第53話


 いつ、どうやって、五百木いおき邸を出たのか杏子きょうこは全く憶えていなかった。

 憶えているのは蒼眞そうまのことだけ。

 蒼眞のやったことだけ。

 いや、違う。

 蒼眞と・・・、だ。

 私が望んだのだから。求めたのだから。

 私は喜んで従った。


 蒼眞との、あれこれ。

 数え切れない口づけと、同じ数の荒々しい抱擁。それから、それから……

 きっと今夜一晩中……ううん、一生、忘れない。

 忘れたくない。

 初めての人の愛のすがたを。



 とはいえ、杏子の記憶は曖昧模糊としていた。

 気がつくと自分の家に続く道を一人、歩いている。

 初夏の夜の匂いがした。青田の匂い。

 右手に通学鞄を下げている。

 いつもの習慣で、あんなことの後でさえ持ち帰るのを忘れなかったのだ。


 

失神してしまった私。

階段の下でサキさんの呼ぶ声がして、蒼眞さんが何か答えた。

 そうして、まだ朦朧としている私を優しく介抱して……

 衣類――制服もきちんと元通りに……?


「あ!」

 

改めて自分の身体を見下ろした、その時、杏子は気がついた。帆のスケッチブックを持っていないことを。

通学鞄は下げている。でも、あの大切な、重要な、〈X村連続婦女失踪事件〉の犯人特定に繋がるスケッチブックは何処?ーー 


「いやだ、私ったら、ボウッとして……」

 置いて来てしまった? しかも、蒼眞さんの部屋・・・・・・・に?

「どうしよう?」

 とはいえ、杏子はすぐに結論づけた。

「仕方がないわ。今日中に父さんに連絡して、見てもらうつもりだったけど、今夜は諦めよう……」

 あのスケッチブックは改めて、明日、こっそり取りに行けばいい。

 今は蒼眞さんのこと以外考えたくないから。

 蒼眞さんだって、気にしないに違いない。

 幸いなことに、蒼眞の部屋にもスケッチブックが数冊あったことを杏子は思い出した。

 似たようなのが一冊紛れ込んだところで画学生は気にも留めないだろう。

 だから、今は唯、この余韻を――初めて知った蜜を抱きしめて帰ろう。

 深く体内に閉じ込めて、誰にも渡したくはない。

 思い出が零れ落ちないように抱きしめて、今夜一晩、静かに愛の時間を反芻しよう。






 が――

 自宅の玄関の引き戸を開けた途端、杏子に怒声が降り注いだ。

「このバカ! 今まで、何をしていたっ!?」

 未だかつて聞いたことのない兄の恫喝だった。

「に、兄さん?」

(バレた?)

 流石に杏子は震え上がった。

 いけないことをした両手をギュッと握って背中に隠す。

「ご、ごめんなさい! でも、私……私は後悔はしていない! 本気で――」

「言い訳はいい、そんな暇はない! 俺はこれからすぐ行くからな!」

 どうやら兄の狼狽の原因は別の処にあるようだ。

「ど、どうしたの? 何かあったの?」

 兄から返ってきたのは予想もつかない衝撃の言葉だった。

興梠が・・・死にかけている・・・・・・・!」

「え?」

「やっちまった! 事故だよ! しかもこの近くだったらしい……」

「――」

「車は大破……! 奴は県立病院へ担ぎ込まれたっ……!」

「そ、そんな――」

「道を曲がりきれなくて崖下に転落したって、緊急搬送された病院から連絡があった。だが、おまえが戻るまで動きようがないんで――今まで俺はこうして待っていたんだぞ!」

 流石に杏子も一瞬で血の気が引いた。

「嘘……興梠さん、運転お上手なのに……」

「凄まじい事故だったらしい」

「ハッ、一人だったの? 同乗者はいた?」

 あまり一人では乗ることがないと言っていた興梠の言葉を思い出して反射的に訊いた杏子。

 妹の問いに険しい顔で直哉なおやは首を振った。

「いや、そこまでは俺は聞いていない。とにかく、そういうわけだ。俺は直ちに病院へ向かう。とりあえず、おまえは家で、待ってろ。何かあったら電話する」

 靴を履く手を止めて兄は言った。

「あいつ、天涯孤独の身の上らしいな? 意識を失う前に俺の名を告げたらしい。どうしても伝えたいことがあるって」

 ボソリと直哉は付け足した。

「全く、おまえの言う通りだよ」

 学帽を深く被りながら、

「俺はあいつが博学で面白い奴だと気に入ってたけど――それ以上深く知ろうとはしなかった。直感に頼っていい男だなんてわかったような口効く前に、もっと親身になって話を聞いてやればよかった」

「兄さん……」

「まあ、今更悔やんでも仕方ないな」

 いつものゆったりとした口調に戻って振り返る。

「じゃな、戸締りは厳重にするんだぞ!」

 妹と入れ違いに濃い闇の中に兄は飛び出して行った。





 何とも言えない嫌な気分がした。

 いつ帰るかわからない妹を待ちながら、気を紛らわせるためだろう、兄は風呂を焚いてくれていた。

 それに浸かりながら杏子はため息をついた。

「やっぱり、大嫌いだわ、あの人!」

 意地悪な言葉を吐いてみる。

 こういう形で、私の邪魔をするのね?

 せっかくの……一生に一度の〈特別な夜〉だったのに。台無し、滅茶苦茶だわ。

 真紅のオースチン7が目裏に浮かぶ。

 茶店の毛氈よりも赤かったそれ。

 実際、滅茶苦茶になったのはあの外車だ。

 風のように走った。素晴らしい乗り心地だった……


 ―― 凄まじい事故だったらしい。車は大破して崖底へ……この近くだ!


 何だって、興梠はこの辺りを走っていたのだろう?

 ひょっとして、私に会いに来た?

 ううん、まさか!

 慌てて首を振る。

 別れ際、二度と会うつもりはないと、きっぱりと申し渡してある。

 きっと、誰かを乗せてドライブでもしていたんだわ。

 自分だけの人形になってくれそうな誰か――可愛らしい子を乗せて。

 そうよ、そうに違いない。

 湯船の中の両手を見つめる。

ユラユラと揺れて、歪んで、自分の手のように見えなかった。

悪いことをしたから?

秘密を持ったから?

「いやだ、お伽話に出てくる悪魔の手みたい……」


 ―― お伽話は卒業。

 

 それを言ったのはゆかりだった。

 そう言ったきり戻ってこない友。

 蒼眞の部屋に置いて来た帆のスケッチブックを思い出した。

 紫の手はどうだった・・・・・・・・? やっぱり、こんなだったかしら? 

 ウィリアム・ブレイク描く《レッドドラゴン》の乙女と同じ、捩れる〝足の親指〟ばかり気にして〝手〟は見ていなかった……





「で、どんな容態なんですか?」

 

 N県立総合病院。二階の重篤者病棟。

 息せき切って駆けつけた直哉は廊下で看護婦に止められた。

 興梠の名を告げ、友人だと名乗ると、案内された一室に医師が待っていた。

 直哉は質問を繰り返した。

「容態はどうなんですか?」

「正直、芳しくありません。覚悟されておいたほうがよろしいかと」

「クソッ……」

 音を立てて椅子に腰を落とす直哉。

 やや間を置いて、幾分落ち着いてから、再び医師に尋ねた。妹が自分に投げかけた質問――

「それで、一人だったんですか? 他に同乗者は?」

「今のところは――」

 曖昧な言い方を医師はした。

「だが、場所が場所だ。沢に続く狭隘な崖下でね。車外に投げ出された可能性も否定できないと警察の方で引き続き捜索中です。尤も――警察が興味を持っているのはそれだけ・・・・じゃない」

「と言うと?」

 カルテを振りながら壮年の医師は言った。

「今回事故を起こした運転者からは大量の薬物が検出されました……」











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