第6話
そう言うわけで、杏子(きょうこ)はパリ帰りの画学生・角田蒼真(すみだそうま)への疑いを晴らしたわけではなかった。
翌日。
日曜のその日、早速、散歩を装って五百木(いおき)邸の周辺を歩く。
と――
「!」
ポーンと目の前に丸太が飛んで来た。
コロコロ転がって道の端っこで止まるまで、杏子は立ち止まったまま凝視してしまった。
続いて垣根から飛び出して来たのは少年と犬。
言うまでもなく、少年は当家の孫息子、中学生の五百木帆(いおきかいで、犬はその飼い犬、シェパードのゴルトムントである。
「うあっ! また杏子さんか? よくよく驚ろかせてくれるなあ!」
「今度驚かせたのはそっちでしょ? 何? 犬の棒投げにしては太過ぎるんじゃない?」
呆れて杏子は首を振ってみせた。
「これ、〝棒〟じゃなくて、〝丸太〟だわ」
「違うよ」
少年は笑った。女の子にしたいくらい可愛らしい顔。
「正確には、これは〝丸太〟じゃなくて〝薪〟さ!」
帆は後ろを振り返って、
「今、薪割(まきわ)りをしてるんだ。ほら!」
指差した裏庭では、なるほど、浴衣を肩脱ぎして蒼真が薪を割っている。
思わず、杏子は目を細めた。
イヤだ、紺地の吉原つなぎなんて、婀娜(あだ)っぽ過ぎる。
兄の直哉も同じ柄を持ってるけれど、全然感じが違った。
だが、それ以上に――
蒼真の手に握られた斧。その刃先の鈍い光。
「本当は御祖父(おじい)さまが『鍛錬だ!』って、未だに帰ってくるたび、やってるんだけど」
祖父で国会議員の晋平は、元海軍の尉官だった。七十歳になる今も背筋がピンと伸びて堂々たる体躯の偉丈夫である。
皮肉なもので、後を嗣ぐべく期待された一人息子は病で早くに亡くなり、帆はその忘れ形見だった。
実は、早世したその息子の嫁は夫の闘病中に書生と恋仲になり、手に手を取って出奔した。
俗に言う〝駆け落ち〟である。
誰も口にこそ出さないが、村でこのことを知らない人間はいない。
そういう事情もあって、五百木翁は一人残された孫息子に愛情を注いでいた。
仕事柄、常に一緒にいられない分、自分の眼鏡に適った、高等師範出の聡明な養育係を付け、邸の中で最も明るくて広い部屋を子ども部屋にあてがっている。
この溺愛ぶりも、また、村中で知らない者はいなかった。
「ただ厄介になってるばかりでは何だからって、蒼真さんがやり始めたんだけどさ」
帆は小声で耳打ちした。
「ご覧の通り、御祖父さまのようにはいかないや。危なっかしくて見てられないよ。やっぱり、蒼真さんは斧より絵筆の方が似合ってるよね?」
少年の言葉を杏子は聞いてはいなかった。
吸い寄せられるように斧に目が行く。
ねえ? 行方不明の娘たちは誰もその身体(からだ)が見つかっていない。
もし、鋭利な刃物――斧のような――で体を斬り刻んだとしたら?
つまり、アレは充分、凶器になり得る。
でも、同じくらい目が離せなかったのは、浴衣の両袖を脱いで、上半身を晒している蒼真の姿だ。
汗が瓔珞(ようらく)のように燦いて、引き締まった浅黒い肌にキラキラ零れている。
ふと、思った。
凶器はどっちだろう?
あの刃物と、あのカラダと?
目前に迫って来たら、どっちに目を奪われる?
どっちから目を逸らせない?
やっぱり、と杏子は息を吐いた。
(あいつはとてもアブナイわよ……!)
「どうかしたの、杏子さん?」
少年の声に杏子は我に返った。
「ううん、何でもない――?」
気づくと、蒼真の姿が視界から消えていた。
慌てて、左右を見回す。
蒼真は蔵の横、納屋の前の暗がりに立っていた。
「またしても、飛ばしてしまった薪を追ってこっちへ来たんだけど――おい、妙なものを見つけたぞ!」
青年は影の中から叫んだ。
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