第46話

「――?」


 開かれた扉の先――

 何もなかった。

 伽藍洞がらんどうの一室。

 床の凝ったモザイク模様が目に沁みるばかり。

 

 たもとを握りしめて杏子きょうこは質した。

「……何もありませんけど?」

「そりゃそうだ」

 落ち着き払って興梠こおろぎは言う。

「現在は何もない。十三年前に戻らなきゃ……」



 十三年前、この部屋の真ん中に寝台があった。

 その上にガラスの箱が置かれていた。

 箱の中には美しい一体の人形が寝かされていた。

 


「真珠母色の肌、漆黒の髪。腰まで伸びたその長い髪以外、一糸纏いっしまとわぬ姿だった」

「まあ……」

「ご覧なさい」

 青年は指差す。

見えるでしょう・・・・・・・?」


 実際、杏子には見える気がした。

 全身を悪寒が駆け抜ける――


「頭はそっち、足はこっち……」



 

 少年は凍りついてしまった。

 体が動かない。息すらできない。

 だが、目は――

 目だけは、しっかりと箱の中を凝視し続ける。

 やがて、手繰たぐり寄せられるようにヨロヨロとそれに近づいて行った。

 その足取りは少年自身が人形――マリオネットのように見えた。

 漸く口から溢れ出た言葉。


 ―― カナ?




「カナという名です」

「そのお人形が? 名前をご存知だったんですか?」

「生きている時に」

「え?」


 先刻から続いている奇妙な会話。

 奇妙な顔をして聞いている女学生。

「カナは生きていたんです。人形ではありません」

「でも、興梠こおろぎさん、人形って――」

「父にとっては、ね。父が人形にしたんです」

 目を細めると、

「世間一般には〈標本人形事件〉で流布していますよ。杏子さんは小さかったから記憶にないのでしょう」

 美学専攻の帝大生は淡々と語った。

「当時としては一大センセーション――未曾有の猟奇事件でした。〈ジキルとハイド〉と書いた新聞社もあります。もちろん、犯人である僕の父、興梠覚こおろぎさとるを指してのことです」


 興梠医院の院長・興梠覚(45)は看護婦志願でやって来た少女・はやしカナ(18)をその愛らしさに魅了されて殺害、遺骸を特殊な薬物を使用して防腐処置し〈標本人形〉となしたのである。博士はこれを自室に飾り、日夜愛玩していたという。かかる常軌を逸した身の毛のよだつ蛮行が我が国を代表する高名な医学者の手で行われるとは……! まさに世も末の万人嘆くべき事件である。            

            《大正十年(1921)十月○日付け ○○日報・抄》 




「どう言う理由や経緯があったのか、正確なところはわかりません。父は留置場で自死しました。隠し持っていた青酸カリを用いて」

 こうなることを予見してか、興梠覚は顧問弁護士に詳細な文書を残していた。

 被害者・林カナは孤児であったが、唯一の遠い親戚に謝罪金としてそれなりの金銭を渡し、自身の一人息子が将来困らない程度の財産も確保した。

「無論、興梠医院は廃業です」

 また湧き起こる遠い歓声。裏の高等学校の学生たちの青春の息吹き。

 チラと窓の方を見てから興梠は再び口を開いた。

「それにしても、父は何故あんな真似をしたのだろう? 世間で言っているように〝狂った〟と言ってしまえばそれまでなんですが」

 真剣な表情で息子は首を傾げる。

「カナが父を好いていないはずはないんだ。むしろ、カナの方も愛していたように子供心ながら感じました。休診時間、二人で手を繋いで裏庭を散歩する姿をよく見かけましたよ。ほら、そこ」

 窓の外にその影が過ぎった気がして杏子も思わずそちらを見てしまう。

 白衣の壮年の医師と白衣の愛くるしい若い看護師が笑いながら何事か囁きあっている。

「そんな時は僕も近寄れなかったな。恋人だけの世界、と言うんですか? あの独特の空間。だから――父が正式に求婚すればカナは拒否しなかっただろう」

 

 ある日の午後、看護婦になりたいと言って小さなトランク一つ下げて、突然やって来た少女、林カナ。

 看護婦の数は充分に足りていたがさとるは採用した。

 多分に同情心もあったろう、と当時、興梠医師の人柄を知る者たちは思った。

 身寄りがないとの理由でカナは適当な住居が見つかるまで暫く住み込みで働くことになった。

 可愛らしいだけでなく屈託がなくて明るくて、患者は無論、他の看護婦たちや使用人たちにもすぐに気に入られた。


「僕も大好きでした。時間がある時はいつも僕と遊んでくれた」

 

 そんなカナがふいにいなくなったのは働き出して、半年が過ぎた頃のこと。

 田舎に帰った、という院長の言葉を周囲の者は信じた。


 

 

 こんなところにいた・・・・・・・・・


 驚きの波が過ぎると少年はガラスの箱に歩み寄り中を覗き込んだ。

 

 ―― カナさんなの? 一体、どうしたのさ?


 手を伸ばしてその頬に触れる。引きつった肌。氷のようにひんやりしている。

 その冷たさが少年を驚かせた。

 ビクッとして一旦引っ込めた手を、もう一度伸ばす。

 額……頬……唇……

 暖かくて柔らかい部分を求めて撫でて行く。

 喉……そして……




「そして? カナさんて方は……最終的にどうなったんですか?」

 的確な質問に興梠は我に返ったように眼前の女学生を見つめた。

「ああ、あっけなく事が露見したんだ。僕が偶然見つけたように、家政婦がその部屋に入って――後は上を下への大騒動さ。カナは」

 暫く青年は口を閉じて虚空を見つめていた。

「カナさんは警察の手で収容されて、丹念に調べられた。いつ頃殺され、どのような処置を施されたのか。父の技術は画期的で驚異的だったそうです」

 詳しく知りたい? と青年は訊いた。

「死体の防腐処置はエンバーミングと言って西洋では歴史が古いんです。15世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチが祖とも言われていてね、彼は静脈にさまざまに調合した溶液を注入する方法を残しているんですよ。エンバーミングは19世紀のアメリカの南北戦争で、戦死した兵士の亡骸なきがらを生家へ送り届ける必要性から飛躍的に発展しました。この戦争で外科医トーマス・ホームズは、独自の秘密の防腐保存液を1ガロン3ドルで売って名を挙げたとか。それから、マルティン・ヴァン・バッチェルという男は歯科医だったのですが、病死した美しい妻を防腐処置して仕事場の窓辺に展示しました。現在はロンドンの王立外科医師会が引き継いで公開し続けているそうです。奥さんが亡くなったのが1775年たそうだから――今年で159年になりますね」

 流石に驚きの声を上げる杏子。

「159年! 死んだ人間の体を? そ、そ、そんなことができるんですか?」

「医学的な知識があれば可能です。父はこのバッチェルを真似たのかも知れないな。但し、父は自分で殺してから・・・・・それをやった。まさに〈異常な愛〉というわけです」

 改めて振り返えると、杏子の瞳を真っ直ぐに捕らえて興梠は言った。

「どうです? 僕はそんな異常な男の息子なんですよ?」

「で、でも、お父様はお父様です。いくらお父様が異常だったとしても――」

「同罪ですよ」

 きっぱりと興梠響こおろぎひびきは言った。

「僕は父親同様、口をつぐんでいた。家政婦みたいに取り乱しもせず。のみならず、ソレを見て以来、毎日のようにこっそり覗きに行っていた。警察に通報した家政婦をどれほど恨んだことか」

「――」

「カナは美しかった」

 熱を帯びた声で繰り返す。

「僕はカナが忘れられないんだ! どんな美しい絵画や彫刻に接しても、あの日見たカナを拭い去れない……どんな物もカナ以上に美しいとは思えない……」

「そ、それは、興梠さんが小さかったから――子供だったから、あまりにも印象が強過ぎたんだわ」

「あなたを光の中に住まわせたい、と言ったのは嘘です」

 唐突な言葉。

「あなたは見事に言い当てていたな? あの時、見透かされたようで僕はギョッとしましたよ」

 あまりにもいきなりだったので、訳がわからず杏子はたじろいだ。モザイクの床にフエルトの草履が摺れてキュッと鳴った。

「何のことでしょう?」

「縛り付けて……閉じ込める男より……解き放つ男の方が好き……」

 後ろから興梠は杏子を抱きしめた。

「嫌――っ!」




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