第45話

「あの……ここは病院だったの?」

 看板を見たから、訊いたのだが。

 先に邸に入った興梠こおろぎは足を止めた。

「やあ! 消毒薬の匂いは消えないものなんだな? もう閉業して十年以上経つというのに」

 そう言った後で、杏子きょうこの質問に答えた。

「そう。ここは医院でした。祖父が欧州から戻った明治十八年に建てたんです。フフ、僕は三代目に成りそこねた」

 杏子が肩をビクッと震わせる。遠くドッと歓声がこだました。

「裏に高等学校があるんですよ。今日は土曜日だからサッカーか何かの対抗試合でもやってるのでしょう。吃驚しましたか?」

 いつもの温雅な微笑を燦めかせて、

「この医院が開業していた頃は往診を待つ人が道の前まで溢れていたそうです。ご覧のとおり――今となっては学校ぐらいしかない閑静な丘の上ですがね」

 


 杏子を先導しながら興梠はゆっくりと邸の中を巡った。

 埃が積もってはいるものの建物自体は今なお美しく保たれていて廃墟という感じはしない。旅行中の家主が明日にでも帰って来る、だから、今は静かに時を止めて主人の帰還を待っている、そんな感じだった。

「元々祖父は美意識のある人だった上に、欧州で鍛えられて、帰国後、情熱を降り注いでこの医院を建てたんです」

 玄関ホールから廊下に続く床のモザイク模様。扉に嵌められたステンドグラスは全て違った意匠である。高い天井にはアールデコ調のランプ。

 病院というよりは、さながら、美術館のよう。

 思わず感嘆の息を吐いた杏子を見て、帝大生は言う。

「僕の一番のお薦めの場所は――実はトイレットです。祖父と来たら、何を考えていたんだか、そこの床の色タイルの美しいことったら……!」

「まあ!」

 目の当たりにして杏子も納得した。

 男性用は青地に白のカラの花、女性用は緑に黄色の向日葵の花のタイルが敷き詰められていた。

「当時の患者たちが用を足すのを嫌がったって話ですよ。綺麗過ぎて緊張してとても使用できないって。だから、ウチのトイレはいつまでも美しかった……!」

 ひとしきり笑ってから、改めて杏子に向き直る。

「一階は病院用です。住居は二階。向こうの内階段から上がりましょう」

 先刻の玄関ホールから始まって、廊下、そして、この階段の踊り場、いたるところに額が掛かっていた。

 杏子が問いかけるより早く、興梠が答える。

「ほとんどは祖父が欧州で購入して持ち帰ったものです」

 なるほど、自分の思った通りだ。杏子はこっそり笑った。

 興梠響こおろぎひびきはこうして、本物の美しいものに囲まれて、美しいものだけを見て、育ったのだ。


 

 二階には、台所と浴室。食堂とマントルピースを備えた広い居間があった。そして、それぞれの居室。

「興梠さん、さっき、ここには誰も住んでいないと言いましたよね?」

 率直に杏子は疑問を口にした。

「ご家族の方々は、今、どちらに?」

「何処にもいません」

「え?」

「祖父は僕が三歳の年に亡くなりました。母はもっと早い。僕を出産後、産褥熱で死んでしまったんだから。医者の妻だからって長命とは限らないんです。祖母も若くして亡くなったそうですし」

「まあ、それは……お気の毒です」

「いや、そんなだから、却って記憶に無い。特別に寂しいと思ったことはありませんよ」

 あくまでも明るく笑う美学専攻の青年だった。

「今にして思えば、僕は可愛げのない子供だったな! 本を読んだり、祖父の蔵書――それこそ唸るほどある画集を見たりして、おとなしく過ごしていた……」

 杏子は笑わずにいられない。

「あ、それ、想像できてよ」

「決していい子ぶったり、無理をしていたわけじゃない。ホントにそれで満たされていたんだ。毎日毎日、昨日よりも心をときめかす美しいものに出会えて……世界が輝いていました。アレを見るまでは」

「あれ?」

 帝大生の声のトーンが変わった。

 一旦窓辺へ寄って、後ろ手に腕を組む。

 杏子には逆光で影になった興梠の背中しか見えない。

 青年がどんな表情をしているか、わからなかった。

 やがて、決心したように青年は静かに息を吐いた。

「本当は、他人には金輪際明かすつもりはなかった。ですが、あなた・・・をこっちの世界――光溢れる世界に引き止めることができるなら、僕個人の恥なんて、どうでもいいです」

 振り返ると興梠響こおろぎひびきは言った。

「もう一度、下へ行きましょう」



 先刻素通りした、内階段の更に奥の方、一つの扉の前へと興梠は杏子を連れて行った。

「ここは父に絶対、入ってはならないと言われていた部屋です。父が書斎――研究室として使用していた」


 あの日は何がそうさせたのだろう? 

 今となってはその原因を皆目思い出せない。

 普段は父の言うことは絶対守る従順な子供だったのに。

 僕はこっそり覗いてしまった。

 その部屋の真鍮のドアノブのひんやりした感触まではっきりと憶えている――


 同じ冷たさ。

 そのドアノブを回して、興梠は扉を押し開いた。

「……ここです」






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