の下に鉄筋コンクリートがあるのだろうが、それにしたって他ではあまり見られない。

 特にトラブルもなく、飛行機はローマに向けて飛び立った。

 アリタリア航空の狭い座席にも慣れ、うとうとしているうちにローマ フィウミチーノ空港に到着。この空港も二回目である。


 旅行を繰り返すうちに見覚えのある空港が増えてくるが、特に上海浦東国際空港なんかは今までに四回以上使っている。福岡空港の次に使い慣れた空港であると言っても過言ではない。最初はわかりにくかったトランジットにも、今ではすんなり辿り着ける。成長を感じるぜ。


 空港から再びバスでローマ市街地、テルミニ駅へ向かう。今度のホテルもテルミニ駅の周辺である。

 数日前に乗ったときは昼過ぎだったこともあり、バスはすいすい走って快適なまま到着した。しかし今回は飛行機の遅れもあり、すっかり日も落ちた時間帯。バスが走っているうちに車が増え始め、そして渋滞に巻き込まれてしまった。


 窓の外はすっかり暗くなり、大量のテールライトで赤く染まっている。車が道路をぎっしり埋め尽くし、非常にのろのろとしか進めず、おまけにひっきりなしにクラクションが鳴り響いていた。交通マナーが悪いと言われる名古屋でさえ、ここに比べれば思いやりに溢れた素敵な場所だろう。

 数日前の倍ぐらい時間をかけてローマ市街を通り抜け、やっとテルミニ駅に着いた。実に一時間半。長い。

 とはいえ大学一年生の頃は毎日一時間半かけてバスで大学まで行き、一時間半かけてバスで帰っていた。それと同じくらいだと考えれば……いや、やっぱり長いな。


 夜のテルミニ駅では闇に同化した黒人たちが闊歩し、相も変わらず物騒な空気を纏っている。とても怖い。身長高めの男二人連れなので、よほどのことがない限り狙われないとは思うが、それでも怖い。

 そしてイタリア人は信号をあまり気にしないので、その点も怖い。歩行者は「お前が避けろ」と赤信号を歩いていくし、車は「お前が避けろ」とスピードを落とさずに突っ込んでくる。

 とはいえ中国でも似たような道路状況だったので、対処方法はわかっている。現地住民についていけばいいのだ。とはいえ、そうなると必然的に赤信号を颯爽と歩いて渡ることになる。止まってくれた車に頭を下げてしまうのは日本人の性か。


 暗めの高架下に差し掛かり、急いで通り過ぎようとしていると何かが目に入った。

 前転している。

 くるくると前転しながら道路を横断している男性がいる。

 旅行者っぽくはない。周囲に誰かいるというわけでもない。酔っているふうでもない。ただ一人で、黙々と道路を渡っている。前回りで。

 私たちは顔を見合わせて、それから一目散に逃げ出した。

 ああいうのが一番怖い。


 さて、かなり暗めの路地に面していて不安だったがなんとか無事にホテルに到着した。受付はラテン系のお姉さんである。前の客とスペイン語っぽい会話をしていて、私たちには英語で応対してくれたので、トライリンガルということだろうか。こんな安ホテルにいていい人材ではないのでは……?


 ベッドは三つあるのに二人で泊まるの? と訊かれてしまった。三人いますよ、ほら私の後ろに……ぐらい言えればよかったのだが、私の英語力では「ノープロブレム」で精一杯であった。

 っていうかベッド三つあるのか。一個フィレンツェのホテルに送ってくれれば一つのベッドに二人で寝ずに済んだのに!


 渡されたカードキーは真っ白で、部屋の鍵の解除の仕方がわからずにしばらく苦しんだ。謎の隙間にしゅっと通してみたり、むりやり押し付けてみたり。試行錯誤の末、ようやくピーっという音がして解錠された。使い方まで書いといてくれ。白紙のカードキーとか初めて見たわ。


 部屋に入ると、確かにベッドは三つあった。しかし、三つ並んだうちの中間のひとつはどう見ても即席、ソファか何かを変形させた簡易ベッドである。ベッドらしいベッドは実質二つなので、まあこれでよい。真ん中のベッドは荷物置きとして使うことにした。


 やけに寒いと思ったら、ベランダへの扉が開け放してあった。外に出てみれば実にいい景色……というわけでもなく、向かい側の建物しか見えない。

 いつもなら「ベランダ付きだなんて素敵なホテルだな〜〜」という感想を抱いていただろうが、ヴェネツィアで止まったホテルが立派すぎたせいか「安っぽいとこだな」としか思えなかった。やはり分不相応な贅沢はすべきでない。


 風呂には一応バスタブがあったが、なんだか変な匂いがするし、べとついてるし、石鹸はあるけどシャンプーはないし……という感じである。でもバスタブがあるだけありがたい。


 なーんて甘いことを考えていたのだが、そんな淡い充足は先に風呂に入った友人の叫び声によって無残にも打ち砕かれた。

「どうした?」

「バスタブに足が貼り付いた。これペンキ塗りたてだ」

 嘘だろ。何をどうしたらペンキがまだ乾いていない部屋に客を通そうと思うんだ。どういう神経してやがる。

 しかし私は、同時にある種の納得を感じていた。そうか、この変な匂い……塗りたてのペンキ、つまりシンナー的なものであったのだ。道理でテンション上がると思った。まさか旅行トリップ先で文字通りトリップすることになろうとは。


注:そこまで高濃度ではありません。


 友人が上がり、私がシャワーを浴びる番になった。見れば、友人の足型が床にばっちり残ってしまっている。ハリウッドか。

 備え付けのタオルをバスタブの底に敷き、足がくっつかないようにしてシャワーを浴びた。タオルはくっついていた。タオルには犠牲になってもらったのだ。次に来る素晴らしき時代の、その犠牲にな……。


 そして、シャンプーによって抜けた髪の毛も大量に貼り付いていた。完全にホラーである。掃除の人、頑張ってね。

 友人は超のつく天然パーマなので、友人の髪の毛が単体で落ちているとどうも別の部分の毛に見えてしまう。どことは言わないけどね。すまん。


 例によって洗濯の時間である。

 下着やシャツを洗面台で手洗いして、よくすすいでから干した。干し場所が足りないので、部屋の変なところにパンツをぶら下げる羽目になったりする。掃除の人、重ね重ね申し訳ない。まあ仕方ないか。


 ベッドにもぐりこんだ。

 シーツはなんとなく清潔そうな感じがするので一安心。

 しかしなんというか、いろいろと不安なホテルである。ここに三泊するのだ。大丈夫だろうか。いや、大丈夫じゃなくても泊まるんだけど。

 朝食付きとはいえ、朝食にもあまり期待しないほうがよさそうだ。


 明日の予定はコロッセオ、名所の中の名所である。

 イタリアも折り返し地点を過ぎた。体力とお金の許す限り、しっかり楽しみたい。

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