第34話
近畿地方は昨日梅雨入りした。
降り続く雨。
ベッドの横の窓ガラスに張り付いてカタツムリがゆっくりと移動して行く。
カタツムリの造形はあの娘の舌を思い出させる。
―― 嫌だ、やめろよ?
あれは僕の望んだことじゃない。僕は拒絶した。なのに……あいつめ……
あいつは許さなかった……
―― 味あわせてよ? あなたの味はどんな?
―― 嫌だったら! この……酔っ払いめ!
でも、無駄だった。あいつ、僕を押さえつけて……
軟体生物が這うように緩慢に啜り上げるあの娘の舌。
―― やめてよ! 僕は女は好きじゃない!
悲鳴を上げて、僕は抗った。あの気色悪い感触から逃れるために。
最後には目を閉じて、祈り、懇願した。
助けて、
僕は貴方以外、嫌なんだ! 知ってるでしょう?
それなのに、なんで、こんな穢れた女なんかと――
僕があんなに苦悶していたのにあの娘ときたら止まらなかった。
―― フフ、可愛い……
―― やめろよ! 僕に向かってそんな言葉使うな!
―― だって、可愛いんだもの。ほら?
啜り上げる舌。
―― 無理しないでよ? 私だって悪くないでしょ?
―― 助けて、蒼眞さん! 僕からこの気持ち悪い生き物を剥ぎ取って!
早く!
容赦なく僕にむしゃぶりついて、
僕を咥えながらあの娘は耳障りな笑い声を上げる。
―― 女だって……悪くないでしょ……!
―― やめ……
「やめろよ!」
いきなり体が
事態を飲み込んでから、再度、少年は怒鳴った。
「少しは遠慮しろよ! なんて真似するんだ? これが蒼眞さんだったら、絶対こんなことできないくせに?」
少年の自室に乗り込んだ
ベッドで寝ていた少年の布団を力いっぱい毟り取ったのだ。
シーツの上で
「チェ、既に見てるから――僕の裸は全然平気ってわけか?」
挑発するように、どこも隠そうとせず起き直る帆だった。
「コワイナ―、女学生は」
「な、何よ! そんな格好で寝てるあなたがいけないんじゃない?」
杏子の方も動揺を(内心、少しは感じたのだが)微塵も顔に出さずに言い返す。
「パジャマくらい着なさい。それに――今、何時だと思ってるの? 午後の2時よ? まともな人間ならとっくに起きてる時間だわ! あなたの養育係は、ほんと、甘過ぎる」
「いいじゃないか。僕、昨晩は絵を描くのに夢中になって……つい夜明けまで起きていたんだ」
「とにかく――」
上掛けを戻した後で、改めて杏子は前回切り取って渡された例のルノアールの絵を突きつけた。
まだ、眠気眼まなこの少年に向かって、
「わかったのよ! あなたが投げかけたこの絵に隠された〈謎〉とやら、私、解いて来たんだから!」
腕を組んで、厳格な口調で杏子は言った。
「その絵の背景には〈塗り潰された人物〉が、一人、いるわね?」
♰
「この絵の背景――赤い部分には塗り潰された人物が、一人、いる」
「え?」
K帝大の図書館。
兄の友人で美学を専攻する
「ほら? よく見るとこの絵、構図に違和感があるでしょう? 向かって右上部、空間が空き過ぎてると思わない?」
「そう言われれば――」
「ね!」
約束の時間ピッタリに現れた興梠。
初見の好印象に反せず親切で爽やかな青年だった。何も知らない杏子に懇切丁寧に教えてくれる。
「元々この絵は完成作を依頼主が気に食わなくて購入を拒否したという曰くがあるんだよ――
それで、頭にきたルノアールは、構図だけ残して、前の女性二人は衣装を代え、場所も劇場の桟敷席風にして……要するに全く別の絵にしたんだ」
「そうなんですか?」
何もかも初めて聞くことで、杏子は驚きの連続だった。
「但し意識的に残した部分もある」
言って、興梠は胸ポケットに挿していたパーカーの万年筆で〝その部分〟をなぞってみせた。
「ほら、ここ! 依頼主の男性を描いてあった部分だ。完全に塗り潰すことをしないで、気づいた人には見える程度に、薄らと輪郭を残している」
「まあ!」
その通りだった!
「ね? 意識するとぼんやりと……人の影らしきものが見えるでしょう?」
興梠は鼻にかかった声で笑った。
「わざとですよ! 仮にもプロの画家なら完璧に塗りつぶすことはできたはずなのに。だから、これは、引取りを拒否した絵の依頼主に対する明らかな意趣返し――復讐です」
♰
「犯人は〈男性〉。これがあなたの言いたかったことでしょ?」
勝ち誇って杏子は言う。
「この絵の中に隠されているのが〈男性〉だから。でも、正直、私、がっかりしちゃった」
バンクチェアに音を立てて杏子は腰を落とした。
「絵の〈謎解き〉は意味深で、それなりに面白かったけれど、行き着いた〈解答〉は平凡で大したことなかった。だって、私、もっと重要な答えを期待してたから」
椅子の背に凭れると大きくため息をつく。
「新聞は何と書いてたっけ? 《X村連続婦女失踪事件》? その真犯人が〈男〉だなんて、そのくらい私だってわかってる。ううん、そんなの誰もが予想してるわよ」
布団に包まったままの帆がボソッと呟いた。
「……それだけじゃないかも知れないだろ?」
絵を拾い上げると、
「この中には、他にもっと色々……深い〈謎〉が散りばめられているかも……」
不思議な物言いに顔を上げる杏子。
「あら? じゃあ、何よ? 言ってみて?」
「例えばさ、この〈影の男〉を〝誰〟と見るか。それだけで、また色々読み解ける道が広がって行くんじゃないかな?」
「え?」
「この〈男〉を僕の父、
杏子は即答した。
「あなたのお母様、
五百木猩眞を巡って争った女たち。
「なるほど、そう来たか」
一度頷いた後で、帆は訊いてきた。
「それ以外の見方はできない?」
「……」
杏子は帆から目を逸らした。
さっきいきなり布団を剥ぎ取った時、目にした少年の肢体。
勿論、杏子は見逃してはいない。しっかりと見た。そう言う意味では、少年がいみじくも先刻言ったように〝二度目〟だったから。
帆のその部分がそそり立っていたこと。
(ふうん? あんな風になるんだ?)
それでも、思わずにはいられない。『可愛い』と。
こんな子相手なら、ちっとも怖いなんて思わないわ。恐怖なんて感じない。
「何だよ?」
さながら、杏子の心の声を聞いたように少年は体を硬くした。
「別に」
慌てて杏子は言った。
「あら? ほら、カタツムリ……窓の外……」
「知ってるよ、そんなこと」
帆は肩をいからせて繰り返した。
「それより、答えろよ。さっきの僕の質問。本当に〝それ以外〟の見方はできない?」
他に、道はない?
何処か――奈落かも知れない――へ導く細い通路……
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