第5話
僕じゃないですよ」
緊張を孕んだ空気が流れる。
その中でパリ帰りだという青年は微笑を煌めかせて言った。。
「先刻も言いましたが、確かに僕はそのお嬢さんを描いたけど、一回だけ、それも日中の戸外で、時間にして小一時間くらいです」
木陰でスケッチしていた時、声をかけてきたのが紫(ゆかり)だったと言う。
興味深げにスケッチブックを覗いて、色々尋ねてきた。
とはいえ、もみくちゃにされた手の中のハンカチに少女の懸命さ、可憐さが感じられて悪い気はしなかった。『描いてあげようか?』と言うと頬を染めて喜んだ。
「これが、その時の絵、というわけですか?」
改めてスケッチブックを開いて直哉(なおや)はつくづくと息を吐いた。
「これが小一時間で描けるとは……!」
鉛筆だけの軽いタッチだったが、迷いがなく、少女の真髄――本質――を見事に捉えている。
紫を知る者なら、一目で彼女だと言い当てられるはずだ。
「このくらいの絵、蒼真(そうま)さんなら五、六分で描けるよ!」
目を輝かせて帆(かい)が言う。思わず杏子(きょうこ)が訊いた。
「あなたもその場にいたの、帆君?」
「ううん」
濃い睫毛を伏せて少年は首を振った。
「でも、僕も描いてもらったことがあるから……知ってる……」
「あなたが、夜、散歩してるっていうのは本当ですか?」
これには大学生も、中学生も口を閉ざした。
その場の空気が一瞬で凍りついた。
「驚いたな!」
角田蒼真(すみだそうま)が頭を掻きながら、
「そんなことまで知れ渡っているとは! それ、スケッチをしている時、何気なく語ったことですよ?」
そう? 紫はもっと教えてくれたわよ?
『真っ黒い髪が肩に揺れて、その風情がたまらなく素敵……』
「いや、僕は不眠症の気けがあって……ここらは静かなので、部屋で悶々としてるよりは、と歩き回って気を紛らわせているんです」
でも、逆に、と青年は笑った。
「そんな夜中だから、誰にも人には会いませんよ」
「おかしな言い方だな!」
少年は屈託ない笑い声を上げた。
「〝人に〟だなんて! それだとまるで〝人以外のもの〟には会うみたいに聞こえるよ?」
「会うよ」
と、蒼真。
阿修羅に?
咄嗟に杏子は問いたかった。が、それより早く青年は言った。
「狸とか狐とか、獣たち。連中は闇に目がキラッと光ってる……」
「おまえの向こう見ずには、ホント、ド肝を抜かれる! もう二度とあんな真似はやめてくれよ!」
帰り道、直哉は妹を諌めた。
「こんなだから、俺もおちおち下宿に戻れないんだ!」
兄妹の母は一昨年、病で急逝した。以来、仕事柄不在がちの父に変わって、帝大の近辺に下宿していた兄が家に戻って来た。流石に女学生一人で生活させるのを心配したからだった。
実際、付近で嫌な失踪事件も続いているし。
だが、そんな兄の配慮を妹はどこまで理解しているのやら。
「兄さんこそ――私のことより少しは自分のことに注意を向けるべきだわ」
「なんだ、そりゃ?」
「んもうっ! これだから――」
そんなに呑気で鷹揚だから出し抜かれるのよ。
口には出さなかったものの、隣りを歩く兄を横目で睨んで杏子は内心歯噛みした。
紫ちゃんは、つい最近までは兄さんのことまんざらでもなかったのに。
それを、兄さんが全然気づいてあげないから、一目であっさり〈あの人〉に持って行かれたんだわ!
でも――
確かに、紫ちゃんの気持ちもわからないではない。
杏子はこっそり思った。
角田蒼真は〈素敵なひと〉だ。
〝魂が震えるくらい〟……
パリ仕立てなんだろうか? 流行りの開襟シャツをゆったりと着て、鳥の子色のズボン。
真夜中、暗闇の中であんな人に出会ったら、私はどうするだろう?
ツイテイクカモシレナイ……
闇の中でキラリと光るのは獣の目だけではない。
あの人の瞳だって……
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