第33話
「きゃ――……?」
斬られた、と思った。
鼻先に一枚、紙片が突きつけられていた。
美術書のページを
「持ってけよ」
「?」
「その絵の中に〈真犯人〉を示すヒントが隠されている。面白いだろ? ちょっとした〝謎解き〟さ」
それはルノアールの絵だった。
隅に印字されたタイトルは小さい上、英字のため、杏子は咄嗟に読むことはできなかった。
絵から少年へ視線を移す。
自分でも愚問だと思うことを訊いてしまった。
「本当? この話信じていいの?」
「信じる信じないはそっちの勝手さ! だけど――謎解きに挑戦してみて損はないんじゃない? どうせ暇なんだろ、杏子さん? 誰かさんのこと夢想する以外?」
少年は片目を瞑って見せた。
パリ仕込みの
「ワンワン! 言葉を喋れない〝犬〟からの贈り物だよ!」
「げきじょうのさじきせき……? なんだ、それ?」
ぶ厚い〈六法全書〉から顔を上げて
「《劇場の桟敷席》よ。でなければ、別名は《音楽会にて》。ルノアールの絵だわ」
夕食後の直哉の自室。
妹が差し出した紙片を、眼鏡を額へずらして凝視する兄。
「ふむ? で? この絵がどうかしたのか?」
「それがわからないから訊いてるのよ」
杏子はため息をついて、
「ねえ? この絵を見て、どう思う? 兄さんなら、何を読み取る?」
「何って……」
兄はピンと背筋を伸ばした。そういうところは父そっくりだった。
「まず、美しい絵だな! ルノアール? うん、いかにも、その画家らしい、心擽られる綺麗な絵じゃないか!」
僕は芸術にはさほど詳しくはないが、と前置きした後で直哉、
「だからこそ言うんだがね。ルノアールを嫌いな人はいないんじゃないか? 誰が見てもわかりやすくて美しいからな! この画家の絵なら応接間に飾りたいよ!」
「私も、そう思う。でも」
「でも?」
「この絵の中に〈謎〉があるとしたら?」
「嘘だろう? それこそ、ピカソやダ・ヴィンチの絵じゃあるまいし――」
そこまで言って直哉は言葉を止めた。額の眼鏡を引き下ろすと、
「待てよ、ダ・ヴィンチか……」
「何? 何かわかったの?」
「いやね、ピカソみたいな抽象画ならいざ知らず、ダ・ヴィンチはわかりやすい絵だよな? その、一見わかりやすい、写実的な絵にもかかわらず、実はダ・ヴィンチは自らの絵の中にいろんなメッセージを隠しているそうだ。だから、現在に至るまで研究家たちはそれを読み解くのに懸命になっていると聞いたことがある」
腕を組んで直哉は頷いた。
「だとしたら、ルノアールだって自分の絵の中に何か仕込んでいても不思議じゃないかもな。まあ、ダ・ヴィンチほどじゃなくても、〝謂われ〟とか、その絵が描かれた当時の状況とか……」
紙片を妹に返しながら兄は言った。
「そんなに知りたいんなら、
そう言うわけで、その週の土曜日、杏子はK帝大へ行った。
梅雨を予感させる雨交じりの
空は
思えば、先週は皆で十一面観音を見に行ったのだ。あの光燦めく午後の陽光は何処へ消えてしまったのだろう?
たった一週間しか違わないのに、と杏子は沈んだ気持ちになった。
とはいえ、自分が希望したことだ。きゅっとハンカチ――もはや、お守りと化している蒼眞にもらった例の水色のそれ――を握りしめて気を奮い立たせる。
これまでも、兄に連れられて何度か訪れたことのあるK帝大。首都のT帝大と並ぶ我が国の最高学府である。
待ち合い場所に指定されたその静謐な図書館は水族館を思わせた。
兄の友人が現れるまで、せっかくなので杏子はルノアールを始めとして、種々の絵画の画集を眺めて過ごした。
今度、蒼眞と会った時、絵画の話が出来るといい。
そんな風に思っている自分に気づかないふりをし続けながら。
『私はXの絵が好きです』
『へえ? それは意外だな! Xのどんなところが好きなの?』
『色使いかな。Xはとても美しい色を使いますよね?』
『驚いたよ! いい趣味をしているんだな、杏子さんは!』
『フフフフ――?』
空想の会話の中、画集を繰っていた手が止まる。
先週、法華寺へ向かう私鉄の中で、自分に似ている、と言って蒼眞が見せてくれた絵があった。
《ベアトリーチェ・チェンチ》 伝レーニ作
照れ臭くて、あの時はじっくりと見ることができなかったが。
今、改めて丹念に眺める。
白い装束、白いターバンを巻いた少女が、訴えるような目でこちらを見つめていた。
「――」
訴えるような目。
それもそのはずだ。少女ベアトリーチェは訴えるものが有り過ぎる。
(何よ、これ?)
その絵は、少女の処刑前日に描かれたものだった――
ベアトリーチェ・チェンチ 1599/9/11 斬首。罪名は殺人。
父を殺したのだ。
当時、家長殺しは大罪だった。
だが、それだけではない。
彼女が〈悲劇の少女〉と言われるのは、殺人を犯さざるを得なかった悲しい境遇だ。
美少女ベアトリーチェ・チェンチは実父フランチェスコ・チェンチの暴力と陵辱の犠牲者だった。
それを恨みに思っての凶行である。
清楚な白い衣装は画家の憐憫の贈り物だったのだ……!
当時の斬首は公開処刑と決まっていた。
罪人は上半身を裸に剥かれる。
衆人環視の元、清らかな白い乳房を晒し、処刑台に、大きく股を割って馬乗りにさせられ、首をはねられた少女。
――
一体、何を思って蒼眞さんは『似ている』などと言ったのだろう?
勿論、蒼眞さんは外見を言ってくれたのだ。(多分、お世辞も込めて)
私は、あの日、白い服を着ていたし。
きっと、それが、
だって、それ以外、全くかけ離れた世界だもの。
陵辱?
処刑?
「やあ、お待たせ!」
背後の陽気な声に杏子は、その凄惨な運命の少女から顔を上げた。
「君が直哉の妹さんの――杏子さんか? 僕が
現れた美学専攻のその人物、杏子の予想に反して、砕けた感じの気さくな青年だった。
杏子はもっと学者肌の強面を思い描いていたのだ。
黒のタートルネックにサージのズボン。兄の友人らしからぬお洒落である。
「で? どんなこと? 僕にわかることなら、何でもお教えしますよ!」
☆本編中のルノアール
www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=79635
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